2019年6月17日月曜日

最終兵器の目  神武天皇2

 『日本書紀』慶長版は
媛命以爲正妃辛酉年春正月庚辰朔天皇即帝位於橿原宮是歲爲天皇元年尊正妃爲皇后生皇子神八井命神渟名川耳尊故古語稱之曰於畝傍之橿原也太立宮柱於底磐之根峻峙搏風於髙天之原而始馭天下之天皇号曰神日本磐余彥火火出見天皇焉初天皇草創天基之日也大伴氏之遠祖道臣命帥大來目部奉承密策能以諷歌倒語掃蕩妖氣倒語之用始起乎茲
【辛酉年の春正月の庚辰が朔日に、天皇は、橿原宮で帝に即位した。是歳を天皇の元年とした。
正妃を尊んで皇后とした。皇子の神八井命・神渟名川耳尊を生んだ。それで「畝傍の橿原に、太い宮柱を立てて底に敷いた磐を拠り所にした。「はふ」が大きく立派で高の海人の原に立てた。それで、始めて天下を治める天皇を、名付けて神日本磐余彦火火出見天皇という」と宣言した。初めて、天皇が 天の土台を建てる日だ。大伴氏の遠祖の道臣命が大来目部を率いて、密かに練った策を受けて、作った歌と返歌を歌うのはここに初めて起こった。】とある。
この日が唯一つの特別な干支が並ぶ日で、前日は小の月の12月29日で間違うと12月30日となってしまう日で、この日に建国宣言を常とう句のように記述している。
この「宮柱於底磐之根」は大国主、大己貴、火瓊々杵、神武が建てていて、 大己貴は大国主に就任したのだから、初代大国主が高天原に建てて、「始馭天下之天皇」となり、それぞれの王朝の初代天皇はみな「始馭天下之天皇」なのである。
そして、その天皇というのは、宮柱を基礎に立派な「はふ」がある宮殿があり、当然そこは神殿で神様が祀られ、その神様が天皇で、この宮が続く限り天皇は代わらず、例えば葛城神、物部神と代を継いで同名の天皇となる。
そこには、天皇神と一心同体の禰宜、例えば磐余彦が代々襲名し、その土地の姫を皇后として、また、その禰宜の長男・長女が皇太子として天皇と一心同体の国を統治する最高権力者となり、原則、皇太子は13歳以上でないと就任できず、また、天皇も原則20歳以上でないと即位できず、そうでないと叔父の婿入り先に政権が遷ってしまう。
原則というのは、本来宮の象徴は姫で、王朝が変わった時、前天皇の皇后を招き入れて、皇太后として王朝を継承するが、皇太后が存命なら皇后が皇位を継承することができるようで、神功皇后や推古天皇、皇極天皇、斉明天皇がそれにあたり、証拠がないが白鳳年号が683年まで続いた原因は「鏡姫王薨」の記事で『興福寺流記』の「内大臣二竪入夢七尺不安嫡室鏡王女」の内大臣は入鹿ではと考えている。
それなら、『日本書紀』天武天皇二年の「天皇初娶鏡王女額田姫王生十市皇女」はこの天武天皇が日並とすれば、元明天皇は蘇我氏の嫡流で正当な倭王となり、ずっと引っ掛っている白鳳23年683年の疑問、天智天皇即位時も日本建国時も改元されなかった疑問が払しょくされる。
すなわち、敏達天皇の皇后の「太珠敷天皇之皇后額田部皇女」と額田の姫推古天皇によって物部王朝から蘇我王朝に、蝦夷の皇后皇極天皇によって蘇我王朝から天氏王朝、並行して物部鎌姫の子の入鹿の皇后の娘元明天皇によって蘇我王朝から中臣王朝で、天氏と中臣氏の家系が相争ったということになる。
それで、「是歲爲天皇元年」が意味を持ち始め、『二中歴』の「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干」の記事にも意味があり、紀元前53年に即位した天皇から初めて元号が始まり、この時は干支だけだったのであり、紀元前53年は孝昭天皇の時代の途中なのだから、ここから、天皇個人が変わった時改元したのであり、宮の天皇すなわち王朝が変わった時の改元が紀元前660年から始まったということである。
この後、日本書紀は王朝天皇の改元を710年まで記述し続け、紀元前53年から天皇その人が交替した時も改元し、紀元前14年から干支に合わせて元号も記述、517年の継体元年からは天皇個人の交代に加えて、適時、記念すべきトピックがあると改元したと考えられる。

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