2024年9月2日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降2 番能迩迩藝

  火闌降は隼人の大伴氏の祖先で、曾都毘古の東征の後ろ盾であり、火明は尾張氏の祖だ。意乎巳連(仁徳朝の大臣)から大臣位を『古事記』の神武の去來穗別(豐御毛沼)と『日本書紀』の神武の諸縣君(火火出見)が奪った。『古事記』の説話では、番能迩迩藝と天火明は兄弟だが、火を「番()」と読んでいない。火明の火は番や穂と書いていないので、「ヒ」と読むべきなのだろう。

天降説話のモデルは、天兒屋が三国から但馬へ、天種子が但馬から宇佐、そして安芸へ天降った説話である。萬幡豐秋津師比賣の子で、萬と呼ばれた土地から来た、安芸で祀られた姫の子と共に、である。

これに対して、『舊事本紀』では共に、天忍日は「葦原中國」で「立天孫御前爲先駈者也」とあるように、吾達の土地の仲国を、大來目を率いて先頭に立って支配したのが大伴氏の祖である天忍日と記述する。天忍日は美豆別之主が久米部を率いているので、美豆別之主の将軍の後裔だった可能性が高い。

そして、於国の氏族で、高御産巣日の娘である焼火の姫、栲幡千千姫の子が火瓊瓊杵である。火瓊瓊杵は伊都の高千穂に向かって、高千穂王朝を開いた。

天照大神の神子は正勝吾勝勝速日天忍穗耳であり、三国の官位を持つ於国に賜姓された、三国配下の加須屋大海祇の後裔の王と考えられる。

天津日高日子番能迩迩藝命、命は天皇尊の配下の官位で、大津出身の「高日子」と高浜王、高御産巣日神の婿で、二岐の命なので、速日国から天降って敦賀と若狭の王と名乗った饒速日と同地域の王である。「高」は高木神・高比賣の「高」で、「コ」と読ませていない、『古事記』の「常識」と考えられる。

2024年8月30日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降1 天降った場所

  大国主は支配地を伯耆まで拡げ、胸形の多紀理毘賣を妃にして大山津見の孫の奈賀命に隠岐を統治させ、丈夫国と友好関係を築いた。しかし、天照大御神は、大国主の力の源泉である大山津見を滅ぼし、出雲氏は亀岡の出雲神社周辺へ追い出された。大国主の別名である葦原醜雄を「出雲醜」と解釈し、出雲醜大臣すなわち大国主を追放したと考えた。

次に、帯中日子の背景である仲国の建国説話が始まる。正勝吾勝勝速日天忍穗耳が目指す葦原醜雄の国の「葦原中國」、天照大御神の孫である番能迩迩藝が目指す「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國」は、豊国の吾達(吾氏)の土地神の我国(吾岐)の神の岬の国である。吾氏の土地は国中にあり、その一つが豊国の安芸、その一つが豊国ではない仲国である。

「長」は那珂川の港か、五百は五百年続いたという意味かもしれない。胸形の大山津見を後見する王朝の力を弱め、出雲醜大臣を追放したのが前477年頃で、この時高千穂宮が出来れば、「伍佰捌拾歳」とあるように、580年後は西暦100年頃、「倭國王帥升等獻生口」は107年の事で、倭国が高千穂宮王朝を滅ぼしていた。125年(延光四年)の永宮は訓読みなら「ナガノミヤ」は「一國之魁帥」の奴国にいる壹国女王の夏磯姫が造ったのだろうか。物部君の祖の物部夏花が『後漢書』の邪馬臺国の大倭王だろうか。

『日本書紀』での火瓊瓊杵の説話では、火を「hi」ではなく「huǒ」と理解する人々の説話が語られる。この説話では、天(天草や五島)に住み、燕や漢、魏に臣従してきた倭人や、聖人の熊襲(くまそ)に関する説話が含まれている。これは大伴氏や曾都毘古の母系の人物に関する説話である。

