2024年12月30日月曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話12 伊迦賀色許男

   大綜杵の子供には、伊迦賀色許賣と伊迦賀色許男がいる。『古事記』によると、孝元天皇の時代の妃である内色許男の娘の伊迦賀色許賣の娘は、当然のことながら、『舊事本紀』に記される開化天皇の時代の妃、大綜杵の娘である伊迦賀色許賣と考えられる。

つまり、孝元天皇の時代における大綜杵の妃は、内色許男の娘である伊迦賀色許賣であり、彼らの子供である比古布都押之信は伊迦賀色許男にあたる。跡取りとなる姫である伊迦賀色許賣については、記述が残されていない。これは、跡取りの姫は記録しないというルールによって記述されていない可能性がある。神武から孝安天皇まで、1王朝に数代の皇位継承が有ったと考えられるのに、姫は全く記述されないのが証拠である。跡取りの姫が後を継げば王朝は続くため、特に記述する必要がないからだ。しかし、跡取り以外の者が後を継ぐ場合は、王朝が変わることになる。

したがって、伊迦賀色許賣もまた分家王朝に属すると考えられる。内色許賣の跡取りの姫は『古事記』には記述されていないが、跡取りは倭迹迹姫であったと推測される。そして、『古事記』には記載があるものの、『日本書紀』には「天皇の母弟」とされる少名日子建猪心についての記述がない。

さらに、『紀氏家牒』には「孝安天皇曽孫屋主忍武雄心」が記されており、建猪心が武内宿祢の父であることが述べられている。武内宿祢の父は比古布都押之信、孝安天皇の曽孫は『古事記』に少名日子建猪心が曽孫として倭迹迹姫の代わりに記述されている。このように、倭迹迹姫の婿が比古布都押之信であることが証明されている。つまり、倭迹迹姫は葛城之高千那毘賣であり、倭迹迹姫と父も母も異なり兄妹ではない。すなわち、輕堺原宮天皇の妃は内色許賣であり、伊迦賀色許賣で無かったように、春日伊邪河宮天皇の妃は其々異なる王の妃とわかる。

内色許賣は波延王朝の後継者の蝿伊呂泥娘で、倭迹迹姫はその後継者、波延王朝は丸迩臣の祖の帶日子國押人もその一人だった。すなわち、丸迩臣の祖の後継者の倭迹迹姫は意祁都比賣だった。

2024年12月27日金曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話11 二重権力

  大臣の就位は、出雲色が懿徳2年の遷都後すぐに、出石心は孝昭天皇の治世の初年に大臣に就位しているが、内色許男は、恐らく、孝元8年に2代目が皇位継承した時に大臣となっているようだ。また、同時に大綜杵が大祢になって、大祢の名は安寧4年に出雲醜が政大夫に就位した時、初めて侍臣となって出来た。大祢は皇后()に仕える、神に準ずる人物であると考えられる。

懿徳天皇の治世には大祢の役職が存在しないため、大臣がその役割を兼務していたようだ。大綜杵も同様に、開化天皇の治世8年に大臣に就位しており、二名の武建と大峯が大祢となっている。これは皇后が二人いて、朝廷が分裂していたことを示唆している。大綜杵は内色許男が大臣に就位した時に大祢になっており、物部氏にも二重権力が生じたと考えられる。

また、穂積臣の祖の子孫として若帯日子の義父の建忍山垂根が存在する。彼の娘である弟媛(『古事記』では弟財郎女)は阿波君の祖である息長田別を生み、その子が杙俣長日子、その子が飯野眞黒比賣、その子が須賣伊呂大中日子、その子が迦具漏比賣だ。ところが、迦具漏比賣は先祖返りして、若帯日子の親の大帯日子の妃となり、彼女の子供が大江王、その子が大中比賣、その子が仲哀天皇の子の香坂王と忍熊王だ。忍山垂根の後裔が忍山垂根の義兄弟というのは矛盾している。

