2017年4月30日日曜日

最終兵器のミサ 大宝のクーデター

 天武天皇と文武天皇の政権移動があったと書いたけれど、古事記以外に証明できるかを調べなくては誰も納得してくれそうもないけれど、前に書いたように天武天皇の書いてある15年は695年から709年までと書いたように天武・文武・元明の3天皇を含むと言って、前回死亡記事は最後の宮の死亡記事だと書いた。
そうすると、天武天皇の死亡記事は文武天皇の死亡記事の可能性があるけれど、持統天皇の最初に書いてある葬儀記事すなわち703年と考えるべきで、続日本紀には702年12月に太上天皇が死亡したと書いてあって、701年の政権交代は天武天皇を殺害せず追い出したとゆうこになる。
『続日本紀』大宝二年十二月甲寅
太上天皇崩 遺詔 勿素服擧哀 内外文武官釐務如常 喪葬之事務從儉約
『日本書紀』持統元年春正月丙寅朔
皇太子率公卿百寮人等適殯宮。而慟哭焉。

そして、701年1月には順位10番目の藤原不比等が3月の大宝建元時に順位5番目に粟田眞人が11番目から8番目に特進していて、701年7月に壬申の功を多数の人物に授けているけれど、701年より前には全部で死亡時に18人、死亡と書いていない人物が4人ばらばらに授かっているのに対して、なぜか701年7月にたくさん授かり、その中の 阿倍臣御主人は3月にも多大なご褒美を授かっているけれど壬申と一言も書いていない。
 『続日本紀』
大宝元年正月己丑 遣直廣壹藤原朝臣不比等等。就第宣詔。
大宝元年三月甲午 建元爲大寶元年 始依新令・・・直廣壹藤原朝臣不比等正正三位。
大宝元年正月丁酉 以守民部尚書直大貳粟田朝臣眞人。
大宝二年五月丁亥 正四位下粟田朝臣眞人。
大宝元年三月壬寅 賜右大臣從二位阿倍朝臣御主人。
大宝元年七月壬辰 勅親王已下。准其官位賜食封。又壬申年功臣。・・・阿倍普勢臣御主人。

ということは、701年2月27日吉野から帰った天武天皇を2月29壬申の日に文武天皇が御主人と不比等の力でクーデタを起こし、その時粟田眞人も対唐政策で重要な役割を果たして成功して3月29日の時点では文武天皇の側に立てばクーデタではなく禅譲でこの政変に名前が無くただの恩賞としたけれど7月21日にはこのクーデタの功を壬申の日の功、壬申の功と、壬申の日の功が有った年、壬申年と呼んだのではないだろうか。
 『続日本紀』
大宝元年二月庚午 車駕至自吉野宮

文武天皇にとっては禅譲であるのだから前の天皇は太上天皇で天武天皇は702年12月に亡くなったのであって、天武天皇の吉野行は日本書紀では天武天皇8年になっているけれど、天武天皇元年が695年なので天武天皇8年は702年5月でクーデタ前から引き続いて吉野に行って記事が繋がっていると解る。
 『日本書紀』
天武天皇八年五月甲申 幸于吉野宮。

2017年4月28日金曜日

最終兵器のミサ 日本書紀の年号

 いままで、日本書紀は天皇が2代ずれていると言いながら紀伝体で書かれているけど編年体部分の史書の年号だけそのままというのは矛盾していると言われそうだけれど、私は欠史8代の記述に関してこの時期に内容がなく崇神天皇の時代の紀元前94年から記述したのは干支を覚えてその干支を漢の年号と対応して基準にしたのではないかとかいた。
編年体の歴史を書くためには物差しが必要なのだから、西暦も始まっていないので物差しはないのだけど、漢字と干支を教えてくれて、冊封体制に入った倭は中国に元号という基準になりそうな年号があることを知って書きだしたと思われて、そうでなかったら、欠史8代にももっといろいろ書いてあってもいいはずだ。
ところが、古事記を書いた王朝は中国の物差しをつかわないで、紀伝体を使って書いて、その他の資料も紀伝体で書かれていて、そのなかに現代に残っている史書があって、それが先代旧事本紀で、初代から何世の孫という一寸変わった書き方で、その時々の天皇を書くことで対応させているけれど、同じことを日本書紀も行ったと思うのが普通だ。
日本書紀を書いた王朝は宮ごとに書いた古事記や先代旧事本紀のような記録を持っていて、中国の元号を書いた記録も持っていて、その資料をつなぎ合わせたのが日本書紀で、先代旧事本紀は日本書紀の宮にあわせて系図と事績を書いたということだ。
だから、宮には宮を建てた人物の即位前までの記事、即位記事、家族の記事が書いてあって、死亡記事も何人もの天皇死亡記事があるけれど、書くときは最後の人物を書いて終わる、だから古墳はまとまっていくつも出てくる、年齢は天皇と皇太子の年齢を加えた年齢を即位年齢として、それから宮が続いた年数を加えて死亡年齢としたと思われる。
すなわち、神武天皇は30歳、皇太子の手研耳15歳の時東侵して6年後に建国して76年後に宮が終了したという資料が残っていたことをしめしていて、古事記に書いてあるような内容は宮や天皇について移動するけれどそれ以外の編年体様式のことは移動しないという原則が日本書紀にはあると思れる。
『日本書紀』 
  神武天皇即位前紀
 年十五立爲太子 長而娶日向國吾田邑吾平津媛 爲妃 生手研耳命
  神武天皇即位前紀甲寅年
 及年四十五歳
  神武天皇七六年
 天皇崩于橿原宮 時年一百廿七歳
 
