2017年4月30日日曜日

最終兵器のミサ 大宝のクーデター

 天武天皇と文武天皇の政権移動があったと書いたけれど、古事記以外に証明できるかを調べなくては誰も納得してくれそうもないけれど、前に書いたように天武天皇の書いてある15年は695年から709年までと書いたように天武・文武・元明の3天皇を含むと言って、前回死亡記事は最後の宮の死亡記事だと書いた。
そうすると、天武天皇の死亡記事は文武天皇の死亡記事の可能性があるけれど、持統天皇の最初に書いてある葬儀記事すなわち703年と考えるべきで、続日本紀には702年12月に太上天皇が死亡したと書いてあって、701年の政権交代は天武天皇を殺害せず追い出したとゆうこになる。
『続日本紀』大宝二年十二月甲寅
太上天皇崩 遺詔 勿素服擧哀 内外文武官釐務如常 喪葬之事務從儉約
『日本書紀』持統元年春正月丙寅朔
皇太子率公卿百寮人等適殯宮。而慟哭焉。

そして、701年1月には順位10番目の藤原不比等が3月の大宝建元時に順位5番目に粟田眞人が11番目から8番目に特進していて、701年7月に壬申の功を多数の人物に授けているけれど、701年より前には全部で死亡時に18人、死亡と書いていない人物が4人ばらばらに授かっているのに対して、なぜか701年7月にたくさん授かり、その中の 阿倍臣御主人は3月にも多大なご褒美を授かっているけれど壬申と一言も書いていない。
 『続日本紀』
大宝元年正月己丑 遣直廣壹藤原朝臣不比等等。就第宣詔。
大宝元年三月甲午 建元爲大寶元年 始依新令・・・直廣壹藤原朝臣不比等正正三位。
大宝元年正月丁酉 以守民部尚書直大貳粟田朝臣眞人。
大宝二年五月丁亥 正四位下粟田朝臣眞人。
大宝元年三月壬寅 賜右大臣從二位阿倍朝臣御主人。
大宝元年七月壬辰 勅親王已下。准其官位賜食封。又壬申年功臣。・・・阿倍普勢臣御主人。

ということは、701年2月27日吉野から帰った天武天皇を2月29壬申の日に文武天皇が御主人と不比等の力でクーデタを起こし、その時粟田眞人も対唐政策で重要な役割を果たして成功して3月29日の時点では文武天皇の側に立てばクーデタではなく禅譲でこの政変に名前が無くただの恩賞としたけれど7月21日にはこのクーデタの功を壬申の日の功、壬申の功と、壬申の日の功が有った年、壬申年と呼んだのではないだろうか。
 『続日本紀』
大宝元年二月庚午 車駕至自吉野宮

文武天皇にとっては禅譲であるのだから前の天皇は太上天皇で天武天皇は702年12月に亡くなったのであって、天武天皇の吉野行は日本書紀では天武天皇8年になっているけれど、天武天皇元年が695年なので天武天皇8年は702年5月でクーデタ前から引き続いて吉野に行って記事が繋がっていると解る。
 『日本書紀』
天武天皇八年五月甲申 幸于吉野宮。

