『日本書紀』慶長版は
「觀松彥香殖稻天皇大日本彥耜友天皇太子也母皇后天豊津媛命息石耳命之女也天皇以大日本彥耜友天皇二十二年春二月丁未立爲皇太子三十四年秋九月大日本彥耜友天皇崩明年冬十月戊午朔庚午葬大日本彥耜友天皇於畝傍山南纎沙谿上陵元年春正月丙戌朔甲午皇太子即天皇位夏四月乙卯朔己未尊皇后曰皇太后七月遷都於掖上是謂池心宮是年也太歲丙寅二十九年春正月甲辰朔丙午立世襲足媛爲皇后后生天足彥國押人命日本足彥國押人天皇六十八年春正月丁亥朔庚子立日本足彥國押人尊爲皇太子年二十天足彥國押人命此和珥臣等始祖也八十三年秋八月丁巳朔辛酉天皇崩」
【觀松彦香殖稻天皇は、大日本彦耜友天皇の太子だ。母の皇后天豊津媛命は、息石耳命の娘だ。天皇は、大日本彦耜友天皇の二十二年の春二月の朔が丁未の戊午の日に、皇太子に立った。三十四年の秋九月に大日本彦耜友天皇が崩じた。明年の冬十月の朔が戊午の庚午の日に、大日本彦耜友天皇を畝傍山の南の纖沙谿の上の陵に葬った。元年の春正月の朔が丙戌の甲午の日に、皇太子は、天皇に即位した。夏四月の朔が乙卯の己未の日に、皇后を尊んで皇太后と言った。秋七月に、都を掖上に遷した。これを池心の宮といった。この年は太歳丙寅である。二十九年の春正月の朔が甲辰の丙午の日に、世襲足媛を立てて皇后とした。后は、天足彦國押人命と日本足彦國押人天皇とを生んだ。六十八年の春正月の朔が丁亥の庚子の日に、日本足彦國押人尊を立てて、皇太子とした。年齢は二十だった。天足彦國押人命は、和珥臣等の始祖だ。八十三年の秋八月の朔が丁巳の辛酉の日に、天皇が崩じた。】とあり、二十九年春正月甲辰朔は前年の紀元前447年もしくは紀元前416年とどうして違うのかは情報が少なく判断できないが、これまでと違う皇后擁立で、皇后の擁立の記述は元年もしくは2年に多く記述され、紀元前447年に尾張王朝の始まりなのだろうか、そして六十八年春正月丁亥朔は12月30日で12月が小の月なら合致し、それ以外は標準陰暦と合致する。
この天皇は長男で妃も29年まで娶っていないので、ただ遷都したのみ、『舊事本紀』に「乃立靈疇於鳥見山中其地号曰上小野榛原下山小野榛原用祭皇祖天神焉于時皇輿巡桒因登腋々上嗛間丘而廻望國」とあり、腋上と鳥見はそれほど離れていないようで、前皇后が生存している時に遷都しているようだ。
そして、『舊事本紀』は「三十一年春正月瀛津世襲命爲大臣」と瀛津世襲が天皇の姻戚になるとすぐに皇太子と同等の大臣に就任し、瀛津世襲は同じく『舊事本紀』に「三世孫天忍人命此命異妹角屋姫亦名葛󠄀木出石姫非生二男次天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫為妻生二男一女妹忍日女命四世孫羸津世襲命亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖天忍男命之子此命池心朝御世為大連供奉次建額赤命此命葛󠄀城尾治置姫為妻生一男妹世襲足姫命亦名日置姫命此命腋上池心宮御宇観松彦香殖稲天皇立爲皇后誕生二皇子則彦國押人命次日本足彦國杵人天皇是也孫天戸國命天忍人命之子 此命葛󠄀木避姫為妻生一男」と高倉下の家系でまだ葛城と呼ばれていない地神の葛城氏の祖の劔根の娘を妃にした子が羸津世襲で、この皇子は葛城を統治する葛城彦で、羸津世襲の従弟も葛城氏の姻戚で、觀松彦は『舊事本紀』に「髙尾張邑或本云髙城邑有赤鯛八十梟帥」と髙尾張邑・髙城邑と同等で、「磯城邑有磯城八十梟帥」の磯城邑は磯城縣主と呼んだこともあるので、髙尾張縣主・觀松縣主と呼んでも良いのかもしれず、葛城氏は觀松八十梟帥と呼ばれた十勇士の一人で八国の流れをくむ氏族で、葛󠄀木彦が後に天皇となって、觀松彦が葛城氏を名乗るのである。
さらに、4世瀛津世襲が孝昭天皇と義兄弟なのに『舊事本紀』は「七世孫建諸隅命此命腋上池心宮御宇天皇御世爲大臣」と後代の7世の人物も孝昭天皇の大臣としているように、羸津世襲と重複させていて、さらに、「十世孫淡夜別命・・・次大原足屋筑紫豊國國造等祖置津與曽命之子」と「羸津世襲」の王朝が4世から10世の孫まで続いた。
すなわち、尾張王朝は紀元前447年から『舊事本紀』に「十三世孫尾綱根命此命譽田天皇御世爲大臣」と応神天皇の前まで、9世弟彦の子で弟彦は景行天皇紀に出現したことから、神功皇后のころまで続いたことを示している。
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