だから、日本書紀の内容を動かす時も適当に動かすのはルール違反で、勝手に動かして言いとなったらかなり多くの時間をかけて証拠を集めて証明しなければいけないし、もちろん、天皇について動くときも動かさないときも理由がいるので、干支の1・2巡ももちろん2年だの30年だの移動しようと思ったら私がこれまで書いたような論証を行いすべて一定に例外なく動かさなければいけないし、もちろん、日本書紀の間違いなどとゆうのも同じで、自分の説に合わないから間違いなどと言うのはルール違反で、お互いの論拠が間違いだとの言い合いで泥仕合になるだけだ。
古文書が間違いと言う場合は確実な理由が必要で、理由がいらなければそれは空論・絵空事になって理論とかけ離れてしまう。

2017年4月26日水曜日

最終兵器のミサ 天皇と宮

 2代ずれているなどと言う大それた考えは中々受け入れてもらえそうもないからもう少し説明しなければいけないと思うけど、まずは本当に天皇名というのが宮の名前で同じ宮に何代も天皇がいたり、一人の天皇が幾つかの宮を替えたために複数の天皇になってしまったかという事を考えてみる。
日本書紀は孝安天皇の102年を最高に100年近く在位した天皇がいっぱいいるのだけど、不思議なことに自分たちが長く生きることが解っているように皇太子を決めないで、孝安天皇なんて76年在位してから26歳の皇太子を決めていて孝安天皇は孝昭天皇68年に20歳で皇太子になって15年後すなわち35歳で即位して111歳の時85歳で生まれた子を26歳の時に皇太子にして137歳で死んだわけで、これは誰でも嘘と思うのが当然。
ところが、安寧天皇は綏靖天皇25年に安寧天皇が21歳で立太子して8年後に綏靖天皇33年に安寧天皇が29歳で即位してその38年後に67歳で安寧天皇が亡くなったはずが57歳死亡になっていて、じつは綏靖天皇24年に安寧天皇が20歳で即位して儀式を21歳で行って、太子になることが決定して38年後に誕生日前の57歳、58歳になる前に亡くなった、すなわち、立太子とゆうのは天皇の即位、とゆうことは綏靖天皇25年が安寧天皇元年とゆうことを証明している。
『日本書紀』 安寧天皇即位前紀
  天皇以神渟名川耳天皇廿五年、立爲皇太子。年廿一。〇卅三年夏五月、神渟名川耳天皇崩。
  卅八年冬十二月庚戌朔乙卯。天皇崩。時年五十七。

ということは、まだ綏靖天皇が生きているけれど安寧天皇が即位するということは天皇が2人いて実質の統治は安寧天皇が行っている制度だということ、そうすると、安寧天皇が立太子前に誰かが綏靖天皇と一緒に統治した人物がいるはずだけれども書いていない人物、常識的に考えれば長男が統治していると考えられて、実際、神武天皇の長男手研耳命が即位していないのに長く統治したと書かれている。
『日本書紀』綏靖天皇即位前紀
其庶兄手研耳命、行年已長、久歴朝機。

ようは、神武天皇は同じ宮に住む長男手研耳と親子で一緒に国を支配して、綏靖天皇は別の宮で安寧天皇と一緒に国を支配したということ、とゆうことは安寧天皇は分家ということで、立太子の年齢が3歳と書いてある応神天皇以外は全員13歳以上で応神天皇は摂政がいるということは大人だけが天皇になる資格があって、長男がいないか12歳以下の子供の場合に立太子して分家が天皇になるということ。
だから、推古天皇は即位してすぐに太子を決め、太子を決めていないのは長男が継続して数人の皇位継承が行われているということ。
ぎゃくに、倭の5王の一人武は577・478・479・502年に中国史書に出てくるけれど、この時の天皇は雄略天皇・清寧・顕宗・仁賢・武烈天皇にわたっているけれど、近飛鳥八釣宮・少郊・池野・甕栗と宮が書かれていて顕宗は5人の天皇をまとめた天皇と考えられるし、このことは後日追加して書いてみたい。
『日本書紀』顕宗天皇元年 正月己巳朔
乃召公卿百僚於近飛鳥八釣宮。即天皇位。百官陪位者皆忻忻焉。或本云。弘計天皇之宮有二所焉。一宮於少郊。二宮於池野。又或本云。宮於甕栗。

2017年4月24日月曜日

最終兵器のミサ どこかからか持ってきた「天」姓天皇

 古事記に書いていない天姓の天皇を2代ずらして当てはめると665年から天豐財重日、668年から天萬豊日、678年から天豐財重日の重祚、685年から天命開別に当てはめることができるけれども、665年という年は旧唐書に日本の天皇を書いていて、天皇が天子と面会して、当然会っているのだから天皇名を知らないはずがなく、新唐書にこの頃の天皇名として天豐財と書いていて、665年に天豐財が即位したと考えて間違いなさそうでそのあとが子の天智と書いている。
『舊唐書 卷八十四 列伝第三十四 劉仁軌傳』
麟德二年 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會
『新唐書』
其子天豐財立 死 子天智立

