2017年4月26日水曜日

最終兵器のミサ 天皇と宮

 2代ずれているなどと言う大それた考えは中々受け入れてもらえそうもないからもう少し説明しなければいけないと思うけど、まずは本当に天皇名というのが宮の名前で同じ宮に何代も天皇がいたり、一人の天皇が幾つかの宮を替えたために複数の天皇になってしまったかという事を考えてみる。
日本書紀は孝安天皇の102年を最高に100年近く在位した天皇がいっぱいいるのだけど、不思議なことに自分たちが長く生きることが解っているように皇太子を決めないで、孝安天皇なんて76年在位してから26歳の皇太子を決めていて孝安天皇は孝昭天皇68年に20歳で皇太子になって15年後すなわち35歳で即位して111歳の時85歳で生まれた子を26歳の時に皇太子にして137歳で死んだわけで、これは誰でも嘘と思うのが当然。
ところが、安寧天皇は綏靖天皇25年に安寧天皇が21歳で立太子して8年後に綏靖天皇33年に安寧天皇が29歳で即位してその38年後に67歳で安寧天皇が亡くなったはずが57歳死亡になっていて、じつは綏靖天皇24年に安寧天皇が20歳で即位して儀式を21歳で行って、太子になることが決定して38年後に誕生日前の57歳、58歳になる前に亡くなった、すなわち、立太子とゆうのは天皇の即位、とゆうことは綏靖天皇25年が安寧天皇元年とゆうことを証明している。
『日本書紀』 安寧天皇即位前紀
  天皇以神渟名川耳天皇廿五年、立爲皇太子。年廿一。〇卅三年夏五月、神渟名川耳天皇崩。
  卅八年冬十二月庚戌朔乙卯。天皇崩。時年五十七。

ということは、まだ綏靖天皇が生きているけれど安寧天皇が即位するということは天皇が2人いて実質の統治は安寧天皇が行っている制度だということ、そうすると、安寧天皇が立太子前に誰かが綏靖天皇と一緒に統治した人物がいるはずだけれども書いていない人物、常識的に考えれば長男が統治していると考えられて、実際、神武天皇の長男手研耳命が即位していないのに長く統治したと書かれている。
『日本書紀』綏靖天皇即位前紀
其庶兄手研耳命、行年已長、久歴朝機。

ようは、神武天皇は同じ宮に住む長男手研耳と親子で一緒に国を支配して、綏靖天皇は別の宮で安寧天皇と一緒に国を支配したということ、とゆうことは安寧天皇は分家ということで、立太子の年齢が3歳と書いてある応神天皇以外は全員13歳以上で応神天皇は摂政がいるということは大人だけが天皇になる資格があって、長男がいないか12歳以下の子供の場合に立太子して分家が天皇になるということ。
だから、推古天皇は即位してすぐに太子を決め、太子を決めていないのは長男が継続して数人の皇位継承が行われているということ。
ぎゃくに、倭の5王の一人武は577・478・479・502年に中国史書に出てくるけれど、この時の天皇は雄略天皇・清寧・顕宗・仁賢・武烈天皇にわたっているけれど、近飛鳥八釣宮・少郊・池野・甕栗と宮が書かれていて顕宗は5人の天皇をまとめた天皇と考えられるし、このことは後日追加して書いてみたい。
『日本書紀』顕宗天皇元年 正月己巳朔
乃召公卿百僚於近飛鳥八釣宮。即天皇位。百官陪位者皆忻忻焉。或本云。弘計天皇之宮有二所焉。一宮於少郊。二宮於池野。又或本云。宮於甕栗。

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