2017年4月28日金曜日

最終兵器のミサ 日本書紀の年号

 いままで、日本書紀は天皇が2代ずれていると言いながら紀伝体で書かれているけど編年体部分の史書の年号だけそのままというのは矛盾していると言われそうだけれど、私は欠史8代の記述に関してこの時期に内容がなく崇神天皇の時代の紀元前94年から記述したのは干支を覚えてその干支を漢の年号と対応して基準にしたのではないかとかいた。
編年体の歴史を書くためには物差しが必要なのだから、西暦も始まっていないので物差しはないのだけど、漢字と干支を教えてくれて、冊封体制に入った倭は中国に元号という基準になりそうな年号があることを知って書きだしたと思われて、そうでなかったら、欠史8代にももっといろいろ書いてあってもいいはずだ。
ところが、古事記を書いた王朝は中国の物差しをつかわないで、紀伝体を使って書いて、その他の資料も紀伝体で書かれていて、そのなかに現代に残っている史書があって、それが先代旧事本紀で、初代から何世の孫という一寸変わった書き方で、その時々の天皇を書くことで対応させているけれど、同じことを日本書紀も行ったと思うのが普通だ。
日本書紀を書いた王朝は宮ごとに書いた古事記や先代旧事本紀のような記録を持っていて、中国の元号を書いた記録も持っていて、その資料をつなぎ合わせたのが日本書紀で、先代旧事本紀は日本書紀の宮にあわせて系図と事績を書いたということだ。
だから、宮には宮を建てた人物の即位前までの記事、即位記事、家族の記事が書いてあって、死亡記事も何人もの天皇死亡記事があるけれど、書くときは最後の人物を書いて終わる、だから古墳はまとまっていくつも出てくる、年齢は天皇と皇太子の年齢を加えた年齢を即位年齢として、それから宮が続いた年数を加えて死亡年齢としたと思われる。
すなわち、神武天皇は30歳、皇太子の手研耳15歳の時東侵して6年後に建国して76年後に宮が終了したという資料が残っていたことをしめしていて、古事記に書いてあるような内容は宮や天皇について移動するけれどそれ以外の編年体様式のことは移動しないという原則が日本書紀にはあると思れる。
『日本書紀』 
  神武天皇即位前紀
 年十五立爲太子 長而娶日向國吾田邑吾平津媛 爲妃 生手研耳命
  神武天皇即位前紀甲寅年
 及年四十五歳
  神武天皇七六年
 天皇崩于橿原宮 時年一百廿七歳
 
だから、日本書紀の内容を動かす時も適当に動かすのはルール違反で、勝手に動かして言いとなったらかなり多くの時間をかけて証拠を集めて証明しなければいけないし、もちろん、天皇について動くときも動かさないときも理由がいるので、干支の1・2巡ももちろん2年だの30年だの移動しようと思ったら私がこれまで書いたような論証を行いすべて一定に例外なく動かさなければいけないし、もちろん、日本書紀の間違いなどとゆうのも同じで、自分の説に合わないから間違いなどと言うのはルール違反で、お互いの論拠が間違いだとの言い合いで泥仕合になるだけだ。
古文書が間違いと言う場合は確実な理由が必要で、理由がいらなければそれは空論・絵空事になって理論とかけ離れてしまう。

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