2019年6月19日水曜日

最終兵器の目 神武天皇3

 『日本書紀』慶長版は
二年春二月甲辰朔乙巳天皇定功行賞賜道臣命宅地居于築坂邑以寵異之亦使大來目居于畝傍山以西川邊之地今号來目邑此其縁也以珍彥爲倭國造又給弟猾猛田邑因爲猛田縣主是菟田主水部遠祖也弟磯城名黑速爲磯城縣主復以剱根者爲葛城國造又頭八咫烏亦入賞例其苗裔即葛野主殿縣主部是也四年春二月壬戌朔甲申詔曰我皇祖之靈也自天降鑒光助朕躬今諸虜已平海內無事可以郊祀天神用申大孝者也乃立靈畤於鳥見山中其地号曰上小野榛原下小野榛原用祭皇祖天神焉三十有一年夏四月乙酉朔皇輿巡幸因登腋上嗛間丘而廻望國狀曰姸哉乎國之獲矣雖內木錦之真迮國猶如蜻蛉之臀呫焉由是始有秋津洲之号也昔伊弉諾尊目此國曰日本者浦安國細戈千足國磯輪上秀真國復大己貴大神目之曰玉牆內國及至饒速日命乗天磐舩而翔行太虛也睨是鄕而降之故因目之曰虛空見日本國矣
【二年の春二月朔が甲辰の乙巳の日に、天皇は、手柄の有無を考え功績に応じた賞を与えた。道臣命に邸宅を建てる土地を与え、築坂邑に住まわせ、特にかわいがられた。また大来目を畝傍山の西の川端の土地に住まわせた。今、来目邑と名付けられているのは、その縁である。珍彦を倭國造とした。また、弟猾に猛田邑を与えた。それで猛田縣主とする。これは菟田の主水部の遠祖だ。弟磯城、名は黒速を、磯城縣主とした。また劒根は、葛城國造とした。また、八咫の烏の棟梁もまた恩賞に入れた。その後裔は、すなわち葛野の主殿の縣主部がこれである。四年の春二月朔が壬戌の甲申の日に、「我が皇祖の靈は、天から降って他人と比べてみると、私の体を考えて助けてくださった。今、諸々の敵を已に平定し、国の中は何事もない。それで天神を祀って、神に仕えることを申し述べたい」と詔勅した。すなわち霊を祭る場を鳥見山の中に立てて、そこをなづけて、上小野の榛原・下野原の榛原という。そこで皇祖天神を祭った。三十一年の夏四月の乙酉が朔の日に、天皇は輿に乗って巡って行幸した。それで腋上の嗛間の丘に登って、国の様子を廻らし望み見て、「なんと美しい国を獲たことだろう。内木綿(衾の中の綿?)のように薄く本当に狭い国と言っても、蜻蛉のとなめのようである」と言った。これよって、始めて秋津州と名付けられた。昔、伊奘諾尊が、この国を目にして、「日本は海岸が穏やかな国、細戈で千を治めた、国、磯が湾曲して上流にある磯の輪の上の本当に秀でた国だ」と名付けて言った。また大己貴大神が、見て、「石垣の中の国だ」と言った。饒速日命は、天の磐船に乗り、広い荒廃した地に肘を張って急いで行き、この地を様子を見ながら降って、それで、その地を見ながら、「荒涼とした土地に見えた大和の国」と言った。】とある。
四年春二月壬戌は1月の晦日、三十一年四月乙酉朔は合い、概ね標準陰暦と符合している。
そして、恩賞では全く出現してこなかった葛城氏の劒根が出現して葛城国造と認められ、神武東征時には既に葛城国王で、神武侵略の時追認され、磐余彦はそれより何代も前で『舊事本紀』に「天香語山命天降名手栗彦命亦云髙倉下命 ・・・次天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫」とあるように、髙倉下と同世代でこの神武天皇は事代主を祀る氏族なのだろうか。
葛城の地名説話は「鳥見山中」とあるように饒速日が鳥見に天下った時の言葉で実際は、大己貴が安芸国を征服した時の円形の湾が山と海に挟まれて狭く、蜻蛉のトナメのようと言った説話で、雄略3年に畿内の蜻蛉野の命名説話があり、海人国ではなく安芸を国生みした奘諾尊は細戈で「千」は「ち・地」の事だろう。
内木綿のような意味不明な言葉を枕詞と長い間言われているが、『日本書紀』を書いた人々が、昔の説話の意味が解らず異なる場所で流用した為に起こった現象で、元々は目前にあったことを写し取った言葉を意味を知っている人々が漢字にした文節なので、全て漢字の意味を使って解釈して検証した。

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