2017年4月10日月曜日

最終兵器のミサ 古事記と三国志

 前回は、江戸時代の国粋的学者の小さな井戸の中で大将なら良いという考え方で出来上がった説の話をしたけれど、あのひとらが重視した「古事記」と「三国志」を本当に彼らは読んだのかと言いたくなる。
「三国志」に出てくる国は「イト国」以外は「古事記」に全く出てこないことをあの人たちは知っているのだろうか。
多くの、人達が三国志の研究者が地名当てをしているけれど、みんなこじ付けばかりで、邪馬台と倭、對海と對馬、一大と壱岐その他は全く古事記に出てこない。
「伊都」以外は中国の見方と日本の見方が違うのだけど「伊都」は同じということは邪馬台国の認識と古事記を書いた日本の認識がちがう。
そして、「三国志」では矛で都を守っていると書いているけど、古事記には矛は出てくるけどそれは祭祀に使う道具で出てくるだけで、日本書紀の武器は剣で、まさか、邪馬台国がおまじないで女王様を守っているなどと言うことはないだろう。
ようは、古事記と三国志は違う地域のことを書いていて、日本は、壱岐・対馬・伊都他約30国以外の地域のことだということで、前回書いたように、邪馬台国は福岡市東区近辺糟屋郡と書いたように、筑紫は三国志が書く倭国で、日本は三国志が書く東の倭種ということになる。
そして、後漢書に書く漢時代には東に「クナ国」があったのに三国志では南と書いているように、後漢の時代に東の倭種が「クナ国」を押しやった結果を書き、その落ちぶれた「クナ国」になかなか勝てないため中国に泣きついたのが邪馬台国なわけだ。
    『後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五』
  自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王
   『三国志』
  女王之南又有狗奴國

だから、東の倭種は「クナ国」の地域も支配下にしてより強大になった国なのだけど、中国はただの倭種としか書いていない、ということは、中国が東の倭種は敵で無視していて、たてまえで、後に倭国の付属国と倭の5王が言っているけど、百済を除外されているように、実際は付属国ではなく独立した国々で、中国と敵対している国を倭国の付属国としたのだ。
もちろん、その倭国を日本は攻撃していないので、もしかしたら、中国との緩衝材としていたのかもしれないけど、継体天皇まで日本は倭国を攻撃しないで、筑紫の王の磐井を攻撃してその蜜月関係は終わったけれど、戦果は糟屋郡(邪馬台国があったところ)だけで葛子は許されているということは、直接中国と対峙したくないという戦略があった。
すなわち、三国志の倭国は古事記に記述されていない、福岡平野と佐賀県・長崎県・壱岐・対馬・種子島・屋久島・薩摩が倭国の領域で、筑後平野以南、宗像以東、関東以西が古事記の書いている日本だった、倭国と東の倭種を合わせた地域というのは銅鐸が出土している地域のことでその国々が前漢時までに中国に朝貢した120余国で東の倭種の国々の名前を知っていて、東鯷国がそのうちの20余国と書いていた。
   『漢書 卷二十八下 地理志第八下 呉地条』
 會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云

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