この建忍山垂根は、世代的に見ても成務天皇や倭建の義父の世代である。それなのに、迦具漏比賣の夫の大帯日子より前の人物では矛盾しているが、景行時に迦具漏比賣、成務時に大江王、仲哀時に大中比賣は世代に矛盾はない。迦具漏比賣以前を遡ると、景行時に迦具漏比賣、垂仁時に須賣伊呂大中日子、崇神時に飯野眞黒比賣、開化時に杙俣長日子(武建大尼)、孝元時に息長田別(内色許男)、孝霊時に弟媛(大水口の娘の坂戸由良都姫)、孝安時に建忍山垂根(大水口)と考えれば合理的である。ここでも、二つの勢力が残した系図を合成しており、物部氏に二つの権威があった。

2024年12月25日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話10 某姉の子と某弟の子

物部氏の大臣として、出石心の次は内色許男である。孝昭天皇の娘婿である蝿伊呂杼は、奧津余曾の子だと考えられ、次の天皇である孝安天皇は彦國押人である。王朝が交代したのだから、皇后が蝿の妹になり、妹婿は奧津余曾の皇子だったと考えられる。つまり、跡取りである娘婿の蝿伊呂泥が出石心の後継者であり、孝安天皇の治世において臣下として宿祢を賜姓されたことを意味する。三見宿祢も波延の後継者であり、次代の蝿伊呂泥、姉の婿である大水口や、次代の蝿伊呂杼、妹の婿である孝霊朝の宿祢の大矢口である。

大水口は穂積臣の祖であり、子供がいないとされているが、穂積臣の祖には内色許男や建忍山垂根がいて後継者がいた。大矢口の妃である坂戸由良都姫は、大水口の娘である可能性が高い。坂戸造は「五部造爲件領卛天物部天降供奉」と記述されるように坂戸造が物部氏の支配下の五部にあることから、その首領が大水口宿祢であると考えられる。すなわち、大矢口が姉の婿であると推定され、彼らの子供に孝元朝の大臣である内色許男と、皇后である内色許賣がいるが、大綜杵は開化朝の大臣であり、世代が異なる。

『古事記』には「娶内色許男命之女伊迦賀色許賣」とあり、『舊事本紀』には「伊香色謎命大綜杵大臣之子」と書かれている。つまり、内色許男の娘である伊迦賀色許賣が大綜杵の妃となり、娘が襲名した伊香色謎であるとすると、理にかなっている。内色許男の娘と内色許賣の皇子が結婚し、2代目の内色許賣と次女である伊迦賀色許賣が生まれたと考えられる。このような継承方法が、孝元天皇の治世で57年間にわたって繰り返された可能性がある。

内色許男の長男は内色許賣の娘に婿入りする。玖迩阿禮比賣の婿である絚某姉の大矢口の娘が内色許賣である香媛の可能性がある。また、日子刺肩別が内色許男である可能性も高い。同じように、蝿伊呂杼の子である日子寤間が開化朝の大臣の大綜杵である可能性が高い。頭に国名が付かない日子は唯一無二の天皇や大臣である。

2024年12月23日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話9 「一書云」の意味

  『日本書紀』によると、安寧から孝安天皇にかけて、懿徳天皇を除き、すべての天皇の皇后の父は「波延」であり、懿徳天皇は波延の弟だったと記述されている。これは懿徳天皇が分家にあたり、他の天皇は波延の娘婿が皇位を継承したことを示唆している。

安寧天皇の治世38年間では、初代安寧は波延であり、皇后は神氏の渟名底仲媛だ。波延の妹の子であり、また、娘婿である玉手見が2代目の天皇になった可能性が高い。それが、『日本書紀』の推定が「一書云磯城縣主葉江女川津媛」で、川津媛が阿久斗比賣であった可能性が高い。王朝は娘が相続し、もし分家した娘以外に相続する直系の娘がいなければ、王朝の交代が起こる。

綏靖天皇の治世33年間では、初代天皇は日子八井で、皇后は五十鈴依媛だ。2代目の天皇も皇后は変わらず當藝志美美だ。磯城縣主の阿多氏の久流久美は日子八井または當藝志美美のいずれかであり、その娘婿が彦湯支だ。彦湯支の妹は河俣毘賣、彼女の婿が3代目綏靖天皇の沼河耳だったと考えられる。これが、「磯城縣主女川派媛春日縣主大日諸女糸織媛」の記述と考えられ、子供が春日縣主に婿入りしたと考えられる。

