記紀の神様の名や人名をみていると「亦名・更名・一書云」でいくつも名前を持っているけれども、神様に別名があるのは簡単に説明が付き、日本には合祀という習慣があって、例えば祀る地域が災害で住めなくなると移住するのだけれど、移住するときに神様も一緒に移住して、移住先にはもちろん既に人が住んでいて神様を祀っていて、いざこざをおこさないで一緒にまとまろうとすると新しく宮を建てて神を祀ると対立を産むので一緒に祀ることにすると、2つの神様は何代かすると1つの神様になってしまって、2つの名前を持つことになる。
しかし、侵略という形で移住すると、被支配者を全滅しない限り被支配者の側の神様のところに支配者の神を祀って被支配者の神様より上位に祀って被支配者に支配者の神様も祀らせれば上下関係が一目瞭然でそれが刷り込まれることになる。
そして、時間がたつとやはり1つの神様になって別名を持つことになって、一つの宮におかない上下関係に差がありすぎる場合は別の宮に被支配者が神様を祀っていると神様に上下関係が生まれることになって、近い関係の神はまたの名、遠い神は上下関係を持って、権力を集中させていくという、時間はかかるけれども損害を最小限にできる支配体制を作り上げた。
この支配体制を形成した王朝は人名も同じ方法を取り入れてしまったようで、王の名前や皇子の名前・奥さんやの奥さんの親の名前にまたの名をたくさんかいていて、学者は諱と片付けているけれど、またの名をつける人物とつけない人物が入り混じるのは片手落ちで、しかも、またの名をつける人物は重要人物が多いことから、記紀を記述した人が意味があって混乱させようとしていると考えるべきだ。
それにくわえて、元明天皇の母親の名前が解らないのでなくどちらかわからない、目の前の天皇の母親であるのにわからない、ご主人の名前も間違うなどというのは考えられず、元明天皇があいまいにさせている、すなわち、日本書紀の系図は元明天皇の系図ではないことがわかる。
そして、記紀の系図がよく似ているということは元明天皇の系図ではないけれど一貫した系図で何らかの王朝の系図に元明天皇の系図を当てはめているということだ。
同じような系図が並んでいるけれど、元明天皇の夫の日並や子の文武天皇は草壁皇子や軽皇子ではない、元明天皇の母親か父親が推古天皇の可能性があるということで、それを証明するように、皇極天皇から天皇名が「天」から始まって、他に「天」から始まるのは欽明天皇だけで、古事記は日本書紀から天姓を削除してしまっている。
古事記は仁賢天皇以降は系図を記述するだけであるにもかかわらず推古天皇で終わってしまっているけれど、系図だけなら持統天皇まで書こうとすれば書けるにもかかわらず書いていない、当然で、書けないから書いていない、本人の親まで古事記に書いてあるから書けないと考えざるを得ない。
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