2019年7月12日金曜日

最終兵器の目 開化天皇

 『日本書紀』慶長版は
稚日本根子彥大日日天皇大日本根子彥國牽天皇第二子也母曰欝色譴命穗積臣達祖欝色雄命之妹也天皇以大日本根子彥國牽天皇二十二年春正月立爲皇太子年十六五十七年秋九月大日本根子彥國牽天皇崩冬十一月辛未朔壬午太子即天皇位元年春正月庚午朔癸酉尊皇后曰皇太后冬十月丙申朔戊申遷都于春日之地是謂卒川宮是年也太歲甲申五年春二月丁未朔壬子葬大日本根子彥國牽天皇于剱池嶋上陵六年春正月辛丑朔甲寅立伊香色譴命爲皇后后生御間城入彥五十瓊殖天皇先是天皇納丹波竹野媛爲妃生彥湯彥隅命次妃和珥臣遠祖姥津命之妹姥津媛生彥坐王二十八年春正月癸巳朔丁酉立御間城入彥尊爲皇太子年十九六十年夏四月丙辰朔甲子天皇崩冬十月癸丑朔乙卯葬于春日卒川坂本陵
【稚日本根子彦大日日天皇は、大日本根子彦國牽天皇の第二子だ。母を、欝色謎命という。穗積臣の遠祖の欝色雄命の妹だ。天皇は、大日本根子彦國牽天皇の二十二年の春正月に、皇太子に立った。年齢は十六歳だった。五十七年の秋九月に、大日本根子彦國牽天皇が崩じた。冬十一月の朔が辛未の壬午の日に、太子は、天皇に即位した。元年の春正月の朔が庚午の癸酉の日に、皇后を尊んで皇太后という。冬十月の朔が丙申の戊申の日に、都を春日の率川に遷した。この年は太歳甲申だった。五年の春二月の朔が丁未の壬子の日に、大日本根子彦國牽天皇を劒の池の嶋の上の陵に葬った。六年の春正月の朔が辛丑の甲寅の日に、伊香色謎命を立てて皇后とした。后は御間城入彦五十瓊殖天皇を生んだ。これより先に、天皇は、丹波竹野媛を召して妃とした。彦湯産隅命を生む。次妃の和珥臣の遠祖の姥津命の妹の姥津媛は、彦坐王を生んだ。二十八年の春正月の朔が癸巳の丁酉の日に、御間城入彦尊を、皇太子に立てた。年齢は十九歳だった。六十年の夏四月の朔が丙辰の甲子の日に、天皇は崩じた。冬十月の朔が癸丑の乙卯の日に、春日の率川の坂本の陵に葬った。】とあり、六年春正月辛丑は12月30日、六十年夏四月丙辰は3月30日で、他は標準陰暦と合致する。
開化天皇は兄大彦から政権を奪って欝色雄の春日宮に遷都して磯城の天皇の皇后を春日に迎えいれ、『舊事本紀』に「八年春正月以大祢大綜押命為大臣・・・二月伊香色雄命爲大臣」と皇太子と同じ権力を持つ大臣となり、伊香色雄は「大倭國山邉郡石上邑則天祖授饒速日尊自天受來天璽瑞寶同共蔵齋号日石上太神以為國家」と石上神宮に天皇の璽を奉納し伊香色雄が天皇ということになる。
出雲の醜から鬱の色雄そして伊香の色雄と色雄の名を襲名し、色雄が天皇の璽を持って、神武天皇の侵略前夜、物部氏から神武天皇が天皇の璽を得て即位することになる。
天皇になった伊香色雄は「山代縣主祖長溝女真木姫爲妻生二兒山代縣主祖長溝女荒姫娣玉手並爲妾各生二男倭志紀彦女真鳥姫爲妾生一男」と何人も妃のための後宮を持ち、伊香色雄が皇太子大臣で「在山代國我之庶兄建波迩安王」と山代は埴安の支配する土地、その土地を義父に与えて、義父は大彦すなわち尾張氏で、大彦の家系は次代の天皇で、皇子に倭彦がいる。
『古事記』は「娶葛城之垂見宿祢之女鸇比賣生御子建豊波豆羅和氣・・・迦迩來米雷王此王娶丹波之遠津臣之女名高材比賣生子息長宿祢王此王娶葛城之高額比賣生子息長帯比賣命次虚空津比賣命次息長日子王」と孝元記の建内宿祢と同様に息長帯比賣の葛城氏との血縁関係を強調し、葛城氏も宿祢という天皇に対抗する氏族になり、本家の葛城氏に対して分家の建内宿祢の葛城氏は「稚」国の根子の地位となった。
注目すべきは、同じく『古事記』に「日子坐王・・・娶近淡海之御上祝以伊都玖天之御影神之女息長水依比賣生子丹波比古多多須美知能宇斯王・・・其美知能宇志王娶丹波之河上之摩須郎女生子比婆須比賣命次真砥野比賣命次弟比賣命次朝庭別王此朝庭別王」と近淡海に銅鐸を持つ伊勢遺跡の朝庭がもう一つあり、『日本書紀』「次妃和珥臣遠祖姥津命之妹姥津媛生彥坐王」と和珥臣が別朝廷で、「天足彥國押人命此和珥臣等始祖也」、『舊事本紀』に「七世孫大御氣主命此命大倭國民磯姫生二男八世孫阿田賀田須命和迩君等祖」と和珥臣は天日方奇日方の家系のようだ。
この開化朝廷は天日方奇日方・磯城津彦の建()氏と宇摩志麻治の物部氏と高倉下の神武天皇・尾張氏が重なった『舊事本紀』が記述する神武東征の舞台背景で、葛城氏の稚日本根子彦のような倭の官職名が消えた、すなわち、神倭国や大(国の)倭国の直属の配下から違う勢力の配下、天皇の直属の配下となったことを示している。

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