 そうすると、668年から天豐財に変わって天智天皇が即位して694年まで続いていることになるけれど、天皇名が変わっているのに同じ天皇で、逆に695年から天武・文武・元明と天皇が変わっているにもかかわらず日本書紀では飛鳥浄御原天皇と書いている、とゆうことは、日本書紀の天皇は一つの宮(飛鳥浄御原)に複数天皇(天武・文武・元明)がいたり、一人の天皇(天智)が宮(難波・後岡本・大津)を変えると複数の天皇(孝徳・斉明・天智)と書かれて、さらに文武・元明天皇に並行して持統天皇がいることが解った。
しかし、理論上は良いとしても、死亡年齢が合わないし、乙巳の変も壬申の乱も合わないと批判されるだろうけれど、乙巳の変も壬申の乱もこの名前が最初から有ったわけではなく、日本書紀を書いた時乙巳の変はその干支に当てはまっただけの話だ。
ところが、 文忌寸祢麻呂墓誌板に壬申年将軍という碑文が707年に書かれていてやはり壬申の乱が有ったと言われそうだけど、日本書紀どおりの壬申の乱ではなく、孝徳天皇の弟と左右大臣が天智天皇に対してクーデターを起こして失敗した事件の可能性が高く、天武天皇の政権奪還は695年の大友皇子に対するクーデターだ。
『文忌寸祢麻呂墓誌板』
 壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻
呂忌寸慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒

天智天皇が694年まで生きていた証拠は692年に郭務悰が造らせた仏像を九州から天智天皇に病気治癒祈願の仏像を送っているけれど、上送という言葉は他の日本書紀の場合では人間も上送していて、20年近くもほっておいての上送は有り得ないし、この場合郭務悰が仏像を造らせて大宰率が僧侶とともに天智天皇のもとに送ったことを意味している。
『日本書紀』持統六年閏五月乙酉
詔筑紫大宰率河内王等曰。宜遣沙門於大隅與阿多。可傳佛教。復上送大唐大使郭務爲御近江大津宮天皇所造阿彌陀像。

2017年4月22日土曜日

最終兵器のミサ 日本書紀の2代のずれ

 持統天皇の居る場所が無くなったと前回書いたけれども、古事記の序文でわかるとおり、天武天皇が文武天皇に皇位を奪われたといっても文武天皇が正式に皇位についたわけじゃなく、正式な皇位は持統天皇が受け継いでいて713年に元明天皇に奪われたわけだ。
すなわち、日本書紀は15年後ろにずれないといけなかったということがわるけれど、ずれていることを証言している史書があり、それが新唐書で、隋書に出てくるタリシヒコは推古天皇ではなくて2代前の用明天皇だと書いている。
 『新唐書』
次用明亦曰目多利思比孤 直隋開皇末始與中國通

そして、用明天皇は2年しか在位していないけれど、用明天皇が推古天皇の位置にあれば36年間在位したことになって、用明天皇の皇女酢香手姫が3代37年間斎王を務めるけれど、本来斎王は1代限りで用明天皇が推古天皇なら全く問題にならない。
 『日本書紀』
以酢香手姫皇女拜伊勢神宮奉日神祀 是皇女自此天皇時逮乎炊屋姫天皇之世奉日神祀 自退葛城而薨 見炊屋姫天皇紀 或本云卅七年間奉日神祀 自退而薨。

そして、持統天皇が在位したと言われる時期にはこれが持統天皇と言える人物が一つも見つからず、704年以降と考えられる時期に藤原朝の文が出てきて、さらに、淳仁天皇が舎人親王59歳のときの子供で天武天皇が高齢のときの子が舎人親王だったり、光仁天皇が施基親王の50歳頃の子供と日本書紀と続日本紀をまたぐ人物は現代を思わせる程の高齢出産であるけど、15年後ろにずれるとどちらも30代の子でそれ程高齢出産ではなくなる。
このように、日本書紀は書かなくてもよい持統天皇を書いてしまったために2代ずれてしまったことがわかったのだけど、天武天皇は飛鳥浄御原に遷って、文武天皇が引き続き飛鳥浄御原を都としたと言っているのだけど、日本書紀では持統天皇から文武天皇へ藤原宮で政権を引き継いでいて、本来の飛鳥浄御原を日本書紀では藤原宮と呼ぶことにしたようだ。
すなわち、日本書紀の飛鳥浄御原は695年から平城京に遷る前年の709年までの15年間を言っていて、天武天皇の在位期間15年と同じで、持統天皇は文武天皇や元明天皇と並行して天皇になっていることがわかり、文武天皇は天皇になったと書いてはいるけれど、実際はまだ天武天皇から引き継いで持統天皇が正式な天皇で、元明天皇に正式な天皇の位を奪われて、古事記の序文どおりになった。

2017年4月20日木曜日

最終兵器のミサ 古事記の序文

 古事記の序文を私は大嫌いで、大安万呂が凄いおべんちゃらを使って書いているからで、そのおべんちゃらの内容が、元明天皇は中国古代の王朝の夏の禹王や殷の湯王という伝説の王朝創始者と比べてそれより優れていると言っていて、王というのはこんな歯の浮くような言葉を聞くのがうれしくて仕方がないのだろうけど、元明天皇はさすがにまともに取らなかったのか古事記を正史にしなかった。
<古事記>
可謂名高文命、徳冠天乙矣。

しかし、大安万呂は元明天皇が王朝創始者だと言っていて、元明天皇の父親天武天皇を王朝の礎を築いたけれど皇帝になっていない人物の周王朝の創始者の父周王や中国の神話の全皇帝の創始者と比較して実際には皇帝になっていない人物に当てはめている。
<古事記>
清原大宮昇即天位。道軼軒后、徳跨周王。握乾符而摠六合

王朝の礎を築いた人物と初代皇帝の間に持統・文武天皇を置くというのは間を抜いて間抜けではいないが間抜けな話で、元明天皇が初代ならその礎は文武天皇で、天武天皇が礎なら持統天皇が初代皇帝でなければ意味が通らない。
そして、天武天皇は飛鳥浄御原宮に天皇がいる時にすきを窺っていて天武天皇を破ったと意味不明な文章を記述して、実際は大津宮に大友皇子が即位しようとしていた時に天武天皇が政権を奪って岡本宮から飛鳥浄御原宮に入ったはずである。
<古事記>
曁飛鳥清原大宮御大八州天皇御世、潜竜体元、洊雷應期。