懿徳天皇の治世34年間では、初代懿徳天皇である出雲醜の妃は、倭志紀彦の義妹である真鳥姫(天豐津媛)だ。出雲醜は波延の男弟(もしくは義理の妹婿)であり、その名は猪手と呼ばれたのだろう。2代目懿徳天皇は、猪手の娘である泉媛の婿で、もし泉媛が沙麻奈姫であれば、建飯勝が候補の一人だ。この建飯勝が、「磯城縣主葉江男弟猪手女泉媛」の記述に該当し、皇子が師木縣主の祖の賦登麻和訶比賣の娘、「磯城縣主太眞稚彦女飯日媛」と鋤友の娘に婿入りした可能性がある。

同様に、初代孝昭天皇は波延の和知都美であり、皇后は世襲足媛だ。娘婿である蝿伊呂泥は奧津余曾の子供であったと考えられる。この関係が「磯城縣主葉江女渟名城津媛」の記述に合致し、これらの関係が83年間にわたって続いていたと考えられる。

孝安天皇も「磯城縣主葉江女長媛」とされており、波延の朝廷が存在していたが、王朝は蝿伊呂杼、すなわち、分家した次女の婿に交代したと推測される。

波延の朝廷は「十市縣主五十坂彦女五十坂媛」と十市縣に皇子が婿入りすることで終焉を迎えた。孝霊天皇は波延の朝廷の分家である十市縣主の祖の娘を妃とし、新しい王朝を開いた。この新しい王朝が「春日千乳早山香媛」と春日縣主に婿入りした阿多氏の後裔の王によって始まったと考えられる。

2024年12月20日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話8 王朝の皇位継承

孝昭天皇の妃は、奧津余曾の妹である世襲足媛だった。つまり、孝昭天皇である出石心は奧津余曾と義兄弟の関係にあった。『古事記』では、孝昭天皇と同時代の多藝志比古について記述されている。この多藝志比古は葛木氏の項目で言及した、天忍男と考えられる。また、天忍男の兄が天忍人で、その妃は異母妹である葛木の出石姫(角屋姫)であった。すなわち、天忍男の妃の賀奈良知姫と出石姫と姉妹である可能性が高い。『古事記』では、多藝志比古が御眞津日子の兄弟として描かれ、出石姫は孝昭天皇の皇后である世襲足媛である可能性が高いと考えられる。

もし、葛木の池心宮の出石姫の夫が出石心であり、彼が天皇であったならば、地名「出石」と「心」宮の名を持つ天皇であることが理に適っている。淡海の葛川近辺に読みは異なるが小出石越えや小出石橋がある。

在位83年の皇位は4〜5代にわたって続く。世襲足媛の子は波延の娘に婿入りし、後に倭国豐秋狹と呼ばれた、秋津島に婿入りして王朝交代と2代目以降の天皇は波延の娘婿であったと考えられる。そして、その娘婿が奧津余曾の皇子であった可能性が高い。奧津余曾は『舊事本紀』によれば大連や大臣であったことから、この時期に権力の移動があったと考えられる。すなわち、奧津余曾・葛木彦の皇子と世襲足姫の娘との婚姻による継承で、秋津島に住む波延の分家の娘の押姫に婿入りして王朝交代が起きた。

また、『舊事本紀』では出石心が出雲醜の兄弟と記述されているが、懿徳天皇の義兄弟である師木津日子が出石心に該当する。しかし、出石心が孝昭朝の大臣であることを考えると、2代目の出石心も存在し、孝昭天皇の世代で2代目の出石心として和知都美が孝昭朝の大臣、すなわち天皇になった可能性が高い。

孝昭天皇・和知都美の後継者が蝿伊呂泥と蝿伊呂杼であり、前代の安寧天皇(縣主波延・彦湯支)の継承者も波延の娘婿の懿徳天皇が蝿伊呂泥か蝿伊呂杼であった。安寧・懿徳の王朝は40年弱の期間なので、初代の王と皇太子の2代が天皇の可能性が高い。すなわち、天皇の妃が波延の娘、皇太子も波延の娘の子であった。

