2020年8月12日水曜日

最終兵器の目 推古天皇6

  『日本書紀』慶長版は

十三年夏四月辛酉朔天皇詔皇太子大臣及諸王諸臣共同發誓願以始造銅繡丈六佛像各一軀乃命鞍作鳥爲造佛之工是時髙麗國大興王聞日本國天皇造佛像貢上黃金三百兩閏七月已未朔皇太子命諸王諸臣俾着褶冬十月皇太子居斑鳩宮十四年夏四月乙酉朔壬辰銅繡丈六佛像並造竟是日也丈六銅像坐於元興寺金堂時佛像髙於金堂戸以不得納堂於是諸工人等議曰破堂戸而納之然鞍作鳥之秀工以不壞戸得入堂即日設齋於是會集人衆不可勝數自是年初毎寺四月八日七月十五日設齋五月甲寅朔戊午勅鞍作鳥曰朕欲興隆內典方將建佛刹肇求舍利時汝祖父司馬達等便獻舍利又於國無僧尼於是汝父多湏那爲橘豊日天皇出家恭敬佛法又汝姨嶋女初出家爲諸尼導者以修行釋教今朕爲造丈六佛以求好佛像汝之所獻佛本則合朕心又造佛像既訖不得入堂諸工人不能計以將破堂戸然汝不破戸而得入此皆汝之功也則賜大仁位因以給近江國坂田郡水田二十町焉鳥以此田爲天皇作金剛寺是今謂南淵坂田尼寺秋七月天皇請皇太子令講勝鬘經三日說竟之是歲皇太子亦講法華經於岡本宮天皇大喜之播磨國水田百町施于皇太子因以納于斑鳩寺十五年春二月庚辰朔定壬生部戊子詔曰朕聞之曩者我皇祖天皇等宰世也跼天蹐地敦禮神祗周祠山川幽通乾坤是以陰陽開和造化共調今當朕世祭祠神祗豈有怠乎故群臣爲竭心冝拜神祗甲午皇太子及大臣率百寮以祭拜神祗

【十三年の夏四月の辛酉が朔の日に、天皇は、皇太子と大臣及び諸王と諸臣に詔勅して、一緒に同じがんかけを発起して、金銅の丈六(?1m30)の仏像を、各々一躯を造った。それで鞍作の鳥に命じて、佛造りの棟梁にした。この時に、高麗の国の大興王は、日本国の天皇が、佛像を造ると聞いて、黄金三百両を献上した。閏七月の己未が朔の日に、皇太子は、諸王と諸臣に命じて、しもべと同じような腰巻きを着せた。冬十月に、皇太子は、斑鳩宮に居た。十四年の夏四月の朔が乙酉の壬辰の日に、金銅の丈六の佛像一対が出来上がった。この日に、丈六の銅像を元興寺の金堂に鎮座させた。その時、佛像が、金堂の戸より高くて、堂に納めることが出来なかった。そこで、諸々の技術者達は、話し合って、「堂の戸を壊して納めよう」といった。しかし鞍作の鳥の優秀な技術で、戸を壊さないで堂に入れることが出来た。その日に祭壇を設けて拝み、そこに集まった人たちは数えきれなかった。この年からはじめて寺毎に、四月の八日と七月の十五日に祭壇を設けて礼拝した。五月の朔が甲寅の戊午の日に、鞍作の鳥に「私は、経典を書き起こして流布しようと思う。丁度、寺院を建立しようと、はじめて佛の骨を求めた。その時お前の租父の司馬の達等が、すぐに佛の骨を献上した。そして国に僧尼がいなかったので、お前の父の多須那が、橘豊日の天皇の為に出家して、佛法を恭しんで敬った。またお前の娣の嶋女が、はじめて出家して、諸々の尼の導者として、釈迦の教えを修行した。今、私は、丈六の佛を造る為に、よい佛像を求めた。お前が戯れに造った佛の試作品は、私の気持ちに適った。また佛像を造り終わって、堂に入れることが出来なかった。諸々の技術者が、考えても出来ず、今にも堂の戸を壊そうとした。それなのにお前は、戸を壊さないで入れることが出来た。これは全てお前の功績だ」と詔勅して、大仁の位を与えた。その為近江国の坂田の郡の水田二十町を貰った。鳥は、この田で、天皇の為に、金剛寺を建立した。これは今、南淵の坂田尼寺という。秋七月に、天皇は、皇太子に頼んで、勝鬘經(在家仏教を認める重要な経典)を説きあかさせた。三日かかって説き終わった。この歳に、皇太子は、また法華經(大乗仏教)を岡本宮で説きあかした。天皇は、大変喜んで、播磨国の水田百町を皇太子にほどこした為斑鳩寺に納めた。十五年の春二月の庚辰が朔の日に、壬生部を定めた。戊子の日に、「私は聞いたのだが、昔の私の皇祖や天皇達は、世の中をつかさどった。天に対して縮こまり、地に対しては音をたてないように歩いて、神祗を手厚く敬ってきた。全ての山河を祀り、人が容易に知りえないところに天地全てを導いた。それで、陰も陽も森羅万象すべてがなごみ始めて、神が造ったすべての物がみな整った。今、私の世になって、神祇を祭祀することを、どうして怠ることがあろうか。それで、役人共は心から神祇を拝みなさい」と詔勅した。甲午の日に、皇太子は大臣と、役人を率いて、神祇を祭り拝んだ。】とあり、閏十月乙亥朔は計算では7月が閏月なので、10月が閏月なら閏10月2日になり、10月は小の月なので大の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。

『上宮聖徳法王帝説』に「佛工鞍作鳥案祖父司馬達多須奈或本云播磨水田二百七十三町五段廿四歩云云又本云三百六十町云云有本云請願造寺恭敬三寶十三年辛丑春三月十五日始浄土寺云云注云辛丑年始平地癸卯年立金堂之戊申始僧住」とあり推古天皇十四年「播磨國水田百町施于皇太子因以納于斑鳩寺」と皇太子でも百町を与えただけなので、飛鳥天皇のための寺の法興寺の土地であることがわかり、この推古十三年は『船王後墓誌』阿須迦天皇之末歳次辛丑」の641年の飛鳥天皇の病気治癒を願った法興寺の金堂の記述で他の記事を結合している。

髙麗國大興王聞日本國天皇」と記述され、605年は秦王国で641年は倭国、日本国は540年頃までの巨勢王朝で、『三国史記』に出現する高句麗の興は519年即位530までの「安臧王諱興安」で、『梁書』に「宋大明二年賓國嘗有比丘五人游行至其國流通佛法經像」と457年に仏教が入り像もあり、敏達天皇六年に「遂安置於難波大別王寺」と大別王の邸宅に寺があった。

