『日本書紀』慶長版は
「三月辛酉朔丁卯下令曰自我東征於茲六年矣頼以皇天之威凶徒就戮雖邊土未清餘妖尚梗而中洲之地無復風塵誠宜恢廓皇都規摹大壯而今運属此屯蒙民心朴素巣棲穴住習俗惟常夫大人立制義必隨時苟有利民何妨聖造且當披拂山林經營宮室而恭臨寶位以鎮元元上則荅乾靈授國之德下則弘皇孫養正之心然後兼六合以開都掩八紘而爲宇不亦可乎觀夫畝傍山東南橿原地者蓋國之墺區乎可治之是月即命有司經始帝宅庚申年秋八月癸丑朔戊辰天皇當立正妃改廣求華胄時有人奏之曰事代主神共三嶋溝橛耳神之女玉櫛媛所生兒号曰媛蹈韛五十鈴媛命是國色之秀者天皇悅之九月壬午朔乙巳納媛蹈韛五十鈴媛命以爲正妃」
【三月朔が辛酉の丁卯の日に、「私が東征を始めて、これで六年になった。海人国の王の威光に頼って、謀反を起こした者を殺しつくした。辺境の地は未だにさっぱりしておらず、残りの怪しい者たちはまだ邪魔をしてはいるけれど、中洲の土地は、戦乱が無い。本当に広々と大きい皇都は、大変立派で手本とするべきだ。しかし運命的に国の始めを任されそして民の心はすなおである。家や洞窟に住む習慣が常識となっている。それで大人国の制度が始まって、人道に従ってきた。かりに人民に利が有れば、とうして聖人が造った決まりを邪魔だてしようか。まさに山林を開き払って、宮室を経営して、つつしんで天子の位に臨んで、よって立つ人々を鎮めよう。上は北西の神霊が授けた国の道徳に答え、下は皇孫が養う正しい心をひろめる。その後に、六合も一緒に都を開き、八の紘(つな)でおおって天地四方としよう。これができるのだろうか。見ると、かの畝傍山を見ると、東南の橿原の地は、思うに国の奥地で力が及んでいないから、治めよう」と命令を下して言った。この月に、役人に命じて、帝の家を造り始めた。庚申年の秋八月朔が癸丑の戊辰の日に、天皇は、正妃を立てようとした。改めて広く高貴な生まれの姫を求めた。その時に、ある人がいて「事代主神が三嶋溝橛耳神の娘の玉櫛媛と共に生んだ子を、なづけて媛蹈韛五十鈴媛命といいます。この姫は、国柄がすぐれた人物だ」と奏上した。天皇はよろこんだ。九月の朔が壬午の乙巳の日に、媛蹈韛五十鈴媛命を納めさせて、正妃とした。】とある。
標準陰暦と比較すると、辛酉は2月30日で2月を小の月とすると合致し、庚申年の八月は7月が小の月にも拘らず合致している。
天皇の下命の内容は新しく即位するときの常とう句のようで、北西の神霊は隠岐の島後の神、六合は天の付く6島の国で、隠岐の大島は「八」国の綱で国引きして建国し、その六合と綱で作った国を併せた国の制度が大人(国)の制度すなわち、大人国の建国の宣言で、その様子は洞窟に住む人と家に住む人が混在していた。
そして、その国は「なか国」で宇迦の山がある地出雲の地で、『山海經』の海外東經・大荒東經・大荒北經の船を造る「大人國在其北為人大坐而削船一曰在镸丘北」、海外南經の神靈が生まれる「地之所載六合之閒四海之內照之以日月經之以星辰紀之以四時要之以太歲神靈所生其物異形或夭或壽唯聖人能通其道海外自西南陬至東南陬者」と記述される場所である。
この様子を常とう句に「なか国」建国に使い、さらに、事代主が支配していた磐余にまず住まいを作って適当な婿入りできる領主、ここでは人柄を重視せず国柄を重視して探して、事代主の娘五十鈴媛に婿入りできたのであり、なぜ「なか国」かといえば、最初に『日本書紀』の安康天皇まで記述した女系王朝の出発点が「なか国」だったからである。
『古事記』前川茂右衛門寛永版は「勢夜陀多良比賣・・・美和之大物主神・・・生子名謂富登多多良伊須須岐此賣命亦名謂比賣多多良伊須氣余理比賣」と「美和之大物主」の娘「伊須須岐此賣」、『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は「皇妃姫韛五十鈴姫命立爲皇后即大三輪神女」と「三輪神」の娘の「五十鈴姫」、さらに、「事代主神與三嶋溝撅耳神之女立櫛媛所生之鬼號曰姬媛蹈鞴五十鈴姬」と『日本書紀』と同じ「事代主」の娘「五十鈴姫」で同一史書で2人の神武天皇を記述している。
すなわち、姫の名「たたら・いすす」は地名で、そこに生まれた姫は代々それらを名乗り、新しい支配者が来るたび政略結婚で迎え入れたのであり、最初に三輪神、次に大物主、次に事代主、そして、それら、三輪神が支配した時に配下になった神武、大物主が支配した時に配下になった神武、事代主が支配した時に配下になった神武がいた。
そして、実際の神武天皇は溝撅の義理の子供すなわち、『舊事本紀』に「都味齒八重事代主神化爲八尋熊鰐通三嶋溝材女活玉依姫生一男一女兒天日方奇日方命・・・妹鞴五十鈴命此命橿原朝立為皇后・・・次妹五十鈴依姫命」とあるように天日方奇日方がそれにあたる。
系図上の兄弟は義理の兄弟も従弟も含まれて、血縁系図ではなく、宮に住む縁者の家族構成を示し、後継の長男は父親と同一視されて、直系の皇子は直系の姫も含めて襲名として親と同じ名前で記述されず、直系が途絶えた時に系図が次に進むと考えられ、溝撅の子が一男一女なのに2人の姉妹がいることから証明されていて、五十鈴依姫は五十鈴姫の次女で直系の五十鈴姫が存在する。
『日本書紀』の対象である1400年間の26世代41代の天皇の家系では確実に足りず、1世代20年(親子の年代差)とすると70世代、1世代30年でも47世代が必要で、古代のどんな系図を見ても、それほど歴史がある系図を見ないのは、宮を単位とした系図だからであり、3~4世代もあれば1人くらい子が生まれなかったり、子が早死にして家系でが途絶えたり、権力が有れば有るほど暗殺や戦乱で命を落とす。
『日本書紀』は長男・長女が相続する女系の王朝で、分家すなわち男系が相続するときに王朝が変わり、男系王は新たな異なる王朝の女系天皇に婿入りし、前王朝の皇后を皇太后として迎え入れるのである。
そして、だから『日本書紀』は信じられないと思考停止の声が聞こえてくるが、何度も言うが日干支の朔を8世紀の官僚がどのように計算したか、どうして、想像なら適当に書き加えればよいのに欠史8代が存在するか、元明・元正天皇はどうして複数の訛りが混在して読みづらい史書を許したか、どうして、中国史書と『日本書紀』の内容があっていたり間違っていたりするのかと、このような疑問に答えなければならないし、間違っているにしろ、合っているにしろどちらも、史書を流用する場合は合っている理由と間違っている理由が必要である。
私は『日本書紀』が首都の歴史で、首都の出来事は正しく、その中に他の複数の王朝の王が記述されていて、その王たちは違う時代の人物だと証明してきたので、時代が違っている理由のみ証明している。
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