古事記の序文を私は大嫌いで、大安万呂が凄いおべんちゃらを使って書いているからで、そのおべんちゃらの内容が、元明天皇は中国古代の王朝の夏の禹王や殷の湯王という伝説の王朝創始者と比べてそれより優れていると言っていて、王というのはこんな歯の浮くような言葉を聞くのがうれしくて仕方がないのだろうけど、元明天皇はさすがにまともに取らなかったのか古事記を正史にしなかった。
<古事記>
可謂名高文命、徳冠天乙矣。
しかし、大安万呂は元明天皇が王朝創始者だと言っていて、元明天皇の父親天武天皇を王朝の礎を築いたけれど皇帝になっていない人物の周王朝の創始者の父周王や中国の神話の全皇帝の創始者と比較して実際には皇帝になっていない人物に当てはめている。
<古事記>
清原大宮昇即天位。道軼軒后、徳跨周王。握乾符而摠六合
王朝の礎を築いた人物と初代皇帝の間に持統・文武天皇を置くというのは間を抜いて間抜けではいないが間抜けな話で、元明天皇が初代ならその礎は文武天皇で、天武天皇が礎なら持統天皇が初代皇帝でなければ意味が通らない。
そして、天武天皇は飛鳥浄御原宮に天皇がいる時にすきを窺っていて天武天皇を破ったと意味不明な文章を記述して、実際は大津宮に大友皇子が即位しようとしていた時に天武天皇が政権を奪って岡本宮から飛鳥浄御原宮に入ったはずである。
<古事記>
曁飛鳥清原大宮御大八州天皇御世、潜竜体元、洊雷應期。
日本書紀より後に書き換えたのならこんな間違いを書くはずがなく、ようは、飛鳥浄御原宮天皇(天武天皇)の時代に、文武天皇が政権を奪って飛鳥浄御原宮で即位したけれど、正式に即位できないで、正式な天皇は飛鳥浄御原宮以外で即位していたけれど、713年に元明天皇が正式に天皇になったということを序文に書いているのだ。
文武天皇は藤原宮で即位しているはずと批判をうけそうだけれど、続日本紀には慶雲元年704年に藤原京を都にしたと書いているように、文武天皇は飛鳥浄御原から藤原に遷都したことが証明されていて、教科書に載っていることに疑問符がつくことがわかる。
<続日本紀>
慶雲元年十一月壬寅 始定藤原宮地。
とゆうことは、天武天皇から直接文武天皇に政権が移り持統天皇の場所がなくなってしまったということだ。
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