2019年6月24日月曜日

最終兵器の目   日本書紀巻第四  綏靖天皇1

 『日本書紀』慶長版
神渟名川耳天皇神日本磐余彥天皇第三子也母曰媛蹈韛五十鈴媛命事代主神之大女也天皇風姿岐嶷少有雄拔之氣及壯容貎魁偉武藝過人而志尚沆毅至四十八歲神日本磐余彥天皇崩時神渟名川耳尊孝性純深悲慕無已特留心於喪葬之事焉其庶兄手硏耳命行年已長久歴朝機故亦委事而親之然其王立操厝懷本乖仁義遂以諒闇之際威福自由苞藏禍心圖害二弟于時也太歲己卯冬十一月神渟名川耳尊與兄神八井耳命陰知其志而善防之至於山陵事畢乃使弓部稚彥造弓倭鍛部天津真浦造真麛鏃矢部作箭及弓矢既成神渟名川耳尊欲以射殺手硏耳命會有手硏耳命於片丘大窨中獨臥于大牀時渟名川耳尊謂神八井耳命曰今適其時也夫言貴密事宜愼故我之陰謀本無預者今日之事唯吾與爾自行之耳吾當先開窨戸爾其射之因相隨進入神渟名川耳尊突開其戸神八井耳命則手脚戰慄不能放矢時神渟名川耳尊掣取其兄所持弓矢而射手硏耳命一發中胸再發中背遂殺之於是神八井耳命懣然自服讓於神渟名川耳尊曰吾是乃兄而懦弱不能致果今汝特挺神武自誅元惡宜哉乎汝之光臨天位以承皇祖之業吾當爲汝輔之奉典神祇者是即多臣之始祖也
【神渟名川耳天皇は、神日本磐余彦天皇の第三子だ。母は媛蹈鞴五十鈴媛命という。事代主神の長女である。天皇は、、幼いころから容貌や仕草が堂々としていて、見るからに勇ましく、先頭に立っても並外れて優れ、武術も並外れていた。それで志は落ち着いてしっかりしていた。四十八歳になった時、神日本磐余彦天皇が崩じた。その時に神渟名川耳尊は、父母を敬い、葬りとむらう時は飾り気がなくとても深く悲しみ慕って自我を持たないことを特に心に留めた。その庶兄の手研耳命は産まれて年が既に長く過ぎ、朝廷の要として長く経ていた。そのため、委ねられた仕事をみずから行ったが、王に立って私心で国を治め、根本から人の道に背いた。そして、天皇が崩じた時には、人を思いのままに従わせ、欲いままだった。誰にも気付かれないように悪事を企み(『春秋左氏伝』)、二人の弟をそこなおうとした。その時、太歳己卯の冬十一月に、神渟名川耳尊は、兄の神八井耳命と、ひそかにその志を知って、上手く難を防いだ。山に葬ることを終えて、弓部稚彦に弓を造らせて、倭鍛部天津眞浦に小鹿を討つ鏃を造らせ、矢部に箭を作らせた。弓矢が完成したので、神渟名川耳尊は、手研耳命を射殺そうとした。手研耳命が、片丘の大きな部屋に一人でいるのを見たら、寝台の中で寝ていた。その時に渟名川耳尊は、神八井耳命に「今が丁度その時です。その計画は、忍んで、実行は慎重でなければならない。だから、私の陰謀を、もとから預かり知る人はいない。今日の事は、ただ私とあなたとで実行するのみ。私がすぐに部屋の戸を開けます。あなたは射って」と言った。それで共に連れ立って進入した。神渟名川耳尊は、その戸を突き開けた。神八井耳命は、手脚を振るい慄かせて、矢を射ることが出来なかった。それで神渟名川耳尊は、押し止めてその兄の持っている弓矢で手研耳命を射た。一発胸に命中した。二発目が背に命中して、遂に殺した。ここで、神八井耳命は、憤り恥じててみずから弟に服従した。神渟名川耳尊に皇位を讓って、「私は兄なのに、意気地なしで弱く結果を出せなかった。今あなたは特に抜きんでて神のように猛々しくて、自分で元凶を誅した。あなたは皇位に最適で、あなたが天皇位に光り輝いて臨んで、皇祖の本務を継承してください。私は、あなたを助けますから、神々に対する儀礼を奉納してください」と言った。これが多臣の始祖だ。】とある。
神武天皇が複数の人物の記事の寄せ集めであることを述べたが、実際の神倭磐余彦は神国の倭国造珍彦の配下の磐余の邑長で彦の配下でやはり彦でよいのだが、なぜか皇子の手研耳命は耳で、『三国志』の「伊都國官曰爾支」と甕棺墓の中心で「特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史」と一大率を置いた伊都国の冠位が主で、同じ甕棺墓を持つ投馬国が「投馬國水行二十日官曰彌彌」と耳の冠位を持っているのだから、下位の大和の冠位が耳で上位の神国は事代主のように主の冠位を持つ国だとわかる。
国の力関係が伊都国→投馬国(五萬餘戸)→一大国(三千許家)すなわち主→耳→彦の冠位の順である。
従って、五十鈴媛を妃にしたのは3代目くらいの磐余彦を襲名した手研耳で上司が事代主若しくは大物主、おそらく、『舊事本紀』に「都味齒八重事代主神坐倭國髙市郡髙市社亦云甘南備飛鳥社」と「とみ」・「は」の「八重国」の支配者事代主の配下となって、珍彦との力関係が同等以上になったのである。
『舊事本紀』に「大巳貴神坐倭國城上郡大三輪神社」と三輪の地は大巳貴が支配していたが『古事記』の神武の皇后は大物主の娘なのだから、大物主が大巳貴の領地を奪ってその配下に手研耳がいて、この時が紀元前660年で「とみ・ながすね」の地は大巳貴を祀る長髄彦が支配していた。
神武東侵時に52歳の磐余彦と手研耳は共に戦っていて既に30歳位で大物主の娘に婿入りし、その子供が氏素性のよい王と認められるのだろう。
そして、綏靖天皇は 寝ている時に手研耳を暗殺したクーデタで葛城の宮で生まれ育った神渟名川耳が政権を奪い取ったのだが、この事件は、葛城氏の事件ではなく実際の天皇家の事件で、  最初から五十鈴媛の子で中れば支配地に受け入れられないのである。
橿原宮の天皇がクーデタで葛城高丘宮の皇子が政権を奪い、橿原宮の姫の子たちで51年間橿原宮が続いたことになり、葛城に宮があるということは、手研耳の上司が天皇になったことを意味し、葛城氏は天皇の部下になり、葛城氏はこの時に賜姓されたのかもしれない。
それが『古事記』の「建沼河耳」の建氏は天皇と同姓、建氏が天皇になったため葛城氏を与えられ、神国直属地の沼河の数千戸を支配する邑長に出世し、神国王の神主が天皇である。

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