『日本書紀』慶長版は
「四十有二年春正月壬子朔甲寅立皇子神渟名川耳尊爲皇太子七十有六年春三月甲午朔甲辰天皇崩于橿原宮時年一百二十七歲明年秋九月乙卯朔丙寅葬畝傍山東北陵」
【四十二年の春正月朔が壬子の甲寅の日に、皇子の神渟名川耳尊を立てて、皇太子とした。七十六年の春三月の朔が甲午の甲辰の日に、天皇は橿原宮に崩じた。この時、年一百二十七歳だった。明年の秋九月の朔が乙卯の丙寅の日に、畝傍山の東北の陵に葬った。】とある。
四十二年正月壬子と七十有六年三月甲午は前日の晦日で明年九月乙卯は合い概ね標準陰暦と符合している。
年齢の127歳は2倍年齢との説があるが、年齢70歳、在位50年でも長すぎ、漢からの中国の年号と対応せず、安寧天皇の項で検証するが、橿原宮の時が127年でこの神武天皇は27年間、親子数代で襲名し続けたことを意味し、磐余彦の役職に就いたのが橿原宮で52年過ぎたあと磐余彦として橿原宮天皇に76年間仕えたことを意味する。
『古事記』前川茂右衛門寛永版は「所持之兵入殺當藝志美々故亦稱其御名謂建沼河耳命尓神八井耳命譲弟建沼河耳命」と神国の冠位名は素戔嗚の時代と同じ官位の耳で『古事記』の神武東征時の大将「美和之大物主神」は『三国志』の邪馬台国と同じ官位大系で主・彦・耳が混在し、紀元前660年に大国・なか国連合が大和に侵略して建氏が葛城と命名された土地の磐余で邑長になったことを意味し、『古事記』のみ記述される「科野國之州羽海將殺時建御名方」と同じ建氏で葛城氏は御名方の残党なのだろう。
そして、『古事記』の「神八井耳命者(意富臣小子部連坂合部連火君大分君阿蘇君筑紫三家連
雀部臣雀部造小長谷造都祁直伊余國造科野國造道奥石城國造常道仲國造長狭國造伊勢舩木直尾張丹羽(波)臣嶋田臣等之祖也)」は『古事記』執筆時の考察が注釈文で、出雲国・なか国につながる葛城氏の神武東征である熊襲侵略と日向からの東征などで後に得た国がこれらで、御毛沼・當藝志美々・神八井耳で神倭磐余彦の官職名の襲名なのだろう。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は「詔椎根津彦曰汝迎引皇舟表續香山之巔因譽爲倭國造其國造者自此而始矣此則大倭連等祖也」と記述していて、『日本書紀』は「國神名曰珍彥釣・・・賜名爲椎根津彥」・「珍彥爲倭國造」と記述していて、珍彦が磐余彦の上司で倭国造→大倭国造→『古事記』「木國造之祖宇豆比古」と木国造の祖とここで葛城氏と地位が逆転して、葛城氏が珍彦を後に任命したと記述しているのである。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は
「都橿原宮肇即皇位尊正妃媛鞴五十鈴媛命立爲皇后・・・復當斯之時帝之與神其際未遠同殿共床以此爲恒故神物宮物亦未分別矣」
【橿原宮を都として初めて即位し鞴五十鈴媛を皇后として・・・また、この時、天皇と神は境が遠くなく同じ御殿で床を共にし、そのため、神の物と宮の物も分けていなかった」とある。
すなわち、宮が有って初めて天皇位で神と天皇は遠くない、すなわち、皇祖が神で、宮と神が別れていない、すなわち、宮そのものが神で皇祖であって、その子たちは神の子で、死ぬと神になり、その子が繋ぐのである。
従って、天皇と呼ばれる皇太子の父は神と同等で祀られる側で、「大神奉齋殿内即蔵天璽瑞寶以爲天皇鎮祭」と天皇の言葉は神の言葉で、実際の政務は皇太子や側近で行われ、その齋殿が「擎天璽鏡剱奉安正殿」と正安殿とよび、「寵異特甚詔日近宿殿内矣因號足尼」と宿祢は宿殿内の人物、すなわち、神のそばで仕える人物で、天皇と同等の権力を持つ人物である。
そして、「髙皇産霊尊兒天富命率諸齋神部擎天璽鏡剱奉安正殿矣」と最初に三種の神器(璽鏡剱)を捧げたのは天富命で、「とみ」の地名を持つこの人物が紀元前660年に「橿原宮」で皇位に就いた人物なのだろうか。
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