2024年12月18日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話7 娘婿による皇位継承

懿徳朝の大臣である出雲醜の後継者は、娘の沙麻奈姫の婿である建飯勝だった。しかし、彼の孫である建甕槌と、劔根、高倉下らによって大臣の地位が奪われた。そして、彼らが奪った大臣の地位を継いだのが、孝昭朝の大臣である出石心である。つまり、出雲醜の時代から、政大夫として唯一無二の最高権力者が食国の政大夫から大国の大臣の地位に就き、唯一無二の大臣の出雲醜が懿徳天皇と後代に呼ばれ、その次の大臣の出石心が孝昭天皇と後代に呼ばれたと考えられる。その為、出雲醜と出石心が兄弟として、世代を被せた。

出石心の母、恐らく義母は川枯姫で、妃は新河小楯姫だ。これに関連する神社として、野洲川沿いにある川枯神社と新川神社が挙げられる。川枯神社は甲賀にあり、現在では川枯姫を祀る八坂神社に合祀されている。また、建甕槌は伊勢主幡の娘である賀貝呂姫の婿になり、伊勢の神麻績連の祖である八坂彦は尾張氏である。興味深いのは、幡(ハタ)と波延(ハエ)、田と江が違うだけの名前の類似や、孝昭天皇の皇后の兄が尾張氏の祖であり、後の時代に八坂入彦が生まれたことが偶然とは思えない点だ。

そして、建甕槌が妃の出身氏族の尾張氏に皇位を譲るのは理にかなっている。新川神社は、甲賀から下流に遷された神社であり、小楯姫を祀っている。川枯神社は水口にあり、出石心の子の名が大水口であることも偶然とは思えない。そして、和知都美がいた御井宮のあった場所が伊勢遺跡の伊勢と考えられる。

さらに、師木津彦は懿徳天皇との姻戚関係を結ぶことができなかったため、曲峽宮を離れ、川枯姫の宮の小楯姫に婿入りしたと考えられる。師木津彦には2人の子がいたが、そのうち1人は不明だ。しかし、跡取りの姫は川枯神社と同じ地域にある新川の小楯姫を襲名した姫であった可能性が高い。波延の故地である葛木の池心宮には和知都美が婿入りし、出石心大臣となったと考えられる。池心宮の名も池の「心宮」とも読め、出石心が心宮王のように記述され、無関係とは考えられない。

2024年12月16日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話6 息石耳の矛盾

『日本書紀』では、安寧天皇の子を息石耳と懿徳天皇と記しているが、「一云」では常津彦某兄、懿徳天皇、磯城津彦としている。しかし、懿徳天皇の皇后が息石耳の娘であるため、息石耳が懿徳天皇の兄弟であるとの説明文には矛盾が生じる。むしろ、息石耳が先代の河俣毘賣の夫の沼河耳であり、息石耳の兄弟は懿徳天皇ではなく、義兄波延の安寧天皇である可能性が高い。懿徳天皇の妃は息石耳の娘の天豊津媛に「一云」で波延の娘ではなく、波延の弟の娘と記述され、波延の義弟は沼河耳で沼河耳が息石耳と合致する。

すなわち、安寧天皇の子は、常津彦某兄、懿徳天皇、磯城津彦であり、これは『古事記』や『舊事本紀』とも一致する。某兄は姉の夫を意味し、某兄の義弟は磯城津彦または懿徳天皇である。さらに、磯城津彦には義妹の「(倭志紀彦妹)真鳥姫」が存在し、懿徳天皇はその某弟であると考えられる。師木縣主の祖の河俣毘賣の娘が真鳥姫、すなわち、天豊津媛である。

すなわち、懿徳天皇は真鳥姫の夫の出雲醜であり、政大夫の地位を継承し、さらに大臣となった。これは古代の王位継承の方法に従っている。すなわち、出雲醜の母の出雲色多利姫は彦湯支の妃ではなく、娘の真鳥姫の夫の母、義母である。同様に、出石心の母の淡海川枯姫も彦湯支の妃ではなく、子の磯城津彦の義母と考えられる。

すなわち、磯城津彦は、淡海川枯姫の娘と婚姻し、出石心(和知都美)が生まれたと考えられる。和知都美の子である蝿伊呂泥と蝿伊呂杼が波延の姉の夫、妹の夫であり、波延の継承が確認される。

出雲醜は懿徳朝の大臣であり、出石心は孝昭朝の大臣だ。この二人の間には一世代の差があり、出雲醜の義兄である磯城津彦の子が出石心である場合、その世代の差に説明がつく。