当然、金剛寺は641年以降で、「講法華經於岡本宮」は当然まだ岡本宮がないのだから岡本天皇14年すなわち大化5年699年以降に記述した白村江の頃講じたと思われ、難波宮が岡本宮で、白雉三年四月「請沙門惠隱於内裏使講無量壽經」が664年4月に入鹿が大法要を行ったと思われ、『日本書紀』の推古・舒明天皇が天智天皇の命令で記述されたことを物語っていて、乙巳の変以降は天智天皇までを700年頃に天智天皇の子や孫が661年の天智天皇の立太子から記述したことを物語っている。

仁徳天皇四年に「爲大兄去來穗別皇子定壬生部」と葛城氏の為に壬生部が置かれているので、おそらく、「拜神祗」は586年頃の用明元年の内容と思われ、仏教を取り入れようとして反対され、神祇を祀らせる命令を出したのだろうか。

2020年8月10日月曜日

最終兵器の目 推古天皇5

 今回は、憲法十七條で分量が多いので解説を先にする。

この太子が誰かを分析するのだが、キーワードは「三寶」で、推古天皇二年に「詔皇太子及大臣令興隆三寶是時諸臣連等各爲君親之恩競造佛舎」と「三寶」を取り入れた。

594年では伝統ある物部氏の秦王国が「三寶」を受け入れる可能性が低く、556年欽明天皇十五年の「立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子」と記述される、俀国王の法興帝2年の592年にあたらう時期が俀国の「三寶」を取り入れた時期だ。

倭国では「三寶」を受け入れが欽明天皇十三年「宜付情願人稻目宿禰試令禮拜」、敏達天皇十四年「大臣奉詔禮拜石像乞延壽命」、用明天皇二年「朕思欲歸三寶卿等議之群臣入朝而議」がその可能性がある時期だが、『舊事本紀』には「澤中倉太珠敷尊者・・・天皇不信佛法而愛文史矣」、「諱橘豐日尊・・・天皇信佛法尊神道」と用明天皇からのみ佛法の記述がある。

そして、556年欽明天皇十三年は俀国王の出家で俀国王就任だから567年に出家して、敏達天皇十四年は用明2年にあたり、用明天皇は存在しないので、推古2年が倭国の佛法開始ということになり、欽明天皇十三年の内容には「三寶」が含まれず、敏達天皇の記事は稲目の記事と思われて敏達十四年は628年、用明二年と推古二年は630年のこととなる。

俀国の法興王のために造られた『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』に「随奉三主紹隆三寳遂共彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁同趣菩提」と「三寶 」を貴んで王自らが出家して僧になるように、僧を重要視していることから、憲法十七條は俀国の憲法ということが解り、602年に憲法制定があったと思われる。

『舊事本紀』に「廾七年冬壬戌朔甲子制日夫不覔事君竭忠之臣者・・・課之道矣別而名之謂八義・・・謂孝悌忠仁礼義智信欤復天地日月星辰聖賢・・・八義冝制爵位其孝者天也紫冠爲一忠・・・自今巳後永為恒成」と『日本書紀』と異なる官位がある。

この廾七年冬壬戌朔は推古12年12月1日で17条憲法制定の年としている年で、この紫冠は皇極天皇二年「蘇我大臣蝦縁病不朝私授紫冠於子入鹿」と実際に与えられていて、推古11年の官位には色が記述されておらず、12月では『日本書紀』と合わないので、推古27に挿入したのである。

『舊事本紀』に「廾七年冬壬戌朔」は625年10月1日が候補で625年は馬子の妻秦王国御井夫人が天皇で、馬子は天皇と同等で皇太子は石上贄古の可能性が高く、そのため『日本書紀』に記述されず『舊事本紀』だけに記述され推古12年に合わないため飛鳥天皇の父の馬子が薨去する2年前だったので飛鳥天皇の崩御2年前、それで聖徳太子薨去の2年前となって推古27年に挿入されたと思われる。

すなわち、625年には畿内にも既に憲法の基本と官位があり、640に官位12階に変更した可能性があり、659年推古天皇三一年「即年以大徳境部臣雄摩侶小徳中臣連國爲大將軍以小徳河邊臣禰受小徳物部依網連乙等小徳波多臣廣庭小徳近江脚身臣飯葢小徳平群臣宇志小徳大伴連小徳大宅臣軍爲副將軍率數萬衆以征討新羅」と新羅討伐に行くのに官位12階が使用されている。

もちろん、理由をつけて新羅討伐を行わなかったのだから俀国の官名を持った人物の可能性が高いので、さらにまた、詳細に検討したい。

『日本書紀』慶長版は

十二年春正月戊戌朔始賜冠位於諸臣各有差夏四月丙寅朔戊辰皇太子親肇作憲法十七條一曰以和爲貴無忤爲宗人皆有黨亦少達者是以或不順君父乍違于隣里然上和下睦諧於論事則事理自通何事不成二曰篤敬三寶三寶者佛法僧也則四生之終歸萬國之極宗何世何人非貴是法人鮮尤惡能教從之其不歸三寶何以直枉三曰承詔必謹君則天之臣則地之天覆地載四時順行方氣得通地欲覆天則致壞耳是以君言臣承上行下靡故承詔必慎不謹自敗四曰群卿百寮以禮爲本其治民之本要在乎禮上不禮而下非齊下無禮以必有罪是以群臣有禮位次不亂百姓有

禮國家自治五曰絶餮棄欲明辨訴訟其百姓之訟一日千事一日尚爾况乎累歲湏治訟者得利爲常見賄聽讞便有財之訟如石投水乏者之訴似水投石是以貧民則不知所由臣道亦於焉闕六曰懲惡勸善古之良典是以無匿人善見惡必匡其諂詐者則爲覆國家之利器爲絶人民之鋒剱亦侫媚者對上則好說下過逢下則誹謗上失其如此人皆无忠於君無仁於民是大亂之本也七曰人各有任掌冝不濫其賢哲任官頌音則起姧者有官禍亂則繁世少生知剋念作聖事無大少得人必治時無急緩遇賢自寛因此國家永久社稷勿危故古聖王爲官以求人不求官八曰群卿百寮早朝晏

退公事靡盬終日難盡是以遲朝不逮于急早退必事不盡九曰信是義本毎事有信其善惡成敗要在于信群臣共信何事不成群臣無信万事悉敗十曰絶忿棄?()不怒人違人皆有心心各有執彼是則我非我是則彼非我必非聖彼必非愚共是凢夫耳是非之理詎能可定相共賢愚如鐶无端是以彼人雖?()還恐我失我獨雖得從衆同舉十一曰明察功過賞罰必當日者賞不在功罰不在罸執事群卿冝明賞罸十二曰國司國造勿歛百姓國非二君民無兩主率土地民以王爲主所任官司皆是王臣何敢與公賦歛百姓十三曰諸任官者同知職掌或病或使有闕於事然得知之日和如曽識其以非與聞勿防公務十四曰群臣百寮無有嫉妬我既嫉人々亦嫉我嫉妬之患不知其極所以智勝於已則不悅才優於已則嫉妬是以五百之乃今遇賢千載以難待一聖其不得賢聖何以治國