2017年4月28日金曜日

最終兵器のミサ 日本書紀の年号

 いままで、日本書紀は天皇が2代ずれていると言いながら紀伝体で書かれているけど編年体部分の史書の年号だけそのままというのは矛盾していると言われそうだけれど、私は欠史8代の記述に関してこの時期に内容がなく崇神天皇の時代の紀元前94年から記述したのは干支を覚えてその干支を漢の年号と対応して基準にしたのではないかとかいた。
編年体の歴史を書くためには物差しが必要なのだから、西暦も始まっていないので物差しはないのだけど、漢字と干支を教えてくれて、冊封体制に入った倭は中国に元号という基準になりそうな年号があることを知って書きだしたと思われて、そうでなかったら、欠史8代にももっといろいろ書いてあってもいいはずだ。
ところが、古事記を書いた王朝は中国の物差しをつかわないで、紀伝体を使って書いて、その他の資料も紀伝体で書かれていて、そのなかに現代に残っている史書があって、それが先代旧事本紀で、初代から何世の孫という一寸変わった書き方で、その時々の天皇を書くことで対応させているけれど、同じことを日本書紀も行ったと思うのが普通だ。
日本書紀を書いた王朝は宮ごとに書いた古事記や先代旧事本紀のような記録を持っていて、中国の元号を書いた記録も持っていて、その資料をつなぎ合わせたのが日本書紀で、先代旧事本紀は日本書紀の宮にあわせて系図と事績を書いたということだ。
だから、宮には宮を建てた人物の即位前までの記事、即位記事、家族の記事が書いてあって、死亡記事も何人もの天皇死亡記事があるけれど、書くときは最後の人物を書いて終わる、だから古墳はまとまっていくつも出てくる、年齢は天皇と皇太子の年齢を加えた年齢を即位年齢として、それから宮が続いた年数を加えて死亡年齢としたと思われる。
すなわち、神武天皇は30歳、皇太子の手研耳15歳の時東侵して6年後に建国して76年後に宮が終了したという資料が残っていたことをしめしていて、古事記に書いてあるような内容は宮や天皇について移動するけれどそれ以外の編年体様式のことは移動しないという原則が日本書紀にはあると思れる。
『日本書紀』 
  神武天皇即位前紀
 年十五立爲太子 長而娶日向國吾田邑吾平津媛 爲妃 生手研耳命
  神武天皇即位前紀甲寅年
 及年四十五歳
  神武天皇七六年
 天皇崩于橿原宮 時年一百廿七歳
 
だから、日本書紀の内容を動かす時も適当に動かすのはルール違反で、勝手に動かして言いとなったらかなり多くの時間をかけて証拠を集めて証明しなければいけないし、もちろん、天皇について動くときも動かさないときも理由がいるので、干支の1・2巡ももちろん2年だの30年だの移動しようと思ったら私がこれまで書いたような論証を行いすべて一定に例外なく動かさなければいけないし、もちろん、日本書紀の間違いなどとゆうのも同じで、自分の説に合わないから間違いなどと言うのはルール違反で、お互いの論拠が間違いだとの言い合いで泥仕合になるだけだ。
古文書が間違いと言う場合は確実な理由が必要で、理由がいらなければそれは空論・絵空事になって理論とかけ離れてしまう。

2017年4月26日水曜日

最終兵器のミサ 天皇と宮

 2代ずれているなどと言う大それた考えは中々受け入れてもらえそうもないからもう少し説明しなければいけないと思うけど、まずは本当に天皇名というのが宮の名前で同じ宮に何代も天皇がいたり、一人の天皇が幾つかの宮を替えたために複数の天皇になってしまったかという事を考えてみる。
日本書紀は孝安天皇の102年を最高に100年近く在位した天皇がいっぱいいるのだけど、不思議なことに自分たちが長く生きることが解っているように皇太子を決めないで、孝安天皇なんて76年在位してから26歳の皇太子を決めていて孝安天皇は孝昭天皇68年に20歳で皇太子になって15年後すなわち35歳で即位して111歳の時85歳で生まれた子を26歳の時に皇太子にして137歳で死んだわけで、これは誰でも嘘と思うのが当然。
ところが、安寧天皇は綏靖天皇25年に安寧天皇が21歳で立太子して8年後に綏靖天皇33年に安寧天皇が29歳で即位してその38年後に67歳で安寧天皇が亡くなったはずが57歳死亡になっていて、じつは綏靖天皇24年に安寧天皇が20歳で即位して儀式を21歳で行って、太子になることが決定して38年後に誕生日前の57歳、58歳になる前に亡くなった、すなわち、立太子とゆうのは天皇の即位、とゆうことは綏靖天皇25年が安寧天皇元年とゆうことを証明している。
『日本書紀』 安寧天皇即位前紀
  天皇以神渟名川耳天皇廿五年、立爲皇太子。年廿一。〇卅三年夏五月、神渟名川耳天皇崩。
  卅八年冬十二月庚戌朔乙卯。天皇崩。時年五十七。