日本書紀より後に書き換えたのならこんな間違いを書くはずがなく、ようは、飛鳥浄御原宮天皇(天武天皇)の時代に、文武天皇が政権を奪って飛鳥浄御原宮で即位したけれど、正式に即位できないで、正式な天皇は飛鳥浄御原宮以外で即位していたけれど、713年に元明天皇が正式に天皇になったということを序文に書いているのだ。
文武天皇は藤原宮で即位しているはずと批判をうけそうだけれど、続日本紀には慶雲元年704年に藤原京を都にしたと書いているように、文武天皇は飛鳥浄御原から藤原に遷都したことが証明されていて、教科書に載っていることに疑問符がつくことがわかる。
<続日本紀>
慶雲元年十一月壬寅 始定藤原宮地。

とゆうことは、天武天皇から直接文武天皇に政権が移り持統天皇の場所がなくなってしまったということだ。

2017年4月18日火曜日

最終兵器のミサ 古事記と日本書紀の欠史8代

 記紀には欠史8代という綏靖天皇から開化天皇の8代にはこれといった功績が書かれていないのでこう呼ばれるけれど、これこそが造作説を否定する証拠であるにも拘らず無視されてきた。
造作するのならこの8代にも適当に物語をつければいいのに、中国や朝鮮の資料を見ていそうだから、中国に行った話を膨らませて卑弥呼の話を神功皇后に書いたみたいに書けばいいのに書いていなくて、最初の記事は崇神天皇の紀元前94年の記事からだ。
これは、紀元前94年から干支を学んで記録することを覚えて、これ以降継続して日記のような記録を取り出したということの裏返しで、日本書紀は紀元前94年からの資料を基に書いた貴重な資料だということを理解しなきゃいけない。
記録したのは弥生時代の糸島と出雲で硯が見つかったこと、糸島で甕に文字が書かれていた土器が見つかったことが証拠で、中国の漢で年号が始まったことと無関係じゃなくて、干支が解っていても60年で繰り返すためにどこに差し込めばいいのかわからないからで、もし、日本の天皇名にあわせたのならもう文字があったから神武天皇の記録が残っているため、欠史8代ではなくなるはずだ。
そして、同じことが古事記の仁賢天皇から推古天皇の欠史10代で、書けるのなら書くはずで、継体天皇の即位の話、仏教の導入の話、聖徳太子の話や法隆寺の建立の起源などどれだけでも書くことがあって書けるはずなのだけれど、書かないでいるのは、資料が無いのに嘘八百を書き連ねることを考えもしていない証拠だ。
太安万侶が功績があるにもかかわらず書かないで元明天皇に献上したとしたら太安万侶は確実に墓碑などくびになって作ることができなかったと思われ、元明天皇も自分の家系に功績が無いことを重々承知していて、記紀は資料にないことを創作する事はなく、資料の配置をしていることがわかる。
とゆうことは、古事記は顕宗天皇までの資料に元明天皇の系図をつなぎ合わせたもので、日本書紀も同じく系図をつなぎ合わせた資料で、功績は資料の継ぎ接ぎで作り上げたもので、元明天皇の王朝の歴史ではないことが証明されている。

2017年4月16日日曜日

最終兵器のミサ 古事記と日本書紀の神名・人名

 記紀の神様の名や人名をみていると「亦名・更名・一書云」でいくつも名前を持っているけれども、神様に別名があるのは簡単に説明が付き、日本には合祀という習慣があって、例えば祀る地域が災害で住めなくなると移住するのだけれど、移住するときに神様も一緒に移住して、移住先にはもちろん既に人が住んでいて神様を祀っていて、いざこざをおこさないで一緒にまとまろうとすると新しく宮を建てて神を祀ると対立を産むので一緒に祀ることにすると、2つの神様は何代かすると1つの神様になってしまって、2つの名前を持つことになる。
しかし、侵略という形で移住すると、被支配者を全滅しない限り被支配者の側の神様のところに支配者の神を祀って被支配者の神様より上位に祀って被支配者に支配者の神様も祀らせれば上下関係が一目瞭然でそれが刷り込まれることになる。
そして、時間がたつとやはり1つの神様になって別名を持つことになって、一つの宮におかない上下関係に差がありすぎる場合は別の宮に被支配者が神様を祀っていると神様に上下関係が生まれることになって、近い関係の神はまたの名、遠い神は上下関係を持って、権力を集中させていくという、時間はかかるけれども損害を最小限にできる支配体制を作り上げた。
この支配体制を形成した王朝は人名も同じ方法を取り入れてしまったようで、王の名前や皇子の名前・奥さんやの奥さんの親の名前にまたの名をたくさんかいていて、学者は諱と片付けているけれど、またの名をつける人物とつけない人物が入り混じるのは片手落ちで、しかも、またの名をつける人物は重要人物が多いことから、記紀を記述した人が意味があって混乱させようとしていると考えるべきだ。
それにくわえて、元明天皇の母親の名前が解らないのでなくどちらかわからない、目の前の天皇の母親であるのにわからない、ご主人の名前も間違うなどというのは考えられず、元明天皇があいまいにさせている、すなわち、日本書紀の系図は元明天皇の系図ではないことがわかる。
そして、記紀の系図がよく似ているということは元明天皇の系図ではないけれど一貫した系図で何らかの王朝の系図に元明天皇の系図を当てはめているということだ。
同じような系図が並んでいるけれど、元明天皇の夫の日並や子の文武天皇は草壁皇子や軽皇子ではない、元明天皇の母親か父親が推古天皇の可能性があるということで、それを証明するように、皇極天皇から天皇名が「天」から始まって、他に「天」から始まるのは欽明天皇だけで、古事記は日本書紀から天姓を削除してしまっている。
古事記は仁賢天皇以降は系図を記述するだけであるにもかかわらず推古天皇で終わってしまっているけれど、系図だけなら持統天皇まで書こうとすれば書けるにもかかわらず書いていない、当然で、書けないから書いていない、本人の親まで古事記に書いてあるから書けないと考えざるを得ない。