十五曰背私向公是臣之道矣凢夫人有私必有恨有憾必非同非同則以私妨公憾起則違制害法故初章云上下和諧其亦是情歟十六曰使民以時古之良典故冬月有間以可使民從春至秋農桑之節不可使民其不農何食不桑何服十七曰夫事不可獨斷必與衆宜論少事是輕不可必衆唯逮論大事若疑有失故與衆相辨辭則得理秋九月改朝禮因以詔之曰凢出入宮門以兩手押地兩脚跪之越梱則立行是月始定黃書畫師山背畫師

【十二年の春正月の戊戌が朔の日に、はじめて位冠を各々差をつけて諸臣に与えた。夏四月の朔が丙寅の戊辰の日に、皇太子は、自分の手ではじめて憲法の十七條を作った。第一に、争わないことを貴んで、逆らわないことを大事にしなさい。人は皆仲間がいるが道に熟達している人はそんなにいない。それで、ある人は君主や父親に従わなかったり、隣町との取り決めを破る。しかし、政府が争わず、民が仲良くして、物事を話し合って解り合えば道理は自然に通じ合い、出来ないことが無い。第二は、真心をこめて三宝を敬いなさい。三宝というのは、仏様と、仏様の教えと、その教えを奉じる僧のことだ。すなはち四生(母から生まれた動物と卵から生まれた鳥と水の中から生まれた魚と行いの良かった者から生まれた人間)の生き物が救い求めるところで、全ての国の一番大事なことだ。どの世のどの人もこの仏様の教えを貴ばない者はいない。人はよく教えに従えばだれも極悪にならない。三宝に依らなければ何でまがったものを直せるのか。第三は、

詔勅を聞いたら必ず謹んでききなさい。君主はすなわち天で臣は地だ。天は地に覆いかぶさり、地は天を担ぐ。朝・昼・夕・夜に従って行動しすれば、きっと運気を得る道が出来る。地が天に覆いかぶされば、すなわち、人々の声を聴け無くなってしまう。それだから、君主が言うことを臣が聞けば、お上が進めば人民はしたがう。それで、詔勅を聞いたら必ず謹んでききなさい。謹んで聞かなければ何もしなくても敗れ去ってしまう。第四に、官僚やすべての役人は、礼儀がとても大事だ。それが人民を治めるのに大事なことで、礼儀を持つことが最も大切だ。君主が無礼なら人民はきちんとしない。人民に礼儀が無ければ必ず罪を犯す。このため、役人が礼儀正しければ、位の順はみだれない。百姓に礼儀があれば、国家は何もしなくても治まる。第五に、あるものをすべて食べ尽くすようなことはせず、欲を棄てて、次の訴えには道理をはっきりとわきまえなさい。その百姓の訴えというのは、一日に千もあり一日でこうなのに、歳を重ねたらどれほどのものだろう。訴えを治めなければならない者が、いつも儲けようとして、賄賂を見てから裁こうとしていると聞く。それでは財産がある物の訴えは、石を水に投げるように勝利し。貧乏人の訴えは水を石にまいたら乾いてしまうように負ける。これでは貧しい人民はどうしたらよいのか。役人の行うべきことを行っていない。第六に、悪人を懲らしめて善行を奨励するのは、昔からの良いしきたりだ。これで善良な人は堂々と、悪人を見たら必ず正せ。お世辞を言ってだます者は、国家を転覆するよくきれる刃物で、人民を絶やす切っ先だ。また、こびへつらう者は、上位の者には耳障りの良いことを説いて、下位の者のその下位の過失を見たら上にその過失の悪口を言う。そのようにこれらの人は皆君主に忠義が無く、人民に対しては思いやりが無い。これも大きく世が乱れる原因だ。第七に、人は夫々やるべきことが有る。簡単にその道を外してはならない。それは賢明で道理をわきまえた人が官職を任されれば、功徳をほめる噂が鳴り響く。よこしまな者が官職に就けば、世の災いとなるような騒動が多発する。世の中には生まれながらに知恵を持つ者は少ない。心をこらすことで知徳にすぐれ、尊敬される。仕事の大小に関係なく、努力した人を得ることが出来ればきっと治まる。仕事が速いとか遅いは関係なく、賢者を処遇すれば自然にゆとりが出来る。これで国家が永久に続いて、危なくなることは無い。それで、昔の聖王は仕事の為に人を求め、人が官職を求めない。第八に、官吏や役人は、早く登朝して時刻が遅くなったら去りなさい。公務はとても大変だ。一日中仕事をしても終わることが無い。そこで、遅く登朝していては急用に間に合わず。早く去っていたらきっと仕事は終わらない。第九に、嘘をいわないことが正しい道の根本だ。どんな時でも嘘を言ってはならない。善悪も成功も失敗もいつも嘘を言わない信念の有り無しによる。役人共に嘘を言わない心があったら、どんなことでもできる。役人が嘘を言わない信念が無かったら、どんな仕事も失敗する。第十に、いきどおる心を絶って三毒の瞋恚を捨て去り、人の間違いをおこってはならない。人には皆心があり、その心は夫々こだわりがある。彼がすることは自分には合わない。自分がすることには彼が合わない。自分はいつも知徳にすぐれているわけではない。かれもきっと愚鈍ではない。どちらも凡人だ。この是非を誰が決められようか。どちらも賢く愚かなのは輪に端が無いのと同じだ。このように、ある人が怒りをあらわにしていたら、振り返って自分の間違いを恐れなさい。ただ自分のみが正しいと思っても、皆に従って同じようにしなさい。第十一に、功罪の真相を見抜いて、賞罰しなければならない。常日頃、功績が無くても賞を与え、罪も無いのに罰を与える。担当の官吏は賞ととがめをあきらかにしなさい。第十二に、国司や国造は、百姓をとりたててはならない。国に二人の君主はない。人民に二人の主はいない。国の果てまでの人民は、王を主とする。任地の役人は、皆、王の臣下だ。どうして公と二重に百姓から租税を取り立てるのだ。第十三に、夫々の官職に任用された者は、役目も同時に知っておかなければならない。病気や使者として仕事が出来ないことがある。しかし昔から解っているように物事の成り行きを知っていなさい。聞かなかったようにして、公務の邪魔をするな。第十四に、官吏や役人は、うらやみねたんではならない。自分がねたむ時は他人も自分をねたんでいる。うらやみねたむ苦しみは、ゆきつくところを知らない。自分に勝っていると悟って喜ばず才能が自分に勝っているとうらやみねたむ。これでは、五百年たって賢者に会っても、千年に一人の聖者を待っても賢聖を得ることが出来ない。どうやって国を治めればよいのか。第十五に、私事に背を向けて人のために生きることが臣下の行うべきことだ。凡人は自分の利益だけを考え必ずものたりなく思う。悔しがると、おなじ気持になれず、おなじ気持になれなかったら自分の利益だけを考えて人の邪魔をする。物足りないと決まりを破っておきてをそこなう。それではじめの章でいうお上も人民もやわらぎととのえなさいというのは、この心持だ。第十六に、人民をつかうには時季を考えるのが古くからの良いしきたりだ。だから、冬の月にハザマが有ったら、人民を使いなさい。春から秋までは、農耕や養蚕の季節だ。人民を使ってはならない。農耕をしないで何を食べればよいのだ。養蚕をしないで何を着ればよいのか。第十七に、自分一人の考えだけで物事を決めるな。かならず皆で話し合いなさい。小さなことは簡単で必ずしも皆と決めなくともよい。ただ、大事なことはよく話し合うことで、もしも失敗するかと思ったら皆と違いを見分けあうことで筋道を得られる。秋九月に、朝廷が行う儀式を変更した。それで「どんなときも朝廷の門を出入するときは、両手の平を地面につけて、両足の膝をついて、しきりを越えてから立ち上がっていきなさい」と詔勅した。この月に、はじめて黄書の彩色工房と山背の彩色工房を置いた。】とあり、四月丙寅朔は3月30日で3月が小の月なら標準陰暦と合致する。

