2017年4月12日水曜日

最終兵器のミサ 中国史書と日本書紀

 前回は三国志が古事記の対象外の国のことだと証明したけれど、三国志以降の隋書までの中国史書と日本書紀もまったく合わないけど、教科書は無理やり奈良天皇家の話とこじつけている、だけど、隋書を読むと、阿蘇山の情景を書いていて、奈良の話とはとても思えない。
そして、聖徳太子を天皇にしてしまい、裴世清は簡単にだまされて隨の官僚はパープリンと、なんと失礼な日本人と思いませんか。
中国に対抗して日出る国の天子と宣言する失礼な臣下の国に偵察を兼ねてやってきた官僚たちをあまりにも軽視する、分析力のない、米国を分析できずに日本を凄惨な戦いに導いた官僚と同じだと見たのだろうけれど、中国は白村江で大勝しているのだから、中国の分析は間違っていないことを証明していて、現代の古代の見方が間違っているのを証明した。
とゆうことは、唐の時代も、日本書紀と隋書は違う国を対象にしていると書いていて、倭国の東に秦王国があって倭国に付属しているとは言っているけど、これもどうかわからないし、王国というのだから王様がいる。
   『隋書』
 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 
 自竹斯國以東皆附庸於俀

そして、倭国は大王と呼ばれていて、古事記には全く登場しない地位で、2つの考え方があって、古事記は元々大王と書いてあったものを天皇にしたか、元々大王と書かず天皇と書いてあったかのどちらかだけど、古事記には王子も皇子もどちらも書いてあって、大王と書いてあればそのまま書いたと考えることが妥当に思えて、日本書紀では大王も天皇もどっちも書いてあって、大王は仁徳天皇から舒明天皇の間だけ書いていて皇極天皇の大王は朝鮮の王の話で、日本の大王は629年が最後だ。
そして、継体天皇の時代に百濟本記という朝鮮の今では残っていない本に日本の天皇や太子・皇子が死んだと書いていて、大王を書いているのだから、原文のまゝ天皇と書いていたと考える方が妥当に感じる。
だから、継体天皇の時代には朝鮮では日本と呼んだ秦王国の前があって王を天皇と呼んでいて、その時代に九州には大王と呼ばれた倭国があって、秦王国が629年まで続いていたということ。
その後で、倭国が消えて日本国が突然現れているけど、倭国と日本国は別国だけど国の領土が突然増えることはありえないし、もとの秦王国の有った地域にしか新しい日本を誕生させる地域はないし、この秦王国の地域が日本で、政権自体も連続性が無いように旧唐書では記述しているけど、新唐書では一転同じ国としていて、新唐書は天皇の相続に血縁を書いていない天皇が有る。
ようするに、隋書以前の中国史書は日本書紀や古事記と違う地域をずっと書き続けてきて、その東にずっと中国が無視した日本があって、日本書紀・古事記には中国のことがほとんど書いていない、すなわち、日本書紀も中国を相手にしていないのだけど、新唐書の時代には日本は古の倭国だと書いていて、筑紫から出発して奈良で建国したと書いていて、現在の天皇家が初代から奈良にいらっしゃったことになって、旧唐書から新唐書の間に旧倭国が政権を奪ったことが解る。

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