『日本書紀』慶長版は
「當歸伏秋八月癸卯朔己酉倭迹速神浅茅原目妙姫穗積臣遠祖大水口宿祢伊勢麻績君三人共同夢而奏言昨夜夢之有一貴人誨曰以大田田根子命爲祭大物主大神之主亦以市磯長尾市爲祭倭國魂神主必天下太平矣天皇得夢辭益歡於心布告天下求大田田根子即於茅渟縣陶邑得大田田根子而貢之天皇即親臨于神浅茅原會諸王卿及八十諸部而問大田田根子曰汝其誰子對曰父曰大物主大神母曰活玉依媛陶津耳之女亦云奇日方天日方武茅渟祇之女也天皇曰朕當榮樂乃卜使物部連祖伊香色雄爲神班物者吉之又卜便祭他神不吉十一月丁卯命伊香色雄而以物部八十平所作祭神之物即以大田田根子爲祭大物主大神之主又以長尾市爲祭倭大國魂神之主然後下祭他神吉焉便別祭八十萬群神仍定天社國社及神地神戸於是疫病始息國內漸謐五穀既成百姓饒之八年夏四月庚子朔乙卯以髙橋邑人活日爲大神之掌酒冬十二月丙申朔乙卯天皇以大田田根子令祭大神是日活日自舉神酒獻天皇仍歌之曰能瀰枳破和餓瀰枳那羅孺椰磨等那殊於明望能農之能介瀰之瀰枳伊句臂佐伊久臂佐如此歌之宴于神宮即宴竟之諸大夫等歌之曰磨佐開瀰和能等能能阿佐妬珥毛伊弟氐由介那瀰和能等能渡塢於茲天皇歌之曰宇磨佐階瀰和能等能能阿佐妬珥毛於辭寐羅箇祢瀰和能等能渡焉(烏)即開神宮門而幸行之所謂大田田根子今三輪君等之始祖也」
【秋八月の朔が癸卯の己酉の日に、倭迹速神淺茅原目妙姫と穗積臣の遠祖の大水口宿禰と伊勢麻績君の三人が共に同じ夢を見て、「昨夜、夢を見て、一人の貴人がいて、『大田田根子命に、大物主大神を祭る神主として、また、市磯長尾市を、倭の大國魂神を祭る神主とすれば、必ず天下は穏やかに治まる』と諭された」と奏上した。天皇は、夢の話を聞いて、益々心から歓んだ。広く一般に告げ知らせて、大田田根子を求めて、茅渟縣の陶邑に大田田根子を見つけた。天皇は親ら神淺茅原に行って、諸王卿及び八十諸部を集めて、大田田根子に「お前は誰の子だ」と聞いた。「父は大物主大神という。母は活玉依媛という。陶津耳の娘だ」と答えた。また「奇日方天日方武茅渟祇の娘だ」と言った。天皇は「私は、これで豊かに栄えるだろう」と言った。すなわち物部連の祖の伊香色雄に、神のお告げを聞く者にしようと占うと吉と出た。また、他の神を祭ることを占うと不吉とでた。十一月の朔が丁卯の己卯日に、伊香色雄に物部の八国風の十の盞で、神を祀る物とするよう命じた。すなわち大田田根子に、大物主大神を祭る神主とさせた。また、長尾市に、倭の大国魂神を祭る神主とさせた。この後、他の神を祭ることを占うと、吉と出た。それで別に八国の十柱の萬神の群神を祭った。それで天杜・国杜、及び神地・神戸を定めた。それで、やっと疫病が終息しだして、国内が段々安らかになった。五穀が実り、百姓は豊かになった。八年の夏四月の朔が庚子の乙卯の日に、高橋邑の人の活日を、大神の酒造にした。冬十二月の朔が丙申の乙卯の日に、天皇は大田田根子に、大神を祭らせた。この日に、活日が自ら神酒を捧げて、天皇に献上した。それで、(略)此のように歌って、神宮で酒盛りした。すなわち宴会が終わって、諸大夫等が(略)と歌ったので、天皇も(略)と歌って三輪の殿門、即ち神宮の御門を開いて、行幸した。大田田根子は、今の三輪君等の始祖だ。】とある。
七年八月癸卯朔と八年四月庚子朔は標準陰暦と合致するが、七年十一月丁卯朔は合致せず、合致するのは崇神44年の紀元前54年で、伊香色雄が神と国民の間に立つ天皇に就任し、三輪宮の門が御門と呼ばれ、すなわち朝廷のことで、翌紀元前53年から元号が始まったと『二中歴』が記述している。
『二中暦』に「継体五年 元丁酉」と517年に継体元年、そして、前文に「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政」と年号が始まって569年経って、その間結縄刻木だったが、年号が始まって569年後の517年に継体年号が紙もしくわ扶桑の皮に記述されたと述べている。
そして、「物部連等祖宇摩志麻治命與大神君祖天日方奇日方命並拜為申食國政大夫也・・・大夫者今大連大臣」とあるように、物部氏の伊香色雄と三輪君の祖の大田田根子が皇太子と同等の地位を得たと記述している。
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