2020年8月7日金曜日

最終兵器の目 推古天皇4

  『日本書紀』慶長版は

十年春二月巳酉朔來目皇子爲擊新羅將軍授諸神部及國遣(造)伴造等幷軍衆二万五千人夏四月戊申朔將軍來目皇子到于筑紫乃進屯嶋郡而聚舩舶運軍粮六月丁未朔巳酉大伴連囓坂本臣糖手共至自百濟是時來目皇子臥病以不果征討冬十月百濟僧觀勒來之仍貢暦本及天文地理書幷遁甲方術之書也是時選書生三四人以俾學習於觀勒矣陽胡史祖玉陳習暦法大友村主髙聡學天文遁甲山背臣日並立學方術皆學以成業閏十月乙亥朔已丑髙麗僧々隆雲聡共來歸十一年春二月癸酉朔丙子來目皇子薨於筑紫仍驛使以奏上爰天皇聞之大驚則召皇太子蘇我大臣謂之曰征新羅大將軍來目皇子薨之其臨大事而不遂矣甚悲乎仍殯于周芳娑婆乃遣土師連猪手令掌殯事故猪手連之孫曰娑婆連其是之縁也後葬於河內埴生山岡上夏四月壬申朔更以來目皇子之兄當麻皇子爲征新羅將軍秋七月辛丑朔癸卯當麻皇子自難波發舩丙午當麻皇子到播磨時從妻舍人姫王薨於赤石仍葬于赤石檜笠岡上乃當麻皇子返之遂不征討冬十月已巳朔壬申遷于小墾田宮十一月巳亥朔皇太子謂諸大夫曰我有尊佛像誰得是像以恭拜時秦造河勝進曰臣拜之便受佛像因以造蜂岡寺是月皇太子請于天皇以作大楯及靫又繪于旗幟十二月戊辰朔壬申始行冠位大德小德大仁小仁大禮小禮大信小信大義小義大智小智幷十二階並以當色絁縫之頂撮倊如囊而着縁焉唯元日着髻花

【十年の春二月の己酉が朔の日に、来目の皇子を新羅の攻撃の將軍にした。諸々の神部と国造と伴造達、併せて兵士二萬五千人を授けた。夏四月の戊申が朔の日に、將軍の来目の皇子が、

筑紫に到着した。それで進軍して嶋郡に駐屯して、船舶を集めて兵糧を運びこんだ。六月の朔が丁未の己酉の日に、大伴の連の囓と坂本の臣の糠手が、共に百済から帰った。この時に、来目の皇子は、病に臥せって征討出来なかった。冬十月に、百済の僧の觀勒がやってきた。それで暦の本と天文地理の書巻、併せて 占星術の技術書を献上した時に、勉強をしている人三・四人を下僕にして、觀勒について学ばせた。陽胡の史の祖の玉陳は、暦を習った。大友の村主の高聰は、占星術を学んだ。山背の臣の日立は、占星術の技術を学んだ。皆は割り当てをすべて学んだ。潤十月の朔が乙亥の己丑の日に、高麗の僧の僧隆と雲聰が、共にやって来て帰化した。十一年の春二月の朔が癸酉の丙子の日に、来目の皇子が、筑紫で薨じた。それで急使で、奏上した。ここで天皇は、それを聞いてとても驚いて、皇太子と蘇我の大臣を呼び出して、「新羅を征つ大將軍の来目の皇子が薨じた。その重大事の為に、新羅征伐が出来なくなった。とても悲しい事だ」と言った。それで周芳の娑婆に安置した。それで土師の連の猪手を派遣して、殯の事を任された。それで、猪手の連を娑婆の連と言ったのは、これが由来だ。後で河内の埴生の山の岡の上に葬った。夏四月の壬申が朔の日に、さらに来目の皇子の兄の當摩の皇子を新羅征伐の將軍とした。秋七月の朔が辛丑の癸卯の日に、當摩の皇子は、難波から出港した。丙午の日に、當摩の皇子は、播磨に着いた。その時に、一緒に付き従った妻の舍人の姫王が、赤石で薨じた。それで赤石の桧笠の岡の上に葬った。それで當摩の皇子は帰ってきた。とうとう征討しなかった。冬十月の朔が己巳の壬申の日に、小墾田の宮に遷都した。十一月の己亥が朔の日に、皇太子が、諸々の大夫に「私は、尊い佛像を所有している。誰かこの像を手にして仏を敬い拝まないか」と言った。その時、秦の造の河勝が進み出て「私が、拜みましょう」と言った。それで佛像を受け取って蜂岡の寺を建立した。この月に、皇太子は、天皇に願い出て、大楯と靭を作って、また旗じるしを彩取り描いた。十二月の朔が戊辰の壬申の日に、はじめて冠位を制定した。大徳・小徳・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智、併せて十二の階層にした。それに対応する色のふとぎぬを縫った。頭頂には全てにつまめる程度の嚢のようにして、縁取りを着けた。ただ元日には枝(梅の花?)のかんざしを挿した。】とあり、十年二月己酉朔は1月30日、四月戊申朔は3月30日、十一年二月癸酉朔は1月30日、四月壬申朔は3月30日と前月が小の月なら、十年閏十月乙亥朔は7月が閏月で10月が閏月なら10月2日、十一年十一月己亥朔は11月2日で10月は小の月で大の月なら標準陰暦と合致し、それ以外は合致する。

