2019年6月26日水曜日

最終兵器の目  綏靖天皇2

 『日本書紀』慶長版は
元年春正月壬申朔己卯神渟名川尊即天皇位都葛城是謂髙丘宮尊皇后曰皇太后是年也太歲庚辰二年春正月立五十鈴依媛爲皇后即天皇之姨也后生磯城津彥玉手看天皇四年夏四月神八井耳命薨即葬于畝傍山北二十五年春正月壬午朔戊子立皇子磯城津彥玉手看尊爲皇太子三十三年夏五月天皇不豫癸酉崩時年八十四
【元年の春正月の朔が壬申の己卯の日に、神渟名川耳尊は、天皇に即位した。葛城に都つくる。これを高丘宮という。皇后を尊んで皇太后という。の年は太歳庚辰である。二年の春正月に、五十鈴依媛を立てて皇后とした。すなわち天皇の叔母だ。后は、磯城津彦玉手看天皇を生む。四年の夏四月に、神八井耳命薨じた。すなわち畝傍山の北に葬った。二十五年の春正月の朔が壬午の戊子の日に、皇子の磯城津彦玉手看尊を立てて、皇太子とした。三十三年の夏五月に、天皇は病気で経過が良くなかった。癸酉の日に、崩じた。その時八十四才だった。】とある。
元年春正月壬申は標準陰暦と同じで二十五年春正月壬午は前日で大の月で概ね合致している。
そして、皇后はやはり大物主の娘で大物主の屋敷、すなわち、葛城の地に住み、大物主の娘婿となり、八井耳が大物主を継いだのだろうか。
私は、大環濠集落(宮)内の一軒が渟名川耳の家で、その環濠集落の外の環濠で守られていない渟名川の集落を支配したのだろうと思い描いている。
天皇家に戻って、綏靖天皇は神武天皇の皇后を葛城の宮に迎えて皇太后とすることで、橿原宮の配下の人々も綏靖天皇に服従し、日本の王朝継承の方法が定まり、天皇である神を宮に祀り、そこに、神と同等の禰宜がいて、人は天皇という宮にいる人も天皇と呼び、前天皇の皇后と現在の皇后と皇太子がいるワンセットが朝廷となり、その宮が天皇なのだから、そこで相続される限り同じ名前の天皇となり、同一人物であろうと、遷都すれば天皇名が変わるのである。
『古事記』は「娶師木縣主之祖河俣毗賣・・・天皇御年肆拾伍歳御陵在衝田」と、神渟名川耳に子は一人なのだから、この「渟名川」邑長は「河俣毗賣」の後に磯城縣主になる河俣宮に婿入りし、この父は磯城津彦で、その直属の配下に玉手看はなったのだろう。
しかも、『日本書紀』84歳死亡に対して、『古事記』は45歳で2倍年歴でもなく、『日本書紀』の84歳は宮があった年月で、古事記は13歳で神渟名川耳の名を得て33年間その地位にあったことを示し、さらに、『舊事本紀』は「至四十八歳神日本磐余彦天皇崩」と48歳で即位。在位33年で81歳死亡となり、神武29年生まれなのだから、この天皇は何代目かの神武天皇の従弟にあたりそうだ。
これに対して『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は「孫都味齒八重事代主神化爲八尋熊鰐通三嶋溝材女活玉依姫生一男一女兒天日方奇日方命此命橿原朝御世勑為食國政申大夫共奉妹鞴五十鈴命此命橿原朝立為皇后誕生二兒即神渟名河耳天皇次彦八井耳命是也次妹五十鈴依姫命此命葛󠄀城髙岳朝立爲皇后誕生一兒即磯城津彦玉手看天皇也」と事代主の娘は1人なので、天日方奇日方命の義妹が神渟名河耳天皇の皇后で『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版に「三世孫天日方奇日方命亦名阿田都久志尼命此娶日向賀牟度美良姫生一男一女兒建飯勝命」と天日方奇日方が婿入りした建氏の力で統治をした天皇であることが解る。
ここで、立皇子が問題になるが、玉手看は一人っ子なのだから、13歳になれば自動的に皇太子で渟名川は『古事記』の綏靖天皇は45歳死亡すなわち在位が33年なのだから12歳おそらく13歳になった時、後を継いでいるように、天皇以外は20歳以下でも継げ、皇太子は実質国を統治する人物である。
皇太子を立てたということは新しい統治者が決まったことを示し、王朝が変わったことを意味するので、ある王家の家系が変わったことを示し、葛城髙丘宮は宮が始まった時皇太子が居たので、それ以外の統治者が変わったことを示すに過ぎない。
すなわち、ある王朝の王を橿原宮の王の中に記述したが即位して32年目に違う家系の王が即位して髙丘宮の王として記述したことを意味し、それによって、中国の史書と対応させたのであり、そのような記録を持った王朝は漢と交流があった倭奴国しかないと論証してきた。
そして、『古事記』は『日本書紀』で描いた幾人かの綏靖天皇の一人を抜き出して太子になってから崩じるまでを記述した。

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