ということは、まだ綏靖天皇が生きているけれど安寧天皇が即位するということは天皇が2人いて実質の統治は安寧天皇が行っている制度だということ、そうすると、安寧天皇が立太子前に誰かが綏靖天皇と一緒に統治した人物がいるはずだけれども書いていない人物、常識的に考えれば長男が統治していると考えられて、実際、神武天皇の長男手研耳命が即位していないのに長く統治したと書かれている。
『日本書紀』綏靖天皇即位前紀
其庶兄手研耳命、行年已長、久歴朝機。

ようは、神武天皇は同じ宮に住む長男手研耳と親子で一緒に国を支配して、綏靖天皇は別の宮で安寧天皇と一緒に国を支配したということ、とゆうことは安寧天皇は分家ということで、立太子の年齢が3歳と書いてある応神天皇以外は全員13歳以上で応神天皇は摂政がいるということは大人だけが天皇になる資格があって、長男がいないか12歳以下の子供の場合に立太子して分家が天皇になるということ。
だから、推古天皇は即位してすぐに太子を決め、太子を決めていないのは長男が継続して数人の皇位継承が行われているということ。
ぎゃくに、倭の5王の一人武は577・478・479・502年に中国史書に出てくるけれど、この時の天皇は雄略天皇・清寧・顕宗・仁賢・武烈天皇にわたっているけれど、近飛鳥八釣宮・少郊・池野・甕栗と宮が書かれていて顕宗は5人の天皇をまとめた天皇と考えられるし、このことは後日追加して書いてみたい。
『日本書紀』顕宗天皇元年 正月己巳朔
乃召公卿百僚於近飛鳥八釣宮。即天皇位。百官陪位者皆忻忻焉。或本云。弘計天皇之宮有二所焉。一宮於少郊。二宮於池野。又或本云。宮於甕栗。

2017年4月24日月曜日

最終兵器のミサ どこかからか持ってきた「天」姓天皇

 古事記に書いていない天姓の天皇を2代ずらして当てはめると665年から天豐財重日、668年から天萬豊日、678年から天豐財重日の重祚、685年から天命開別に当てはめることができるけれども、665年という年は旧唐書に日本の天皇を書いていて、天皇が天子と面会して、当然会っているのだから天皇名を知らないはずがなく、新唐書にこの頃の天皇名として天豐財と書いていて、665年に天豐財が即位したと考えて間違いなさそうでそのあとが子の天智と書いている。
『舊唐書 卷八十四 列伝第三十四 劉仁軌傳』
麟德二年 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會
『新唐書』
其子天豐財立 死 子天智立

 そうすると、668年から天豐財に変わって天智天皇が即位して694年まで続いていることになるけれど、天皇名が変わっているのに同じ天皇で、逆に695年から天武・文武・元明と天皇が変わっているにもかかわらず日本書紀では飛鳥浄御原天皇と書いている、とゆうことは、日本書紀の天皇は一つの宮(飛鳥浄御原)に複数天皇(天武・文武・元明)がいたり、一人の天皇(天智)が宮(難波・後岡本・大津)を変えると複数の天皇(孝徳・斉明・天智)と書かれて、さらに文武・元明天皇に並行して持統天皇がいることが解った。
しかし、理論上は良いとしても、死亡年齢が合わないし、乙巳の変も壬申の乱も合わないと批判されるだろうけれど、乙巳の変も壬申の乱もこの名前が最初から有ったわけではなく、日本書紀を書いた時乙巳の変はその干支に当てはまっただけの話だ。
ところが、 文忌寸祢麻呂墓誌板に壬申年将軍という碑文が707年に書かれていてやはり壬申の乱が有ったと言われそうだけど、日本書紀どおりの壬申の乱ではなく、孝徳天皇の弟と左右大臣が天智天皇に対してクーデターを起こして失敗した事件の可能性が高く、天武天皇の政権奪還は695年の大友皇子に対するクーデターだ。
『文忌寸祢麻呂墓誌板』
 壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻
呂忌寸慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒

