2017年4月24日月曜日

最終兵器のミサ どこかからか持ってきた「天」姓天皇

 古事記に書いていない天姓の天皇を2代ずらして当てはめると665年から天豐財重日、668年から天萬豊日、678年から天豐財重日の重祚、685年から天命開別に当てはめることができるけれども、665年という年は旧唐書に日本の天皇を書いていて、天皇が天子と面会して、当然会っているのだから天皇名を知らないはずがなく、新唐書にこの頃の天皇名として天豐財と書いていて、665年に天豐財が即位したと考えて間違いなさそうでそのあとが子の天智と書いている。
『舊唐書 卷八十四 列伝第三十四 劉仁軌傳』
麟德二年 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會
『新唐書』
其子天豐財立 死 子天智立

 そうすると、668年から天豐財に変わって天智天皇が即位して694年まで続いていることになるけれど、天皇名が変わっているのに同じ天皇で、逆に695年から天武・文武・元明と天皇が変わっているにもかかわらず日本書紀では飛鳥浄御原天皇と書いている、とゆうことは、日本書紀の天皇は一つの宮(飛鳥浄御原)に複数天皇(天武・文武・元明)がいたり、一人の天皇(天智)が宮(難波・後岡本・大津)を変えると複数の天皇(孝徳・斉明・天智)と書かれて、さらに文武・元明天皇に並行して持統天皇がいることが解った。
しかし、理論上は良いとしても、死亡年齢が合わないし、乙巳の変も壬申の乱も合わないと批判されるだろうけれど、乙巳の変も壬申の乱もこの名前が最初から有ったわけではなく、日本書紀を書いた時乙巳の変はその干支に当てはまっただけの話だ。
ところが、 文忌寸祢麻呂墓誌板に壬申年将軍という碑文が707年に書かれていてやはり壬申の乱が有ったと言われそうだけど、日本書紀どおりの壬申の乱ではなく、孝徳天皇の弟と左右大臣が天智天皇に対してクーデターを起こして失敗した事件の可能性が高く、天武天皇の政権奪還は695年の大友皇子に対するクーデターだ。
『文忌寸祢麻呂墓誌板』
 壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻
呂忌寸慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒

天智天皇が694年まで生きていた証拠は692年に郭務悰が造らせた仏像を九州から天智天皇に病気治癒祈願の仏像を送っているけれど、上送という言葉は他の日本書紀の場合では人間も上送していて、20年近くもほっておいての上送は有り得ないし、この場合郭務悰が仏像を造らせて大宰率が僧侶とともに天智天皇のもとに送ったことを意味している。
『日本書紀』持統六年閏五月乙酉
詔筑紫大宰率河内王等曰。宜遣沙門於大隅與阿多。可傳佛教。復上送大唐大使郭務爲御近江大津宮天皇所造阿彌陀像。

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