2019年6月12日水曜日

最終兵器の目 神武東征11

 『日本書紀』慶長版は
己未年春二月壬辰朔辛亥命諸將練士卒是時層富縣波哆丘岬有新城戸畔者又和珥坂下有居勢祝者臍見長柄丘岬有猪祝者此三處土蜘蛛並恃其勇力不肯來庭天皇乃分遺偏師皆誅之又髙尾張邑有土蜘蛛其爲人也身短而手足長與侏儒相類皇軍結葛網而掩襲殺之因改号其邑曰葛城夫磐余之地舊名片居亦曰片立逮我皇師之破虜也大軍集而滿於其地因改号爲磐余或曰天皇往嘗嚴瓮粮出軍西征是時磯城八十梟帥於彼處屯聚居之果與天皇大戰遂爲皇師所滅故名之曰磐余邑又皇師立誥之處是謂猛田作城處号曰城田又賊衆戰死而僵屍枕臂處呼爲頰枕田天皇以前年秋九月潛取天香山之埴土以造八十平瓮躬自齋戒祭諸神遂得安定區宇故号取土之處曰埴安
【己未年の春二月朔が壬辰の辛亥日に、諸將に命じて兵士を鍛えた。この時に、層富の縣の波哆の丘の先に、新城戸畔という人がいた。また、和珥の坂下に、居勢の祝という人がいた。臍見の長柄の丘の先に、猪祝といい人がいた。この三所の土蜘蛛は、その勇しい力をたのみにして、来朝を拒否した。天皇はそれで一部の兵を分けて派遣して、皆殺しにした。また高尾張の邑にも、土蜘蛛がいた。その人となりは、身長は短く手足が長い。侏儒と似ている。皇軍は、葛の網を束ねて、被せる方法で襲撃した。それであらためてその邑を名付けて葛城という。それが磐余の地で、元の名は片居という。亦は片立という。我が皇軍の敵を破るにいたって、大軍が集まってその地に満ち溢れた。それで名付けて磐余とした。あるいは、「天皇が以前、厳瓮の糧を供て、軍を出撃して西を征った。この時に、磯城の八十梟帥が、そこに大勢が集まっていた。それで天皇と大戦した。ついに皇軍の為に滅ぼされた。それで、名付けて磐余の邑と名付けた」という。また皇軍が立ち上がって申しわたしたところを、猛田という。城を作った所を、名付けて城田という。又、賊達が戦死して倒れた屍が、肘を枕にしたところを頬枕田と呼んだ。天皇は、前年の秋九月に、密かに天の香山の土を取って、八国の十の平らな盞を造って、みづから身を清めて諸神を祭った。ついに天下を区分けして安定させた。それで、土を取った所を名付けて埴安いった。】とある。
やはり、標準陰暦と同じで、ここでは侏儒に似た柄が小さい土蜘蛛が登場するが、『山海經』大荒東經に「有小人國名靖人有神人面獸身名曰犁之尸」と小人国が有って神邑を思わせる有神と記述し、有名な『三国志』倭人伝の「有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里」は景行天皇の熊襲征伐の『日本書紀』「到速見邑有女人曰速津媛・・・土蜘蛛住・・・於直入縣祢疑野有三土蜘蛛・・・」と3文献が小柄な種族を記述している。
そして、磐余彦が住み着いた場所は元片居でこの侵略で磐余と変わり、それは葛城の領内だと記述している。
神武東征の大和侵入は、2つの分析法があり、1つは地名で、最初の侵略した地名は「長髄是邑之本号」と「長髓」でそれが「時人仍号鵄邑今云鳥見」と鵄そして鳥見と変化するのだが、饒速日は「飛降者謂是饒速日」と鵄に天降ったと思われ、神倭磐余彦が侵入した時に鵄と名前が付いたのだからその後である。
そして、鳥見に変化したが、神武天皇の皇后は(都味齒八重)事代主の娘若しくは孫で、この場合の饒速日は実際は大巳貴の可能性が高く、そこに事代主が侵略して、神倭磐余彦がさらに入ってきたのだから、この地を支配したのは事代主から神倭氏にさらに大国が支配した大倭に代わり、「宇摩志麻治」が「宇摩志麻治命率天物部而翦夷荒逆亦帥軍平定海内」と「海内」は中国で言う天下の一部で、天下を平定して天皇の璽を持っていたので宇摩志麻治が大倭王だ。
もう一つ分析法は戦った相手で、最初は兄弟猾でこの支配者は大巳貴、それを破ったのは高倉下でそれを長髓彦が破り、そして、饒速日が長髓彦と義兄弟になり、長髓彦の分家の磯城彦が饒速日を破り、神武天皇が磯城彦の義兄弟(懿徳天皇から孝霊天皇は磯城縣主の娘を妃にしている)になったという構図で、磐余彦が侵入した時は神倭王朝で、それを継いで行くのが葛城氏の役職名(彦→耳→彦・神倭→大倭)と婚姻関係だ。

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