遷于小墾田宮」は用明天皇すなわち馬子の宮の年数で天皇の宮殿が遷れば当然馬子と一緒について行くのは当然である。

この出兵は『三国史記』の642年義慈王二年の「八月遣將軍允忠領兵一萬攻新羅大耶城」に対する援軍で大伴連囓と坂本臣糖手は推古紀以降出現せず馬子の配下のようで、新羅との緊密さが解り、それに対して娑婆連は皇極天皇紀まで出現し斑鳩の王たちと戦っていて、俀国側の人物のようで、来目皇子の死は親新羅の俀国による暗殺で、死因が解らないように娑婆連が遺体を守ったのだろう。

官位12階は『隋書』に「内官有十二等一曰大德次小德次大仁次小仁次大義次小義次大禮次小禮次大智次小智次大信次小信」、「小徳阿輩臺」と記述されて、俀国の官位がわかり、俀国資料のみでこの冠位を使用し、推古紀以外では皇極・大化に記述されそれ以外の人物にこの冠位を使った記述が無く、『舊唐書』「無冠帶・・・佩銀花長八寸左右各數枝以明貴賤等級衣服之制頗類新羅」と冠帶がないこともそれを証明する。

それで、この推古11年が法興11年601年か敏達立太子の11年の565年かだが、開皇二十年600年から大業三年607年、明年608年の間に官位を制定したのなら恐らく『隋書』に記述し、しかも、官位も無く天子と呼ぶのはおこがましく、太極宮,東宮,掖庭宮を少なくとも持ち、「今里長也」と条里は無理としてもそれに似ており、「無城郭」と城壁に囲まれた城ではなく、「戸可十万」の都市に宮殿があり、元日につける髻花と「以金銀鏤花為飾」も合致する。

すなわち、これらが揃って、自ら皇帝と呼ぶにふさわしい法興帝と自ら呼んだのであり、従って、565年に官位12階を制定したと思われ、「雖有兵無征戦」と戦争しないと言っているが、都にいる軍は少なく、都外に軍隊を配備して、「女多男少」は妻子は都に残して、都の外に田畑や工房があり、軍がいたということだ。

また、「自竹斯國以東皆附庸於俀」は中国に臣従して朝貢していた俀国が中国に承認された唯一つの日本国内の国で、名目上他の国が附庸していただけで、畿内の日本は昔から中国に臣従しない、逆に反抗した国だったのであり、『舊唐書』では「日本舊小國併倭國之地」と唐時代に日本と呼ばれた土地は元は倭と呼ばれ、唐時代の日本が昔小国で現在の日本の地を併せたと記述している。

すなわち、隋以前にあった日本を「倭國者古倭奴國也」の倭が征服し、倭から分裂した隋時代から絶縁されていた「魏志所謂邪馬臺者也・・・此後遂絶」の俀国が日本を破った倭を併合したと記述しているのだ。

2020年8月5日水曜日

最終兵器の目 推古天皇3

 

 『日本書紀』慶長版は

七年夏四月乙未朔辛酉地動舍屋悉破則令四方俾祭地震神秋九月癸亥朔百濟貢駱駝一疋驢一疋羊二頭白雉一?()八年春二月新羅與任那相攻天皇欲救任那是歲命境部臣爲大將軍以穗積臣爲副將軍則將万餘衆爲任那擊新羅於是直指新羅以泛海往之乃到于新羅攻五城而拔於是新羅王惶之舉白旗到于將軍之麾下而立割多多羅素奈羅弗知鬼委陀南加羅阿羅々六城以請服時將軍共議曰新羅知罪服之強擊不可則奏上爰天皇更遣難波吉師神於新羅復遣難波吉士木蓮子於任那並撿校事狀爰新羅任那王二國遣使貢調仍奏表之曰天上有神地有天皇除是二神何亦有畏乎自今以後不有相攻且不乾舩柂毎歲必朝則遣使以召還將軍將軍等至自新羅即新羅亦侵任那九年春二月皇太子初興宮室于三月甲申朔戊子遣大伴連囓于髙麗遺坂本臣糠手于百濟以詔之曰急救任那夏五月天皇居于耳梨行宮是時火雨河水漂蕩滿于宮庭秋九月辛巳朔戊子新羅之間諜者迦摩多到對馬則?()以貢之流干上野冬十一月庚辰朔甲申議攻新羅

【七年の夏四月の朔が乙未の辛酉の日に、地震があって舍屋が残らず破壊された。それで全国に命じて、地震の神を祭らせた。秋九月の癸亥が朔の日に、百済は、駱駝を一匹とロバを一匹と羊を二頭と白雉を一隻、献上した。八年の春二月に、新羅と任那が戦った。天皇は、任那を救おうと思った。この歳に、境部の臣に命令して大將軍とした。穗積の臣を副將軍とした。それで一萬余の兵士を率いて、任那の為に新羅を撃った。そこで、直接、新羅を目指して、船を海に浮かべて進んだ。それで新羅について、五つの城を攻めて奪った。それで、新羅の王が、あわてて白い旗を挙げて、將軍を示す旗の下にやって来て立ちすくんだ。多多羅と素奈羅と弗知鬼と委陀と南迦羅と阿羅羅の、六つの城を割いて、降伏したいと願った。その時に、將軍は、共議して「新羅は、罪に気付いて降伏した。強いて殺さなくてもよかろう」と言った。それで奏上した。そこで天皇は、また、難波の吉師の神を新羅に派遣した。また、難波の吉士の木蓮子を任那に派遣した。同時に現状を調査させた。それで新羅と任那の二国は、使者を派遣して年貢を献上した。それで「天に神がいる。地に天皇がいる。この神以外に、何処におそれかしこまる者があるでしょうか。今より後、互いに争ってはならない。また船の柁が乾く前に、毎年必ず朝貢せよ」と表で命じた。それで使者を派遣して、將軍を召喚した。將軍達が、新羅から帰った。するとすぐに新羅が、またもや任那を侵略した。九年の春二月に、皇太子は、はじめて宮室を斑鳩に建てた。三月の朔が甲申の戊子の日に、大伴の連の囓を高麗に派遣して、坂本の臣の糠手を百済に派遣して、「いそいで任那を救え」と詔勅した。夏五月に、天皇は、耳梨の行宮にいた。この時に大雨が降った。河の水が溢れだして、宮庭まで水に浸かった。秋九月の朔が辛巳の戊子の日に、新羅のまわしものの迦摩多が、対馬にやってきた。それで捕えて貢上した。上野に流した。冬十一月の朔が庚辰の甲申の日に、新羅の攻撃方法を考えた。】とあり、9年三月甲申朔は2月30日で2月が小の月なら標準陰暦と合致し、あとは標準陰暦と合致する。