2017年4月14日金曜日

最終兵器のミサ 古事記と日本書紀の神話

 古事記と日本書紀の神話を比べると、最初に出てくる神様が全く違って、古事記は天御中主で日本書紀は国常立で、日本書紀の国常立は古事記で6番目、日本書紀に天御中主は本文に出てこないで一書の中に3番目に書かれているけれど、一番偉い神様を譲り合って後ろの方に書くはずがなくて、遠慮しないで1番目に書くのが権力を持っている人たちだ。
とゆうことは、古事記を書かせた王は天御中主を祀っている王で、日本書紀を書かせた王は国常立を祀っている王なのだけど、実際に書かせたのは元明天皇と元正天皇の親子で、しかも、元明天皇はまだピンピンしているのに祀る神が違うはずがない。
同じように、国として祀る初代の王は日本書紀は天照大神で古事記も天照大神と言ってはいるけどどちらかというと大国主の活躍にかなりの文字数を費やしてかいていて、しかも、日本書紀の優柔不断な態度に対して古事記では剣先を突き付けられて国譲りを迫られているように、大国主を重視している。
古事記と日本書紀は似ているようで全く違う趣を持っている史書を同じ王朝が書いている摩訶不思議なかたちをていしているけれども、この意味は、本来違う王朝が書いた史書を自分たちの史書にしようとしていることを意味していて、自王朝に史書があればこんな状態は起こらない。
国を産んだ神、初めて国を開いた人物の前にもし人がいるとしたら出国前の土地の両親がいる程度で何人もいることなど有るはずがなく、記紀は伊弉諾・伊弉冉の神話にいくつかの支配者が神話を積み重ねたとゆうことだ。
日本書紀を書いた王朝は一書で天御中主が3番目に出てくることから古事記を書いた王朝を後から2つの王朝が入れ替わっていることを意味していて、古事記を書いた王朝は日本書紀を書いた王朝の後に6王朝入れ替わった、とゆうことは、日本書紀の王朝は支配権を取り戻したということをしめしている。
それで、最初に国産みする島が日本書紀が馭慮嶋次が淡路洲そして大日本豐秋津洲だけど、古事記は淤能碁呂島次淡島そして淡道之穂之狭別島で後ろの方に大倭豊秋津島と記述しているけれど、これも神々と同じ意味を持っていて古事記を書いた王朝は秋津を基盤とした王朝を後ろにしてしまって、日本書紀の王朝は3番目だけど淡島を子に入れていないので実質1番目だ。
すなわち、日本書紀を書いた王朝は天御中主を祀る秋津をを地盤とする国から奪ったと書いているようで、もちろんその王朝は馭慮嶋で建国した国常立を祀り初代の王は天照大神で、日本書紀を国史に採用したのだから元明天皇の前の王朝は日本書紀を書いた王朝で、そのまま元明天皇が採用したと考えるのが妥当だ。

2017年4月12日水曜日

最終兵器のミサ 中国史書と日本書紀

 前回は三国志が古事記の対象外の国のことだと証明したけれど、三国志以降の隋書までの中国史書と日本書紀もまったく合わないけど、教科書は無理やり奈良天皇家の話とこじつけている、だけど、隋書を読むと、阿蘇山の情景を書いていて、奈良の話とはとても思えない。
そして、聖徳太子を天皇にしてしまい、裴世清は簡単にだまされて隨の官僚はパープリンと、なんと失礼な日本人と思いませんか。
中国に対抗して日出る国の天子と宣言する失礼な臣下の国に偵察を兼ねてやってきた官僚たちをあまりにも軽視する、分析力のない、米国を分析できずに日本を凄惨な戦いに導いた官僚と同じだと見たのだろうけれど、中国は白村江で大勝しているのだから、中国の分析は間違っていないことを証明していて、現代の古代の見方が間違っているのを証明した。
とゆうことは、唐の時代も、日本書紀と隋書は違う国を対象にしていると書いていて、倭国の東に秦王国があって倭国に付属しているとは言っているけど、これもどうかわからないし、王国というのだから王様がいる。
   『隋書』
 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 
 自竹斯國以東皆附庸於俀

そして、倭国は大王と呼ばれていて、古事記には全く登場しない地位で、2つの考え方があって、古事記は元々大王と書いてあったものを天皇にしたか、元々大王と書かず天皇と書いてあったかのどちらかだけど、古事記には王子も皇子もどちらも書いてあって、大王と書いてあればそのまま書いたと考えることが妥当に思えて、日本書紀では大王も天皇もどっちも書いてあって、大王は仁徳天皇から舒明天皇の間だけ書いていて皇極天皇の大王は朝鮮の王の話で、日本の大王は629年が最後だ。
そして、継体天皇の時代に百濟本記という朝鮮の今では残っていない本に日本の天皇や太子・皇子が死んだと書いていて、大王を書いているのだから、原文のまゝ天皇と書いていたと考える方が妥当に感じる。
だから、継体天皇の時代には朝鮮では日本と呼んだ秦王国の前があって王を天皇と呼んでいて、その時代に九州には大王と呼ばれた倭国があって、秦王国が629年まで続いていたということ。
その後で、倭国が消えて日本国が突然現れているけど、倭国と日本国は別国だけど国の領土が突然増えることはありえないし、もとの秦王国の有った地域にしか新しい日本を誕生させる地域はないし、この秦王国の地域が日本で、政権自体も連続性が無いように旧唐書では記述しているけど、新唐書では一転同じ国としていて、新唐書は天皇の相続に血縁を書いていない天皇が有る。
ようするに、隋書以前の中国史書は日本書紀や古事記と違う地域をずっと書き続けてきて、その東にずっと中国が無視した日本があって、日本書紀・古事記には中国のことがほとんど書いていない、すなわち、日本書紀も中国を相手にしていないのだけど、新唐書の時代には日本は古の倭国だと書いていて、筑紫から出発して奈良で建国したと書いていて、現在の天皇家が初代から奈良にいらっしゃったことになって、旧唐書から新唐書の間に旧倭国が政権を奪ったことが解る。

