『日本書紀』慶長版は
「大日本根子彥國牽天皇大日本根子彥太瓊天皇太子也母曰細媛命磯城縣主大目之女也天皇以大日本根子彥太瓊天皇三十六年春正月立爲皇太子年十九七十六年春二月大日本根子彥太瓊天皇崩元年春正月辛未朔甲申太子即天皇位尊皇后曰皇太后是年也太歲丁亥四年春三月甲申朔甲午遷都於輕地是謂境原宮六年秋九月戊戌朔癸卯葬大日本根子彥太瓊天皇于片丘馬坂陵七年春二月丙寅朔丁卯立欝色譴命爲皇后后生二男一女第一曰大彥命第二曰稚日本根子彥大日日天皇第三曰倭迹迹姫命妃伊香色譴命生彥太忍信命次妃河內青玉繋女埴安媛生武埴安彥命兄大彥命是阿倍臣膳臣阿閇臣狹狹城山君筑紫國造越國造伊賀臣凢七族之始祖也彥太忍信命是武內宿祢之祖父也二十二年春正月己巳朔壬午立稚日本根子彥大日日尊爲皇太子年十六五十七年秋九月壬申朔癸酉大日本根子彥牽天皇崩」
【大日本根子彦國牽天皇は、大日本根子彦太瓊天皇の太子だ。母を細媛命という。磯城縣主の大目の娘だ。天皇は、大日本根子彦太瓊天皇の三十六年の春正月に、皇太子に立った。年齢は十九歳だった。七十六年の春二月に、大日本根子彦太瓊天皇が崩じた。元年の春正月の朔が辛未の甲申の日に、太子は、天皇に即位した。皇后を尊んで皇太后と呼んだ。この年は太歳丁亥だ。四年の春三月の朔が甲申の甲午の日に、都を輕の地に遷した。これを境原の宮といった。六年の秋九月の朔が戊戌の癸卯の日に、大日本根子彦太瓊天皇を片丘の馬坂の陵に葬った。七年の春二月の朔が丙寅の丁卯の日に、欝色謎命をたてて皇后とした。后は、二柱の男児と一柱の女児を生んだ。第一を大彦命という。第二を稚日本根子彦大日日天皇という。第三の柱を倭迹迹姫命という。妃の伊香色謎命は、彦太忍信命を生む。次妃の河内の青玉繋の娘の埴安媛は、武埴安彦命を生む。兄の大彦命は、阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狹狹城山君・筑紫國造・越國造・伊賀臣、すべてで七族の始祖だ。彦太忍信命は、武内宿禰の祖父だ。二十二年の春正月の朔が己巳の壬牛の日に、稚日本根子彦大日日尊を皇太子に立てた。年齢は十六歳だった。五十七年の秋九月の朔が壬申の癸酉の日に、大日本根子彦國牽天皇が崩じた。】とあり、元年春正月辛未は12月30日、四年春三月甲申は前月が小の月で3月2日、六年秋九月戊戌は8月30日でどの月が大の月でどの月が小の月なのかの判断の違いで、他は標準陰暦と合致する。
この天皇は長男(実際は次男で長男は天皇と一心同体で記述されない可能性が高い)なので、皇后の住む宮に入り婿で遷って、前天皇の皇后を新しい宮の輕地に呼び寄せたのであり、この天皇は義兄欝色雄(出雲出身で欝に住む醜)の物部氏を背景とした天皇となり、そして、長男の大彦は
筑紫國造・越國造の祖と大国主が領地にした土地を領有したと記述する。
「河内青玉繋女埴安媛」は『舊事本紀』に「乘天磐舩而天降坐於河内國河上哮峯則遷坐於大倭國鳥見白庭山天降」と河内と鳥見は隣り合わせで、神武東征で五瀬が負傷したのは茅淳で河内の近辺だった。
そして、『舊事本紀』に「欝色雄命・・・活目長砂彦妹芹田真誰姬為妻生一兒」と長髄彦とよく似た名前の王の妹が欝色雄の妃で、『舊事本紀』に大彦と武埴安彦の戦いや大田田根子の説話が無いなどから、『舊事本紀』の神武説話が大彦と武埴安彦の戦いと述べた。
そして、『古事記』は「比古布都押之信命娶尾張連等之祖意富那毗之妹葛城之高千那毗賣生子味師内宿祢又娶木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣生子建内宿祢此建内宿」とあり、もちろん、比古布都押之信から建内宿祢までに数代の長男継承があるが、葛城氏の領地に婿入りした比古布都押之信の末裔が倭国造の本家で後に木國造になる宇豆比古の妹との子が建内宿祢で、建内宿祢の名の建は名門の建氏の人物で、欝の王である。
すなわち、この天皇説話は物部氏を背景とした朝廷で「鬱色雄命爲大臣」と鬱色雄(出雲醜・出雲色雄)大臣は皇太子と同等となり、物部氏の分家で磯城瑞籬宮で崇神天皇(実質の神武天皇)が即位し、皇太后の父が磯城王(縣主)と長髄彦の王朝が記述され、葛城氏は倭国造で重職にあり、葛城王の皇子を婿に迎え入れることになる尾張氏と義兄弟の王である。
すなわち、この天皇の時に饒速日(出雲醜)が天降して磯城彦大目の娘真鳥姫(御炊屋姫)を妃として宇摩志麻治(鬱色雄)が生まれた物部王朝の始まりを記述したのである。
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