この新羅との戦いは欽明天皇二三の「新羅更擧白旗投兵隆首河邊臣瓊缶元不曉兵對擧白旗空爾獨進」の記事で欽明天皇十五年の「立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子」と554年に俀国の王朝が交代し、欽明天皇十六年が元年とする王朝の二二年は九年で推古九年と合致する。

前項で述べたように、601年には新羅に不穏な動きが無く、『三国史記』の562年眞興王二十三年に「秋七月百濟侵掠邊戶王出師拒之殺獲一千餘人九月加耶叛王命異斯夫討之斯多含副之斯多含領五千騎先馳入栴檀門立白旗城中恐懼不知所爲異斯夫引兵臨之一時盡降論功斯多含爲最王賞以良田及所虜二百口斯多含三讓王强之乃受其生口放爲良人田分與戰士國人美之」と良く合致する内容が記述されている。

太子が東宮から出て斑鳩に追い出されているが、これは、太子から降格させられ新たな太子が出来たことを示していて、それが、本来なかった用明天皇の皇太子、すなわち、馬子の兄の子の正統な倭国の後継者の彦人である。

推古天皇が書いた『日本書紀』に出現する豊御食炊屋姫の娘の小墾田皇女の婿で敏達天皇すなわち倭国の稲目の子で、母は敏達天皇四年「息長眞手王女廣姫爲皇后是生一男二女其一曰押坂彦人大兄皇子」と息長眞手王の娘で、彦人の皇子が息長足日廣額と名前と人物が良く一致し、推古天皇が聖徳太子の子ではなく、『日本書紀』「小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子・・・田眼皇女是嫁於息長足日廣額天皇」、『古事記』「日子人太子娶庶妹田村王亦名糠代比売命生御子坐崗本宮治天下之天皇」と推古天皇の宮室の媛の子だったから田村皇子を推挙したのだ。

『船王後墓誌』に「乎娑陀宮治天下天皇之世奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝」と629年が乎娑陀宮治天下天皇、634年から等由羅宮治天下天皇、そして、634年の8年後すなわち推古八年の642年が阿須迦宮治天下天皇の末で翌すなわち推古九年から皇極天皇元年十二月「天皇遷移於小墾田宮」と小墾田天皇で豊御食炊屋姫の娘で押坂彦人大兄皇子の妻の生まれ育った土地である。

そして、地震のための祭祀も仏教ではなく神を祀り、百済の献上で日本を味方につけてから新羅に侵略してこれも良く一致し、この戦いで任那から手を引いたようで、これ以降668年文武王八年「奈麻緊周子能晏年十五歳呈加耶之舞王見容儀端麗」と舞いを献上しているのが任那の人物のようだ。

2020年8月3日月曜日

最終兵器の目 推古天皇2

  『日本書紀』慶長版は

二年春二月丙寅朔詔皇太子及大臣令興隆三寶是時諸臣連等各爲君親之恩競造佛舍即是謂寺焉三年夏四月沈水漂着於淡路嶋其大一圍嶋人不知沈水以交薪焼於竈其烟氣遠薫則異以獻之五月戊午朔丁卯髙麗僧恵慈歸化則皇太子師之是歲百濟瑟()聡來之此兩僧弘演佛教並爲三寶之棟梁秋七月將軍等至自筑紫四年冬十一月法興寺造竟則以大臣男善德臣拜寺司是日恵慈恵聡二僧始住於法興寺五年夏四月丁丑朔百濟王遣王子阿佐朝貢冬十一月癸酉朔甲子遣吉士磐金於新羅六年夏四月難波吉士磐金至自新羅而獻鵲二?()乃俾養於難波杜因以巣枝而産之秋八月已亥朔新羅貢孔雀一?()冬十月戊戌朔丁未越國獻白鹿一頭

【二年の春二月の丙寅が朔の日に、皇太子と大臣に詔勅して三宝を興して隆盛させた。この時、

諸々の臣連達は、各々主君や親の恩に報いるため、競って祠堂を建立した。是を寺という。三年の夏四月に、沈香が淡路嶋に漂着した。その大きさは一抱()もあり、嶋の人は沈香と知らないで、薪の代わりに竃で焚いた。その烟が、遠くまで薫った。それで、奇妙に思って献上した。五月の朔が戊午の丁卯の日に、高麗の僧の慧慈が歸化した。それで皇太子は、師と仰いだ。この歳、百済の僧の慧聰が来て、この二人の僧が、佛教を広く教えて、共に三宝の指導者となった。秋七月に、將軍達が、筑紫から帰った。四年の冬十一月に、法興寺が完成した。それで大臣は男善徳の臣を別当し招聘した。この日に、慧慈と慧聰の、二人の僧が、始めて法興寺に住んだ。五年の夏四月の丁丑が朔の日に、百済の王が、王子の阿佐を派遣して朝貢した。冬十一月の朔が癸酉の甲午の日に、吉士の磐金を新羅に派遣した。六年の夏四月に、難波の吉士の磐金が、新羅から帰って、鵲を二隻献上した。それで難波の社で養わせた。それで枝に巣を造って雛を産んだ。秋八月の己亥が朔の日に、新羅は、孔雀を一隻、貢献した。冬十月の朔が戊戌の丁未の日に、越の国が、白鹿を一頭、献上した。】とあり、十一月癸酉朔は10月30日で10月が小の月なら標準陰暦と合致し、他は合致する。

競って佛舍を造ったのは『上宮聖徳法王帝説』では「有本云請願造寺恭敬三寶十三年辛丑」と辛丑641年だったのだが、実際はこれまで見たようにこの推古2年は舒明2年で630年のこととなり、『上宮聖徳法王帝説』は『日本書紀』との矛盾を全く考えずに、「池邊大宮御宇天皇大御身労賜時歳次丙午年召於大王天皇与太子而誓願賜我大御病大平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然當時崩賜造不堪者小治田大宮御宇大王天皇及東宮聖徳王大命受賜而歳次丁卯年仕奉右法隆寺金堂坐薬師像光後銘文即寺造始縁由也」とある。

586年に用明天皇が病気だったので、607年推古15年に仏像を奉納と『右法隆寺金堂坐薬師像光後銘文』を流用しているが、『日本書紀』には一言も書かれておらず、推古天皇十三年「以始造銅繍丈六佛像各一躯乃命鞍作鳥爲造佛之工」、645年大化元年に「於小墾田宮御宇之世馬子宿禰奉爲天皇造丈六繍像」と用明天皇とは全く関係が無く、しかも、小墾田宮御宇天皇は皇極天皇元年「天皇遷移於小墾田宮」と642年だからだ。