2017年4月10日月曜日

最終兵器のミサ 古事記と三国志

 前回は、江戸時代の国粋的学者の小さな井戸の中で大将なら良いという考え方で出来上がった説の話をしたけれど、あのひとらが重視した「古事記」と「三国志」を本当に彼らは読んだのかと言いたくなる。
「三国志」に出てくる国は「イト国」以外は「古事記」に全く出てこないことをあの人たちは知っているのだろうか。
多くの、人達が三国志の研究者が地名当てをしているけれど、みんなこじ付けばかりで、邪馬台と倭、對海と對馬、一大と壱岐その他は全く古事記に出てこない。
「伊都」以外は中国の見方と日本の見方が違うのだけど「伊都」は同じということは邪馬台国の認識と古事記を書いた日本の認識がちがう。
そして、「三国志」では矛で都を守っていると書いているけど、古事記には矛は出てくるけどそれは祭祀に使う道具で出てくるだけで、日本書紀の武器は剣で、まさか、邪馬台国がおまじないで女王様を守っているなどと言うことはないだろう。
ようは、古事記と三国志は違う地域のことを書いていて、日本は、壱岐・対馬・伊都他約30国以外の地域のことだということで、前回書いたように、邪馬台国は福岡市東区近辺糟屋郡と書いたように、筑紫は三国志が書く倭国で、日本は三国志が書く東の倭種ということになる。
そして、後漢書に書く漢時代には東に「クナ国」があったのに三国志では南と書いているように、後漢の時代に東の倭種が「クナ国」を押しやった結果を書き、その落ちぶれた「クナ国」になかなか勝てないため中国に泣きついたのが邪馬台国なわけだ。
    『後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五』
  自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王
   『三国志』
  女王之南又有狗奴國

だから、東の倭種は「クナ国」の地域も支配下にしてより強大になった国なのだけど、中国はただの倭種としか書いていない、ということは、中国が東の倭種は敵で無視していて、たてまえで、後に倭国の付属国と倭の5王が言っているけど、百済を除外されているように、実際は付属国ではなく独立した国々で、中国と敵対している国を倭国の付属国としたのだ。
もちろん、その倭国を日本は攻撃していないので、もしかしたら、中国との緩衝材としていたのかもしれないけど、継体天皇まで日本は倭国を攻撃しないで、筑紫の王の磐井を攻撃してその蜜月関係は終わったけれど、戦果は糟屋郡(邪馬台国があったところ)だけで葛子は許されているということは、直接中国と対峙したくないという戦略があった。
すなわち、三国志の倭国は古事記に記述されていない、福岡平野と佐賀県・長崎県・壱岐・対馬・種子島・屋久島・薩摩が倭国の領域で、筑後平野以南、宗像以東、関東以西が古事記の書いている日本だった、倭国と東の倭種を合わせた地域というのは銅鐸が出土している地域のことでその国々が前漢時までに中国に朝貢した120余国で東の倭種の国々の名前を知っていて、東鯷国がそのうちの20余国と書いていた。
   『漢書 卷二十八下 地理志第八下 呉地条』
 會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云

2017年4月8日土曜日

最終兵器のミサ 「古田武彦」も信じていなかった

 「古田説」は「三国志」を信じると大見得をきって、距離を全部足すと総里程1万2千里にならなければならないともっともらしく書いて、フミ国を糸島半島の根本に持ってきて、東側の福岡平野を邪馬台国(邪馬壱国)として、ナ国への里程は傍線で無視し、2万戸の国を狭い糸島平野に押し込んだ。
三国志はフミ国の南と書いているのに、少なくとも東南と書かなければ合わないのにここには目をつむっている、ダブルスタンダードそのもので、しかも、その後の中国史書や日本書紀・古事記は偽書扱いだ。
ようは、中国鏡がたくさん出る糸島か早良・春日に邪馬台国を持っていきたいだけの詭弁だったわけで、自分の説に酔いしれて、その後の歴史観が崩れてしまって8世紀に九州王朝を潰してしまった。
だからと言って、邪馬台国を奈良だ筑後だという話にはならなず、途中からつじつま合わせをした「古田説」が違うだけで、三国志を信じるのは間違いではない。
つじつま合わせしないで、南にナ国と邪馬台国があるフミ国でイト国から8キロ弱東の場所、すなわち、糸島平野の東で、南に2万戸のナ国と7万戸の邪馬台国をもつ細長い場所は糸島半島・能古島・志賀島・海の中道しか無く、ナ国にもフミ国にも接したどちらの国からも玄関口だからどのルートを使っても1万2千里。
しかも、日本書紀の神功皇后が卑弥呼・台与にあてられて、香椎宮に居を構えたと書いているとおり、福岡市東区が卑弥呼の都としっかり対応している。
だれが読んでも、この結論になってしまうが、古田説の半周読法と短里説が考えに及ばず(古代史学者で三国志を原文で読んだ人物がいなくて)なのか知らないことにして自説に合わないから切り捨て、短里は現代人なら地図を見れば明らかで、距離から概算すれば福岡平野以外設定できず、しかも、邪馬台国には中国人の軍人がやってきているから、北にフミ国、西にナ国が隣接していることが解るように記述しなければ中国の読者にわかってもらえないことは当然で絶対間違えないように書いている。
そんな一目瞭然のことを見て見ぬふりをしなければならないのは、邪馬台国も奈良にいらっしゃる天皇家でなくてはならないため無視したが、すでに、九州の賊の説を言った人物が存在したが無視してしまって、なぜなら、天皇家は宮崎県から奈良にやってきて日本を統一したので、既に、九州は国譲りによって支配下でなければならなかったのだろう。
これだけ、天皇家崇拝をするなら、どうして、中国の冊封体制(中国の臣下)に組み入れられたことに満足したのか不思議でならず、中国の力でクナ国に対抗し、朝鮮半島を侵略して中国から官位をもらうことをどうして良としたのだろう、日本で一番になっても中国の家来で喜んでいるわけのわからない国粋学者たちだ。