火闌降と火火出見、火明は「ホ」と読むなら九州の人々と解り、神武天皇の名は火火出見と記述され、火火出見王朝の子が去來穗別、履中天皇であったことが解る。『日本書紀』は雄略天皇、大伴氏が記述した史書なので、「ヒ」ではなく「ホ」と読むべきなのだろう。

2024年8月28日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 国譲り4 国譲りの結果

  事代主朝廷の最高実力者である政大夫の宇摩志麻治は、「奉齋大神」として、大神君の祖である天日方奇日方が祀る神に奉斎した。彼の子の彦湯支もまた最高実力者の政大夫となった。「食國政大夫者今大連大臣」とあるように食国の政大夫は大臣と同等なので、彦湯支の子の出雲醜が政大夫ではなく大臣なのは、食国の神ではない、大国の大臣(大国主)であることを示す。大国主は食国の官位、安寧朝まで、名目上隠岐の支配下だったことを示す。食国を離れた出雲醜が大臣(大国主)になれたのは、母の出雲色多利姫が建比良鳥から継承された大国主の娘だからなのだろう。大国主が事代主から政権を取り戻したことを意味する。

国譲りは、懿徳朝が終わる紀元前477年頃に起きた出来事だった。懿徳朝大臣の出雲醜は倭志紀彦の妹である真鳥姫を妃に迎え、大木食を生み、安曇川から大国の中の木国に遷った。そして、出雲醜は孫の建甕槌によって亀岡の出雲神社の地域に隠居させられた。建甕槌は伊勢幡主(伊勢神麻績連の祖の八坂彦、後に八坂入彦が婿入りする)の娘である賀貝呂姫を妃にして、布都御魂は伊勢遺跡がある野洲の伊勢神宮に祀られた。

建甕槌の曾孫の阿田賀田須は大倭國民磯姫を引き継いで阿田氏を継承し、後裔は和迩君である。そして、弟の建飯賀田須が迦毛大御神の後裔の大物主である陶津耳の娘の鴨部美良姫に婿入りして大物主を継承した。

大物主の妃の鴨部美良姫は活玉依毘賣と記述された。事代主の妃は『舊事本紀』が活玉依毘賣で大物主の妃は三穂津姫、『日本書紀』事代主の妃が玉櫛媛、『古事記』の大物主の妃は勢夜陀多良比賣で、全て三嶋溝咋(高御産巣日)の娘で大国主(大物主)一家の系図で、大物主は一世代後だ。

『古事記』は大臣の史書であり、意富臣の始祖は神八井耳とされている。これは「井宮の三国の神」を意味する。つまり、朝廷の神倭()を淡海に遷して継承した三国の井宮、御井宮の和知都美が国譲りで皇位を継承したことを示している。

その継承者である娘たちの蝿伊呂泥と蝿伊呂杼は孝霊天皇の妃となった。すなわち、懿徳天皇から孝安天皇までの間、『日本書紀』の皇后が葉江の娘であったことから、淡道の御井宮で葉江朝廷が続いていたことを意味する。

2024年8月26日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 国譲り3 大国主の朝廷

  『舊事本紀』によると大国主の別名である大物主の妃は高浜の神と考えられる高御産巣日の娘、三穂津姫である。『古事記』では高御産巣日は三島溝咋、妃の三穂津姫は勢夜陀多良比賣である。国譲りが行われた場所は小浜で、事代主が薨じた場所は三穂之碕(御尾前)である。これらの神々は穂()と言う地域で活躍した。

大物主の妃である三穂津姫と同じ地域の姫の穂屋姫(同世代?)は、高倉下の妃であり、これらの地域の建甕槌、劔根、高倉下が大国主(大物主)から国を譲りうけた。三穂は「御尾」すなわち「三国の尾」、後の「三八()国の尾」と考えられ、高浜には「宮尾」があり、産霊神社が存在している。