また、百済の朝貢や新羅の献上品は633・4年のことで603年に日本に献上する理由が無いほど平和で、633年頃なら、632年百済武王三十三年に「秋七月發兵伐新羅不利王田于生草之原冬十二月遣使入唐朝貢」、633年武王三十四年に「秋八月遣將攻新羅西谷城十三日拔之」、

新羅善德王二年に「八月百濟侵西邊」と632年に百済が新羅を責めたが不利で唐にも朝貢した。

当然、倭国朝廷にも助けを求め、それに対して、新羅が俀国に救援を求め、その結果が献上品で 、難波吉士磐金は皇極天皇元年「遣阿曇山背連比良夫草壁吉士磐金倭漢書直縣遣百濟弔使所」とやはり百済と関係した内容で活躍していて、皇極天皇のこの記述は俀国王のことを天智天皇が記述した部分で、新羅の俀国への献上品の一部を朝廷に献上したものと思われる。


2020年7月31日金曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第二十二  推古天皇 1

  『日本書紀』慶長版は

豊御食炊屋姫天皇天國排開廣庭天皇中女也橘豊日天皇同母妹也幼曰額田部皇女姿色端麗進止軌制年十八歲立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后三十四歲渟中倉太珠敷天皇崩三十九歲當于泊瀬部天皇五年十一月天皇爲大臣馬子宿祢見殺嗣位既空群臣請渟中倉太珠敷天皇之皇后額田部皇女以將令踐祚皇后辭讓之百寮上表勸進至于三乃從之因以奉天皇璽印冬十二月壬申朔巳卯皇后即天皇位於豊浦宮元年春正月壬寅朔丙辰以佛舍利置于法興寺刹柱礎中丁巳建刹柱夏四月庚午朔巳卯立厩戸豊聰耳皇子爲皇太子仍錄攝政以万機悉委焉橘豊日天皇第二子也母皇后曰穴穗部間人皇女皇后懷姙開胎之日巡行禁中監察諸司至于馬官乃當廐戸而不勞忽産之生而能言有聖智及壯一聞十人訴以勿失能辨兼知未然且習內教於髙麗僧恵慈學外典於博士覺哿兼悉達矣父天皇愛之令居宮南上殿故稱其名謂上宮廐戸豊聰耳太子秋九

月改葬橘豊日天皇於河內磯長陵是歲始造四天王寺於難波荒陵是年也太歲癸丑

【豊の御食炊屋姫の天皇は、天国の排開廣庭の天皇の中の娘だ。橘の豊日の天皇と同じ母の妹だ。幼いころ額田部の皇女と言った。容姿端麗で、行いは筋道を通した。十八歳の時、渟中倉の太玉敷の天皇の皇后と為った。三十四歳のとき、渟中倉の太珠敷の天皇が崩じた。三十九歳のとき、泊瀬部の天皇の五年の十一月に、天皇が、大臣の馬子の宿禰の為に殺された。皇太子もいなかった。群臣は、渟中倉の太珠敷の天皇の皇后の額田部皇女に、皇位を継ぐよう願った。

皇后は他の人に頼むよう固辞した。官僚達は、表でお願いした。三度目でやっと了承した。それで天皇の璽印を奉上した。冬十二月の朔が壬申の己卯の日に、皇后は、豊浦の宮で天皇に即位した。元年の春正月の朔が壬寅の丙辰の日に、佛の骨を、法興寺の心柱の土台に置く石の中に置いた。丁巳の日に、心柱を建てた。夏四月の朔が庚午の己卯の日に、廐戸の豊聰耳の皇子を、皇太子に立て、それで摂政に取り上げ、天皇の政務を残らず委ねた。橘の豊日の天皇の第二子で、母の皇后を穴穗部の間人の皇女という。皇后が、身ごもって出産の日に、宮中をめぐり歩いていて、官僚達を取り締まっていて馬の世話をする場所について、それで廐の扉につき当たった時、苦なくすぐに生まれた。生まれながら弁舌がたち、 あらゆるものにたいする優れた知恵があった。大人になると、一度に十人の訴状を間違いなく聞きわけ、聞く前から理解していた。また、仏典を高麗の僧の慧慈に習って、儒教・道教などを博士の覺哿に学び、どちらも残らず目的を達した。父の天皇は、可愛がって、宮の南の上殿に置いた。そのため、上宮の廐戸の豊聰耳の太子とたたえて言った。秋九月に、橘豊日の天皇を河内の磯長の陵に改葬した。この歳に、

はじめて四天王寺を難波の荒陵に建立した。この年は、太歳が癸丑だった。】とあり、四月庚午朔は3月30日で3月が小の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。

推古天皇紀は入鹿若しくは蘇我山田石川麻呂が記述した可能性が高く、入鹿が書けば倭国の目、蘇我山田石川麻呂なら俀国を含めた目で記述したことになる。

崇峻天皇3で625年法興寺着工としたが、推古天皇が34歳の時敏達天皇が崩じ、39歳で崇峻天皇が崩じたと記述して、用明天皇の在位期間が無い、すなわち用明天皇は敏達天皇と同時に天皇だったことを示し、崇峻天皇と用明天皇が崇峻天皇に含まれ、この王朝が滅んだときが法興寺着工、すなわち、628年着工の可能性が高く、629年に新しい倭国王朝が始まった。

すなわち、推古天皇の36年間は秦王国が難波に都を置いていた期間で、内容は御井夫人と豊御食炊屋姫と『隋書』に「開皇二十年俀王姓阿毎字多利思北孤」とあるように、姓阿毎多利思北孤とその皇太子たち利歌彌多弗利と厩戸豊聰耳と贄子達の説話が記述され、それを分別する必要がある。

敏達天皇の立太子が554年欽明天皇十五年と廿九年に568年に立爲皇太子となり、立太子は俀国の政権交代を記述したと述べてきたが、同一の王では無かった。

ところが、この矛盾であるが、この「廿九年」は621年推古29年の事で、621年には「上宮皇太子薨」となっていて、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』に「法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩明年正月廿二日上宮法皇枕病弗悆」と上宮法皇が病で臥せって、立太子の翌年に政権が遷っていることが解る。

立太子の翌年が政権交代というのは安寧天皇の立太子が21歳綏靖25年で9年後30歳で即位して38年死亡で57歳となっているが67歳になってしまうが、立太子の翌年の綏靖26年が安寧元年なら安寧38年が57歳になる。