2017年4月6日木曜日

最終兵器のミサ 「 あおきてつお」おまえもか

 「あおきてつお」って言う漫画家のなんか消し忘れのページが表示されてしまったらしく、それを読んだんだけど、相変わらずの偉い先生の説や受け入れられてもいない有名人の説をつまみ食いして自説を書いていて、意見を頂戴って書いてあったので、社会的影響力がある有名人が意見表明するには論証が足りなくて無責任だとメールを送ったら現在は新しくしたとの言い訳と意見に対するお礼が来た。
私が今まで書いた偉い人への感想に初めての返事でちょっとうれしかったけれど、残念なことに私とは相いれない説なのが残念、漫画で若い人にアピールしてくれることは感謝している。
 前回まで若い人への入門編を書き続けたけれど、これから詳しく解説していこうかなと思います。
日本のフルイハナシすなわち古代史、ここからちょっと難しくなる、は偉い先生方の「邪馬台国」の認識から九州説と奈良説に分かれて、ただの地名論争が始まりなんだけど、それが今も続いているんだけど、原因が地名なんで証拠を出しても決定的な説にならないし、反対するのも同じ、それで済ませておけばよいものを、反対説を否定するのに証拠になった本や遺物が偽物と批判するものだからお互いが偽物同士で、泥仕合になってしまって現在に至っている。
すなわち、最大の被害者は古書や遺物で三国志は間違いだらけ、中国で発見された三角縁神獣鏡は古物商の偽証といわれのないレッテルを張られてしまって、もっと悲惨なのは古事記や日本書紀で8世紀にかいた三文小説扱いだ。
たかだか、天皇家が最初から奈良にいらっしゃって、中国史書が日本のことを書いてあるのは天皇家のこと以外ありえないという非科学的な妄信が最大の間違いであったのだから、そろそろ無視すればよいのだけれど、なかなかそうは行かず、学閥のしがらみから抜け出ることができないよう。
それを、マスコミが無批判に垂れ流すため、有名人は思い付き、たくさんの説からおいしそうな所だけ摘まんできて面白おかしく膨らませるパターンで、ここでは、論争の原因は完全に忘れ去られて、邪馬台国が九州か奈良の理由探しではなく摘まんだ合う説に乗っかって是がこの人物の定説になってさらにわけのわからない説を積み上げていくわけだから、これは説なのではなくただの妄想になってしまった。
大本の、奈良説を正当化するために言い出した反対説の資料の偽作説が間違いで正しい、当然、否定された自説の補強資料も正しくて、奈良説や九州説が間違っていたことを認めなければ話が進まないのだ。
邪馬台国は筑後山門でも奈良の大和でもないと、そこに、古田説が出てきたけれど、この説もただのかっこ付けだったのだけどそれは次回に。