国譲りは、高御産巣日(?三島溝咋)と天照大御神(?髙照光姫)が子供たちに実行させたものだった。大己貴から天菩比、その子の建比良鳥が大国主を引き継ぎ、すなわち、大背飯三熊之大人は大国、伊根の阿蘇湾、三方の日向湖を統治する、三国の小浜の熊野の主、これは、刺國大上神の可能性がたかい。

さらに、大国主の父の若日子(わかひこ)が矢で殺害され、下光比賣は兄の阿遅鍬高彦根と別人である阿遅志貴高日子根を兄と間違えた。阿遅志貴高日子根の妹(伊呂妹)は下光比賣の別名の「高比賣」である。この高比賣は事代主の妹である高照比賣が継承したと考えられ、阿遅志貴高日子根は神屋楯比賣の父である可能性が高い。

そして、刺國大上神の婿の若日子の妻の若比賣(下光比賣)の兄の阿遅鍬高彦根が大山津見であり、その妃が高比賣であった可能性が高く、大山津見の娘が神阿多都比賣である。山津見は神の意味で履歴書、阿遅鍬高彦根は役職名だ。一世代は2から3代以上の親子関係があり、顔が似ると言うことは、互いに従弟同士で婚姻しあっていることが予想される。君子国にとって、三国は接頭語()が付かない「唯の吾国」であり、三国と但馬は併せて「吾田」国とよばれ、事代主朝廷は「吾田の国の朝廷」だった。この世代で王と呼べるのは阿多小椅君のみ、そして、世代の違う胸形君と猿女君、九州の王である。

2024年8月23日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 国譲り2 建御名方

  建御名方は三方の神と考えられ、事代主の子である天日方奇日方も同じ地域の人物だ。『舊事本紀』では、「歸順之首渠者大物主神及事代主神」と記述されて、ここでは建御名方に変え大物主が登場している。しかし、大物主は世代が遅く、大物主の娘の伊須氣余理比賣を妃に迎えたのは、阿多小椅君の妹の子の當藝志美美だ。つまり、大物主は阿多小椅君と同世代であり、阿多君は事代主の子の天日方奇日方が阿田都久志尼と阿多君の政大夫の阿多津の櫛の尼(禰宜)であったため、事代主の子の世代にあたる。阿田の王は君子国三国の君()の阿多君だ。

大物主の娘である伊須氣余理比賣が阿多君の妹の阿比良比賣の子である當藝志美美の妃であるならば、阿多君の娘もまた、大物主の子の夫である可能性が高い。阿多君の娘と考えられる阿俾良依姫は、穗屋姫の子である天村雲の妃であり、穗屋姫は大物主の妃の三穂津姫と姉妹である可能性が高い。

大物主は大国主の家系ではあるが、天日方奇日方の家系でもあり、大国主の孫の世代である。建御名方は、母である髙志の沼河姫の地元の翡翠と黒曜石と縄文土器で栄えた諏訪に逃れた三国の王だ。『舊事本紀』では、大物主が事代主と兄弟関係のある人物として記述され、大物主は事代主の子の世代だった。すなわち、大物主は建御名方の子が義兄弟になり、天日方奇日方とも義兄弟になる家系と考えられる。

大物主の子供は伊須氣余理比賣で、その最後の夫は阿多小椅君の妹の子である。伊須氣余理比賣は天日方奇日方の姪にあたり、阿多小椅君の妹の子の當藝志美美も義理の甥、神沼河耳は阿多小椅君の妹の子の義子だ。神沼河耳は建御名方の母の沼河姫の名を引き継いでいる。阿多君の祖は火照なので、火照が沼河姫の娘婿の建御名方の可能性が高い。

2024年8月21日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 国譲り1 出雲氏

  国譲りの説話は、天照大御神と須佐之男の子である天菩比を送ったことから始まり、天菩比は大国主に媚びて臣従し、子の建比良鳥と共に出雲臣の祖とされた。その後、天津國玉(対馬国王)の子である天若日子が登場する。天若日子(若狭日子)は大穴牟遲と多紀理毘賣の子の阿遅鍬高彦根の妹の下光比賣(若狭比賣)を妃に迎え、義兄の阿遲鍬高日子根を追い出し、大国主を生んだと考えられる。阿遅鍬高彦根は迦毛大御神と呼ばれ、賀茂君は大物主の末裔なので、大物主の祖なのだろう。そして、天照大御神は建御雷に布都御魂を持たせ、天鳥船を伴にして国を譲らせた。なお、経津主は布都御魂を指すと考えられる。

