持統天皇の居る場所が無くなったと前回書いたけれども、古事記の序文でわかるとおり、天武天皇が文武天皇に皇位を奪われたといっても文武天皇が正式に皇位についたわけじゃなく、正式な皇位は持統天皇が受け継いでいて713年に元明天皇に奪われたわけだ。
すなわち、日本書紀は15年後ろにずれないといけなかったということがわるけれど、ずれていることを証言している史書があり、それが新唐書で、隋書に出てくるタリシヒコは推古天皇ではなくて2代前の用明天皇だと書いている。
『新唐書』
次用明亦曰目多利思比孤 直隋開皇末始與中國通
そして、用明天皇は2年しか在位していないけれど、用明天皇が推古天皇の位置にあれば36年間在位したことになって、用明天皇の皇女酢香手姫が3代37年間斎王を務めるけれど、本来斎王は1代限りで用明天皇が推古天皇なら全く問題にならない。
『日本書紀』
以酢香手姫皇女拜伊勢神宮奉日神祀 是皇女自此天皇時逮乎炊屋姫天皇之世奉日神祀 自退葛城而薨 見炊屋姫天皇紀 或本云卅七年間奉日神祀 自退而薨。
そして、持統天皇が在位したと言われる時期にはこれが持統天皇と言える人物が一つも見つからず、704年以降と考えられる時期に藤原朝の文が出てきて、さらに、淳仁天皇が舎人親王59歳のときの子供で天武天皇が高齢のときの子が舎人親王だったり、光仁天皇が施基親王の50歳頃の子供と日本書紀と続日本紀をまたぐ人物は現代を思わせる程の高齢出産であるけど、15年後ろにずれるとどちらも30代の子でそれ程高齢出産ではなくなる。
このように、日本書紀は書かなくてもよい持統天皇を書いてしまったために2代ずれてしまったことがわかったのだけど、天武天皇は飛鳥浄御原に遷って、文武天皇が引き続き飛鳥浄御原を都としたと言っているのだけど、日本書紀では持統天皇から文武天皇へ藤原宮で政権を引き継いでいて、本来の飛鳥浄御原を日本書紀では藤原宮と呼ぶことにしたようだ。
すなわち、日本書紀の飛鳥浄御原は695年から平城京に遷る前年の709年までの15年間を言っていて、天武天皇の在位期間15年と同じで、持統天皇は文武天皇や元明天皇と並行して天皇になっていることがわかり、文武天皇は天皇になったと書いてはいるけれど、実際はまだ天武天皇から引き継いで持統天皇が正式な天皇で、元明天皇に正式な天皇の位を奪われて、古事記の序文どおりになった。
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