2017年4月4日火曜日

最終兵器のミサ サイゴッペ

 どうだったかな、みんななにも自分の意見に合わないってシャカリキに古い本を嘘だ、間違いだ、作りもんだって騒がなくても意味を考えればまったくノープロブレムってことさ、自分の意見を考え直せってこと。
神話なんてさぁ、空から神様が降ってきたんだぜ、島を造っちゃうんだぜ、百年も天皇って生きてるんだぜ、そう書いてあってメッチャメッチャ、こんなのシンジらんないってゆうのもわからないでもないけどね。
神様は空じゃなくって対馬から伊都の海岸へ、飛び降りたってゆうのは他人の土地をトバして奈良に押し入った、島に国を造った、百年は数人の親子相続だったら全然問題なしだろ。
日本にはたくさんって意味のヤオヨロズっていう言葉があるんだから、年はみんな八百万年にすればいいじゃない、細かい数字は意味があって、百数十国のすべての王様の生きた年数を足せば大きな数字になるじゃない
国を造った場所も、みんなが、九州全島だ、四国だ、本州だって思っているだけで、その一部の小さな島くらいの土地を港に使うために国を造ったって思えばまったくノープロブレム。
イナバの白兎って人が隠岐の島から鳥取県にサメを並べてやってきたって考えるからおかしんで、隠岐の沖島から隣の島にサメを船につなげてきたけど嚙まれちゃって大けがしたってことと考えれば十分ありそうじゃない、神話はみんなに話して面白くするから、どんどん話を盛っちゃうじゃない
もともとは、イザナギって神様を信じるヒルコって人がアワシマ(コロ島)って国を造ったんだって話を、このアワシマが隠岐の島の島だと思うんだけど、船でたくさんの宝を矢じりと交換して持ってくる旦那が力をつけて威張りだして男の神様を作り出したってことで、だけど、やっぱりこの国は女王様が中心の国で、王様が変わっても女王様が変わらなきゃみんな我慢したってことじゃないの、だから、奥さんの親を見れば意味が分かってきちゃうわけで、日本書紀はアンカン天皇がモノノベさんやコセさんの娘を嫁にして力を見せつけて、古事記ではキンメイ天皇のときソガさんと親戚になってゲンメイ天皇っちのナカトミさんがのしてきたってこと。
中国や朝鮮から侵略されたって言い張るのもいいけど、それなら、中国の奥のほうでいわゆる弥生人とおんなじ骨を見つけてこいやってこと、日本海側はだめだよ、日本人が船に乗っていっているからね、朝鮮なんて日本人のたまり場だかね。
、これまでかいたこと、日本書紀の読み方を変えただけで、なんも盛ってないはずだけどなんか筋がとおっているじゃないっておもわないかな、もしかしたら読み方がまだちょっと違うかもしれんけど、みーんな日本書紀や古事記に書いてあることだから、間違ってると思う人は原文を読み直してみてよ、現代の言葉に訳したのはだめだよ、それこそ間違がってるかもしんないからね
で、いつでもみんなの意見をまってるよ、ただし、アッコウゾウゴンってゆうやつはかんべんしてね、それから、誰かがこう言ってるよってのもやだよ、こっちは偉い先生方を敵に回してるんだから偉い先生がこう言ってるって言われてもね、その先生間違ったことから出発してるから間違ってんじゃないで終わり、そで、日本書紀に書いてるものが間違ってるって言っても日本書紀をつかわないで証明するのってむつかしいよ、だいたいどんな本でも間違ってるって言っても証明できないよね、あとから間違いだって決めつけるのどうなのかな
間違いを証明するんならレポート用紙100枚ぐらい使って証明してほしいよね、まあ、日本書紀の中でムジュンしてるのを見つけるのが一番てっとりばやいかな

2017年4月2日日曜日

最終兵器のミサ ゲンメイ天皇のツヅキガラって

 ゲンメイ天皇のご先祖様を見ようと思えばかんたんで、いくら何でも自分のイエガラのはじまりを後の方に書く人っていないよね、だから、神倭磐余彦、偉い先生たちはカンヤマトイワレヒコって読むんだけど、これはミワのイワレの彦(ヌシでもミミでもない)、ようは、オオモノヌシが銅鐸國に侵入したとき敵はニギハヤヒの子孫のナガスネ彦(ここも彦)と戦っているんだ、てことは、ゲンメイ天皇のご先祖さんは銅鐸国のイワレ村の村長になったってこと、お次が神ヌナカワ耳ってのは銅鐸国から神国って、朝鮮の人が東に神国があって日本ってゆうって書いてるんよ、だから、島根の国の人の子分の耳って主より下っ端のヌナカワってとこの村長さんみたい、で次は伊賀や名張や美濃の地域で、後から説明するけどケイタイ天皇の母親が大津だから大津近辺のシキツってとこの子分だけど村よりも大きい郡長の娘を嫁にもらって、少しの間は似た状態だったんだけど、大倭ってゆう島根の人の倭ってとこを治めた人の子分になって、お次は、おそらく福井県の三国近辺のミマツってとこ、そして、親分がタラシってゆう島根の国の王様の次かその次クライの子分に、そんで、島根の人の国の倭根子ってとこの子分、倭根子ってとこの親分が大国から独り立ちしてその倭根子ってとこの子分になったんよう
でもちょっと待った、この時タンバの王様の娘さんを嫁にするんだよ、でつぎはミマキってとこにうつって、奥さんにオオヒコの娘え?、オオヒコって銅鐸国をやっつけた人ってことはミマキって銅鐸国の事じゃ、ミマキって楠葉ってとこの近くで、オウジン天皇が宇治に攻め入るからおそらく宇治じゃない、タンバの王様のコネでオオヒコに取り入って大活躍したんだ、で、この話似た話無かった、そ、ケイタイ天皇ってタンバのお隣の福井県で生まれて、まず、楠葉で宮を造ったよね、で、古事記ではイワイって人と戦ったって書いてそれ以外はなんも書いてないんだよね。
てことは、ミマキイリヒコって人が島根の国から楠葉近辺でてっぺんに立って次の人が宇治に都を遷したイクメイリヒコってことなん、そで、この天皇のときにオオカシマってゆう中臣さんの先祖が島根の国の王様の傍で偉くなっちゃったんだってことで、この時は紀元前5年だったってゆこと。
で、キンメイ天皇のときにカマコってゆう人が現れて、モノノベさんといっしょに仏さんをオガんじゃだめよって反対してるんよ、大阪北部に一緒に入ったモノノベさんと今回も一緒、はいったところでそこの土地をツいだよって王様と一緒に叫んじゃってるもう関係ありありじゃない
で、ソガさんにモノノベさんがホロボされてナカトミさんのシンセキで後でフジワラさんになるカマタリさんがソガさんをやっつけちゃって、カマタリさんの子のフヒトさんのムスメムコのモンム天皇が、ナカトミオオシマさんの子で、ゲンメイ天皇の子のモンム天皇がフヒトさんと一緒にテンム天皇を追い出して日本のてっぺんを盗っちゃったってこと、で、ゲンメイ天皇が3種の神器ってゆう天皇のシルシをジトウ天皇からウバって正式な天皇になっちゃったから、自分ちは大昔から天皇のイエガガラだよって言っちゃったんだってこと。
めでたしめでたし、じゃないか、ゲキヤバァ、大騒ぎになるか、テッテイしてシカトされるかどっちか、あとの方にコイン1万枚ベット