天智天皇が694年まで生きていた証拠は692年に郭務悰が造らせた仏像を九州から天智天皇に病気治癒祈願の仏像を送っているけれど、上送という言葉は他の日本書紀の場合では人間も上送していて、20年近くもほっておいての上送は有り得ないし、この場合郭務悰が仏像を造らせて大宰率が僧侶とともに天智天皇のもとに送ったことを意味している。
『日本書紀』持統六年閏五月乙酉
詔筑紫大宰率河内王等曰。宜遣沙門於大隅與阿多。可傳佛教。復上送大唐大使郭務爲御近江大津宮天皇所造阿彌陀像。

2017年4月22日土曜日

最終兵器のミサ 日本書紀の2代のずれ

 持統天皇の居る場所が無くなったと前回書いたけれども、古事記の序文でわかるとおり、天武天皇が文武天皇に皇位を奪われたといっても文武天皇が正式に皇位についたわけじゃなく、正式な皇位は持統天皇が受け継いでいて713年に元明天皇に奪われたわけだ。
すなわち、日本書紀は15年後ろにずれないといけなかったということがわるけれど、ずれていることを証言している史書があり、それが新唐書で、隋書に出てくるタリシヒコは推古天皇ではなくて2代前の用明天皇だと書いている。
 『新唐書』
次用明亦曰目多利思比孤 直隋開皇末始與中國通

そして、用明天皇は2年しか在位していないけれど、用明天皇が推古天皇の位置にあれば36年間在位したことになって、用明天皇の皇女酢香手姫が3代37年間斎王を務めるけれど、本来斎王は1代限りで用明天皇が推古天皇なら全く問題にならない。
 『日本書紀』
以酢香手姫皇女拜伊勢神宮奉日神祀 是皇女自此天皇時逮乎炊屋姫天皇之世奉日神祀 自退葛城而薨 見炊屋姫天皇紀 或本云卅七年間奉日神祀 自退而薨。

そして、持統天皇が在位したと言われる時期にはこれが持統天皇と言える人物が一つも見つからず、704年以降と考えられる時期に藤原朝の文が出てきて、さらに、淳仁天皇が舎人親王59歳のときの子供で天武天皇が高齢のときの子が舎人親王だったり、光仁天皇が施基親王の50歳頃の子供と日本書紀と続日本紀をまたぐ人物は現代を思わせる程の高齢出産であるけど、15年後ろにずれるとどちらも30代の子でそれ程高齢出産ではなくなる。
このように、日本書紀は書かなくてもよい持統天皇を書いてしまったために2代ずれてしまったことがわかったのだけど、天武天皇は飛鳥浄御原に遷って、文武天皇が引き続き飛鳥浄御原を都としたと言っているのだけど、日本書紀では持統天皇から文武天皇へ藤原宮で政権を引き継いでいて、本来の飛鳥浄御原を日本書紀では藤原宮と呼ぶことにしたようだ。
すなわち、日本書紀の飛鳥浄御原は695年から平城京に遷る前年の709年までの15年間を言っていて、天武天皇の在位期間15年と同じで、持統天皇は文武天皇や元明天皇と並行して天皇になっていることがわかり、文武天皇は天皇になったと書いてはいるけれど、実際はまだ天武天皇から引き継いで持統天皇が正式な天皇で、元明天皇に正式な天皇の位を奪われて、古事記の序文どおりになった。

2017年4月20日木曜日

最終兵器のミサ 古事記の序文

 古事記の序文を私は大嫌いで、大安万呂が凄いおべんちゃらを使って書いているからで、そのおべんちゃらの内容が、元明天皇は中国古代の王朝の夏の禹王や殷の湯王という伝説の王朝創始者と比べてそれより優れていると言っていて、王というのはこんな歯の浮くような言葉を聞くのがうれしくて仕方がないのだろうけど、元明天皇はさすがにまともに取らなかったのか古事記を正史にしなかった。
<古事記>
可謂名高文命、徳冠天乙矣。