この法興帝には太子の弟がいて、『隋書』に「日出便停理務云委我弟」と弟が政務を行い、開皇二十年は法興10年にあたり、阿毎多利思北孤が法興帝で、兄が法興帝とよばれたのだから、この弟も帝号があって当然で、それが聖徳太子の利歌彌多弗利で621年に俀国王となった。

推古元年の立太子は629年の俀国王の政権交代と考えられ、倭国も629年に天皇の璽を得て先代の馬子の妻の崇峻天皇の御井夫人から正式に豊御食炊屋姫が天皇位を奪ったのである。

2020年7月29日水曜日

最終兵器の目  崇峻天皇4

  『日本書紀』慶長版は

四年夏四月壬子朔甲子葬譯語田天皇於磯長陵是其妣皇后所葬之陵也秋八月庚戌朔天皇詔群臣曰朕思欲建任那卿等何如群臣奏言可建任那官家皆同陛下所詔冬十二月巳卯朔壬午差紀男麻呂宿祢巨勢臣比良夫狭臣大伴囓連葛城烏奈良臣爲大將軍率氏氏臣連爲裨將部隊領二万餘軍出居筑紫遣吉士金於新羅遣吉士木蓮子於任那問任那事五年冬十月癸酉朔丙子有獻山猪天皇指猪詔曰何時如斷此猪之頸斷朕所嫌之人多設兵仗有異於常壬午蘇我馬子宿祢聞天皇所詔恐嫌於已招聚儻者謀弑天皇是月起大法興寺佛堂與步廊十一月癸卯朔乙已馬子宿祢詐於群臣曰今日進東國之調乃使東漢直駒弑于天皇是日葬天皇于倉梯岡陵丁未遣驛使於筑紫將軍所曰依於內亂莫怠外事是月東漢直駒偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻馬子宿祢忽不知河上娘爲駒所偸而謂死去駒姧嬪事顯爲大臣所殺

【四年の夏四月の朔が壬子の甲子の日に、譯語田天皇を磯長の陵に葬った。これは亡き母の皇后を葬った陵だ。秋八月の庚戌が朔の日に、天皇は、群臣に「私は、任那を建てようと思う。お前たちはどう思う」と詔勅した。群臣は「任那の官家を建てなければならないのは皆も陛下の詔勅と同じ思いです」と奏上した。冬十一月の朔が己卯の壬午の日に、紀の男麻呂の宿禰と巨勢の猿の臣と大伴の囓の連と葛城の烏奈良の臣を大將軍に指名した。夫々の臣連を率いて、補助の将軍や部隊として、二萬余の軍を率いて、筑紫に出向いて停泊した。吉士の金を新羅に派遣、吉士の木蓮子を任那に派遣して、任那の事情を調べさせた。五年の冬十月の朔が癸酉の丙子の日に、猪を献上された。天皇は、猪を指さして「いつかこの猪の頚を斬り落とすように、私が嫌いな人も」と詔勅して、いつもよりいやに多く武器を準備した。壬午の日に、蘇我の馬子の宿禰が、天皇の詔勅を聞いて、自分を嫌っていることを恐れた。中間を呼び集めて天皇を殺害しようと計画した。この月に、大法興寺の佛堂と回廊が建った。十一月の朔が癸卯の乙巳の日に、馬子の宿禰は、「今日、東国の年貢を献上する」と群臣をだました。それで東の漢の直の駒に、天皇を殺害させた。この日に、天皇を倉梯の岡の陵に葬った。丁未の日に、急行の使者を筑紫の將軍の所に派遣して、「内乱ごときで、役割を怠ってはいけない」といった。この月に、東の漢の直の駒が蘇我の妃の河上娘を密かに盗んで妻とした。馬子の宿禰は、知らない間に河上娘が、駒にぬすまれたことを知らずに、死んだと思っていたが、駒が妃と夫婦になったことが露見したので、大臣に殺された。】とあり、標準陰暦と合致する。

この4年記事は敏達13年記事で、敏達天皇14年に崩じた敏達天皇の父で敏達天皇14年に崩じるまだ即位していない皇太子だから亡き母の陵、目の前の亡き天皇の妻皇后の陵に埋葬したと記述している。

敏達天皇十三年「遣難波吉士木蓮子使於新羅。遂之任那」、敏達天皇十四年の「天皇思建任那」と同じ内容で尼の善信も敏達14年に記述され、さらに、馬子は百済と同盟していて新羅とは没交渉で、新羅と同盟しているのは俀国である。

そして、崇峻天皇の暗殺記事も実際は穴穗部皇子の説話の可能性もあるが、この、崇峻天皇で馬子や推古天皇が書いた部分が終わり、次からは記述者が変わるが、推古天皇の内容の中には、秦王国の内容がちりばめられている。

ここで、疑問なのだが、どうして、推古天皇たちは628年まで記述しなかったかと言うことである。

この項で見たように、敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇は欽明天皇の内容をそれぞれ焼き直し、すなわち、同じ事件を別の王を中心に記述しているようにしか見られないのである。

それは、593年以前の干支と628年までの資料と対応できていないことを示していて、この頃の『日本書紀』は『古事記』と同じで完全な紀伝体の史書だったことを示し、恐らく完成させた720の完成時に当てはめた可能性があり、最初にその手法を取ったのが、『舊事本紀』で推古天皇の記述に矛盾があっても気にしておらず、『舊事本紀』「十七世孫物部連公麻侶馬古連公之子此連公淨御原朝御世天下万姓改定八色之」と淨御原朝まで記述しているのでこの頃記述されている。

当然、計算で内容に干支は当て嵌められないので、宮の資料に朔日の干支が延々と記述されていたものに、ある王の年干支と朔は記述されないけれど、王の在位年数と春夏秋冬の季節と日干支が記された『日本書紀』の原本があり、季節と日干支が解れば朔の日干支に合わせた干支にはめ込めばよいのだ。

『史記』の周本紀の武王發の項には「十一年十二月戊午師畢渡盟津諸侯咸會・・・二月甲子昧爽武王朝至于商郊牧野」と記述され、周時代からこのような記録が残っていたのであり、『尚書』の堯典に「帝曰咨汝羲暨和朞三百有六旬有六日以閏月定四時成歳」と義和が暦を堯に教え、義和は『山海經』の「大荒南經」に「東南海之外甘水之間有羲和之國」と日本の関東らしき場所に住んでいた義和が教えたのである。

だから、周と同じ暦の知識が有り得て『二中』に紀元前53年から刻木で元号公布が始まったと記述され、墨と竹ではなく違う方法、結縄刻木という方法で残され、木に刻んだ文字は『室見川銘版』に刻まれた篆書で、その木片を縄で結んだ、中国の竹簡をまねた、竹は帰化植物でいつ日本に入ったかわからないが、竹は有ったとしても刻みにくいので木片を使ったのだろう