天武天皇と文武天皇の政権移動があったと書いたけれど、古事記以外に証明できるかを調べなくては誰も納得してくれそうもないけれど、前に書いたように天武天皇の書いてある15年は695年から709年までと書いたように天武・文武・元明の3天皇を含むと言って、前回死亡記事は最後の宮の死亡記事だと書いた。
そうすると、天武天皇の死亡記事は文武天皇の死亡記事の可能性があるけれど、持統天皇の最初に書いてある葬儀記事すなわち703年と考えるべきで、続日本紀には702年12月に太上天皇が死亡したと書いてあって、701年の政権交代は天武天皇を殺害せず追い出したとゆうこになる。
『続日本紀』大宝二年十二月甲寅
太上天皇崩 遺詔 勿素服擧哀 内外文武官釐務如常 喪葬之事務從儉約
『日本書紀』持統元年春正月丙寅朔
皇太子率公卿百寮人等適殯宮。而慟哭焉。
そして、701年1月には順位10番目の藤原不比等が3月の大宝建元時に順位5番目に粟田眞人が11番目から8番目に特進していて、701年7月に壬申の功を多数の人物に授けているけれど、701年より前には全部で死亡時に18人、死亡と書いていない人物が4人ばらばらに授かっているのに対して、なぜか701年7月にたくさん授かり、その中の
阿倍臣御主人は3月にも多大なご褒美を授かっているけれど壬申と一言も書いていない。
『続日本紀』
大宝元年正月己丑 遣直廣壹藤原朝臣不比等等。就第宣詔。
大宝元年三月甲午 建元爲大寶元年 始依新令・・・直廣壹藤原朝臣不比等正正三位。
大宝元年正月丁酉 以守民部尚書直大貳粟田朝臣眞人。
大宝二年五月丁亥 正四位下粟田朝臣眞人。
大宝元年三月壬寅 賜右大臣從二位阿倍朝臣御主人。
大宝元年七月壬辰 勅親王已下。准其官位賜食封。又壬申年功臣。・・・阿倍普勢臣御主人。
ということは、701年2月27日吉野から帰った天武天皇を2月29壬申の日に文武天皇が御主人と不比等の力でクーデタを起こし、その時粟田眞人も対唐政策で重要な役割を果たして成功して3月29日の時点では文武天皇の側に立てばクーデタではなく禅譲でこの政変に名前が無くただの恩賞としたけれど7月21日にはこのクーデタの功を壬申の日の功、壬申の功と、壬申の日の功が有った年、壬申年と呼んだのではないだろうか。
『続日本紀』
大宝元年二月庚午 車駕至自吉野宮
文武天皇にとっては禅譲であるのだから前の天皇は太上天皇で天武天皇は702年12月に亡くなったのであって、天武天皇の吉野行は日本書紀では天武天皇8年になっているけれど、天武天皇元年が695年なので天武天皇8年は702年5月でクーデタ前から引き続いて吉野に行って記事が繋がっていると解る。
『日本書紀』
天武天皇八年五月甲申 幸于吉野宮。