しかし、大安万呂は元明天皇が王朝創始者だと言っていて、元明天皇の父親天武天皇を王朝の礎を築いたけれど皇帝になっていない人物の周王朝の創始者の父周王や中国の神話の全皇帝の創始者と比較して実際には皇帝になっていない人物に当てはめている。
<古事記>
清原大宮昇即天位。道軼軒后、徳跨周王。握乾符而摠六合

王朝の礎を築いた人物と初代皇帝の間に持統・文武天皇を置くというのは間を抜いて間抜けではいないが間抜けな話で、元明天皇が初代ならその礎は文武天皇で、天武天皇が礎なら持統天皇が初代皇帝でなければ意味が通らない。
そして、天武天皇は飛鳥浄御原宮に天皇がいる時にすきを窺っていて天武天皇を破ったと意味不明な文章を記述して、実際は大津宮に大友皇子が即位しようとしていた時に天武天皇が政権を奪って岡本宮から飛鳥浄御原宮に入ったはずである。
<古事記>
曁飛鳥清原大宮御大八州天皇御世、潜竜体元、洊雷應期。

日本書紀より後に書き換えたのならこんな間違いを書くはずがなく、ようは、飛鳥浄御原宮天皇(天武天皇)の時代に、文武天皇が政権を奪って飛鳥浄御原宮で即位したけれど、正式に即位できないで、正式な天皇は飛鳥浄御原宮以外で即位していたけれど、713年に元明天皇が正式に天皇になったということを序文に書いているのだ。
文武天皇は藤原宮で即位しているはずと批判をうけそうだけれど、続日本紀には慶雲元年704年に藤原京を都にしたと書いているように、文武天皇は飛鳥浄御原から藤原に遷都したことが証明されていて、教科書に載っていることに疑問符がつくことがわかる。
<続日本紀>
慶雲元年十一月壬寅 始定藤原宮地。

とゆうことは、天武天皇から直接文武天皇に政権が移り持統天皇の場所がなくなってしまったということだ。

2017年4月18日火曜日

最終兵器のミサ 古事記と日本書紀の欠史8代

 記紀には欠史8代という綏靖天皇から開化天皇の8代にはこれといった功績が書かれていないのでこう呼ばれるけれど、これこそが造作説を否定する証拠であるにも拘らず無視されてきた。
造作するのならこの8代にも適当に物語をつければいいのに、中国や朝鮮の資料を見ていそうだから、中国に行った話を膨らませて卑弥呼の話を神功皇后に書いたみたいに書けばいいのに書いていなくて、最初の記事は崇神天皇の紀元前94年の記事からだ。
これは、紀元前94年から干支を学んで記録することを覚えて、これ以降継続して日記のような記録を取り出したということの裏返しで、日本書紀は紀元前94年からの資料を基に書いた貴重な資料だということを理解しなきゃいけない。
記録したのは弥生時代の糸島と出雲で硯が見つかったこと、糸島で甕に文字が書かれていた土器が見つかったことが証拠で、中国の漢で年号が始まったことと無関係じゃなくて、干支が解っていても60年で繰り返すためにどこに差し込めばいいのかわからないからで、もし、日本の天皇名にあわせたのならもう文字があったから神武天皇の記録が残っているため、欠史8代ではなくなるはずだ。
そして、同じことが古事記の仁賢天皇から推古天皇の欠史10代で、書けるのなら書くはずで、継体天皇の即位の話、仏教の導入の話、聖徳太子の話や法隆寺の建立の起源などどれだけでも書くことがあって書けるはずなのだけれど、書かないでいるのは、資料が無いのに嘘八百を書き連ねることを考えもしていない証拠だ。
太安万侶が功績があるにもかかわらず書かないで元明天皇に献上したとしたら太安万侶は確実に墓碑などくびになって作ることができなかったと思われ、元明天皇も自分の家系に功績が無いことを重々承知していて、記紀は資料にないことを創作する事はなく、資料の配置をしていることがわかる。
とゆうことは、古事記は顕宗天皇までの資料に元明天皇の系図をつなぎ合わせたもので、日本書紀も同じく系図をつなぎ合わせた資料で、功績は資料の継ぎ接ぎで作り上げたもので、元明天皇の王朝の歴史ではないことが証明されている。