建比良鳥は出雲臣の祖であり、出雲氏の初出は彦湯支の妃である色多利姫だ。色多利姫は出雲醜大臣の母であり、建比良鳥の末裔と考えられる。また、色多利姫は滋賀県安曇川上流にある思子淵神社の地域の姫である。天菩比は、大穴牟遲に媚びて若狭の鳥浜で臣下になったと考えられ、その子孫は高島の安曇川に住んでいたようだ。

色多利姫の子である出雲醜の子が沙麻奈姫であり、沙麻奈姫と建飯勝の子が建甕槌だ。建飯勝は安寧天皇の皇后である渟中底姫の兄であり、実質的に天皇であったと考えられる。渟中底姫の祖母は活玉依姫であり、事代主の妃だった。したがって、孫の渟中底姫は事代主を継承し、事代主朝廷の女王である。しかし、建飯勝の義父である出雲醜の力と高島の高木神の武力によって、この事代主朝廷が終焉を迎えた。建御雷は、布都御魂を使って叔母の事代主朝廷を滅ぼした。建御雷は事代主と大国主も滅ぼしたので、この大国主は出雲醜大臣の子だったのだろうか。安曇川にいた出雲氏の大国主を祀る出雲神社は亀岡にあった。

2024年8月19日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 九州の神4 木国と根国

羽曳野神を祀ったと考えた波比岐には、地名の命名に関する説話がある。しかし、例えば、神武天皇の「秋津州」や雄略天皇の「阿岐豆野」など、地名に関する説話が他にも存在する。

 秋津は「吾岐の津」、つまり「我が国の津」を意味し、我が国には無数の港が存在している。神話を記した氏族にとって、「津」は対馬を指し、「吾岐」は帯中日子の国、すなわち安芸や吉備まで勢力を広げた建日国の日向曾都毘古の国を意味する。

対馬の津国()と同様に、琵琶湖、奈良湖、巨椋池に挟まれた地域には「木国」があり、津と呼ばれていた木津周辺は「岐」と呼ばれていたと考えられる。これは、政権の中枢である宇豆比古の国であったためだ。その結果、他の木国は葉木、久久、隠岐、壱岐などと呼ばれるようになった。

中国人は、これらの木国の一つを「鬼国」と呼び、その宗教を「邪教の鬼道」と称した。しかし、自国を「鬼」や「悪魔」と呼ぶ国は存在しない。これは、圧倒的に強い敵国に対して、攻められる側がつけた呼び名と考えられる。『日本書紀』では「鬼国(guǐguó)」が「貴国(guìguó)」と記されている。宗教も「鬼道」ではなく「貴道」岐()神の道と呼んでいたと考えられ、天皇家の天照大御神のように氏の祖を祀る神道のことだ。卑弥呼の「惑衆」は統率力があったことを意味している。

中国人にとって「鬼国」は、中国と戦う強敵を指していた。『山海經』には「鬼国」が蓋州市周辺に存在したと記述された。『三国志』の倭人伝にも倭の30国の中に鬼国・鬼奴国が登場し、朝鮮でも鬼道を行ったが、中国の臣下になったと描かれている。

木国と同様に、須佐之男が向かった「根国」も、複数の「根」が存在し、王朝によってその場所は異なる。例えば、伊邪那美を葬った比婆の山の「根国」は伊根を指し、伊邪那岐の多賀近辺であれば彦根が該当する。彦根の「彦」は天皇を表す役職名であり、「天皇根」を意味すると考えられる。「根」とは木の幹、すなわち宮の大黒柱を指し、八国の中心であったことを示している。