2019年6月5日水曜日

最終兵器の目 神武東征8

 『日本書紀』慶長版は
冬十月癸巳朔天皇嘗其嚴瓮之粮勒兵而出先擊八十梟帥於國見丘破斬之是役也天皇志存必克乃爲御謠之曰()謠意以大石喩其國見丘也既而餘黨猶繁其情難測乃顧勅道臣命汝宜帥大來目部作大室於忍坂邑盛設宴饗誘虜而取之道臣命於是奉密旨掘窨於忍坂而選我猛卒與虜雜居陰期之曰酒酣之後吾則起歌汝等聞吾歌聲則一時刺虜已而坐定酒行虜不知我之有陰謀任情徑醉時道臣命乃起而歌之曰()時我卒聞歌倶拔其頭椎剱一時殺虜虜無復噍類者皇軍大悅仰天而咲因歌之曰()今來目部歌而後大哂是其縁也又歌之曰()此皆承密旨而歌之非敢自專者也時天皇曰戰勝而無驕者良將之行也今魁賊已滅而同惡者匈匈十數群其情不可知如何久居一處無以制變乃徙營於別處
【冬十月癸巳朔に、天皇が、その厳瓮の糧を供える祀りを行い、兵力をととのえて出撃した。まず八十梟帥を国見の丘で撃ち破って斬った。この役で、天皇が志し、必ず勝と思っていた。すなわち謡って(略)その意味は、大きなる石をその国見の丘に喩えた。既に、残った輩はまだ煩わしくて、その気持ちを測ることができない。すなわち思いめぐらして道臣命に「大きな囲いを忍坂の邑に作って、盛大な宴席を設けて、敵を誘い入れろ」と詔勅した。道臣命がここに、密議を承り、あなぐらを忍坂に掘って勇猛な味方の兵を選んで、捕虜と一緒にした。ひそかに約束して「酒宴がたけなわになった後、私が起ち上がって歌う。お前たちは、私の歌声を聞いて、一斉に捕虜を刺せ」と言った。すでに坐る場所も定り、酒も行きわたり、捕虜が、我々の陰謀が有ることを知らないで、こころのまま、ほしいままに酔いしれた。その時、道臣命が、起ち上がり歌い(略)終わった時に我々の兵が、歌を聞いて、皆その頭椎の剱を拔いて、一斉に捕虜を食べ残しが無いほど殺した。皇軍は大変悦んで、見上げて咲った。それで歌って(略)今、來目部が歌った後に大きく哂うのは、これの縁だ。また歌って()これは皆、密事を承けて歌った。自ら勝手に行ったことでは無い。この時、天皇は「戦いに勝って驕らないことは、良い將の行いだ。今、賊の首領をすでに滅ぼして、同じく悪意のある者、かまびすしい十数の群がいる。その心情を知ることができない。どうしてずっとここに居て、政策を取り決めることが出来ようか」と言った。それで別の所に陣屋をうつした。】とある。
「十月癸巳朔」は標準陰暦と合致し、計算ではなく、日本国の前身の建国前からすでに干支を使った年代があった可能性が否定できない。
『史記』卷三 殷本紀 第三帝辛に「武王於是遂率諸侯伐紂 紂亦發兵距之牧野 甲子日紂兵敗」、『尚書』の武成 に「惟一月壬辰旁死魄越翼日癸巳王朝步自周于征伐商 厥四月哉生明王來自商至于豐」と紀元前1000年より以前の日干支が残り、『山海經』海外南經に「狄山帝堯葬于陽,帝嚳葬于陰」と暦を作った堯帝の墓が日本海南部にあり、『論衡』の恢国篇第五八に「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」と日干支を使っている成王と対面しているのだから、日本人の知識階級が知らないはずが無い。
歌は省略したが、この辺りはまだ直截的で理解できるが、恋歌になると背景も心情も複雑になり、論評も難しく正確性を欠くことになるため、直截的な歌も論評を控えたが、三史書とも載せていてかなり有名な歌のようで、『日本書紀』慶長版の「伽牟伽筮能伊齊能于瀰能於費異之珥夜」【神風の伊勢の海の大石にや】と久米歌に出現し、クジラ漁の歌を歌うクジラ漁をする久米氏の故郷に伊勢がある。
すなわち、伊勢が記述されたからと言って直線的に伊勢神宮のある伊勢とは言えない、そして、伊勢神宮もいくつかあることを頭にいれて理解しなければならない。
また、この敵の八十梟帥が出現しているが、久米氏のクジラ漁の歌と共に記述されていることから、本来は奈良県の山の中の戦いではなく、山の戦いの歌では陳腐なので、日本海の海沿いの戦いで大国と八国の戦いを神武東征に挿入した可能性が高い。

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