2020年5月15日金曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第十九 欽明天皇 1

  『日本書紀』慶長版は
天國排開廣庭天皇男大迹天皇嫡子也母曰手白香皇后天皇愛之常置左右天皇幼時夢有人云天皇寵愛秦大津父者及壯大必有天下寐驚遣使普求得自山背國紀伊郡深草里姓字果如所夢於是忻喜遍身歎未曾夢乃告之曰汝有何事荅云無也但臣向伊勢商價來還山逢二狼相鬪汙血乃下馬洗漱口手祈請曰汝是貴神而樂麁行儻逢獵士見禽尤速乃抑止相鬪拭洗血毛遂遣放之倶令全命天皇曰必此報也乃令近侍優寵日新大致饒富及至踐祚拜大藏省四年冬十月武小廣國押盾天皇崩皇子天國排開廣庭天皇令群臣曰余幼年淺識未閑政事山田皇后明閑百揆請就
而决山田皇后怖謝曰妾蒙恩寵山海詎同萬機之難婦女安預今皇子者敬老慈少禮下賢者日中不食以待士加以幼而穎脱早擅嘉聲性是寛和務存矜宥請諸臣等早令臨登位先臨天下冬十二月庚辰朔甲申天國排開廣庭皇子即天皇位時年若干尊皇后曰皇太后大伴金村大連物部尾輿大連爲大連及蘇我稻目宿祢大臣爲大臣並如故
【天國排開廣庭天皇は、男大迹天皇の嫡子だ。母を手白香皇后という。男大迹天皇は、天皇をかわいがって、いつも、かたわらに連れて歩いた。天皇が幼いころに、夢に人が出てきて、「天皇は、秦の大津父という者を寵愛すれば、成長した時に、きっと天下を手にする」と言った。夢を見て驚いて使者を派遣して広く隅々まで探して、山背国の紀の郡の深草の里で見つけた。氏も名も、夢で思い描いた通りだった。それで、 とてもよろこんで、体全体を使って見たことのない夢のようだと感心した。それで「お前にも、何かあったのか」と夢見を告げた。「何もありません。ただ、私が、伊勢に向って、値打ちのある物を商って帰って来た時に、山で互いに闘って血で汚れた二匹の狼に遭遇した。それで、馬から降りて口や手を洗い漱いで、『あなたは貴い神だが、荒々しい行いを喜ぶ。もし漁師に出会ったら、真っ先に生け捕られるだろう』と祈った。すると、戦いを止めたので、血の付いた毛を洗いい拭って、二匹とも逃がして命を救ってやった」と答えた。天皇は「きっとその報いだろう」といった。それでとても気に入って天皇の傍に仕えさせたら、日に日にとても豊かなになった。皇位を受け継いだ時に、大藏省の官位をさずけた。四年の冬十月に、武小廣國押盾天皇が崩じた。皇子の天國排開廣庭天皇は、群臣に、「私は、年が若くて見識が狭くて、まだ政事がおろそかとなってしまう。山田の皇后は、疑いのなくどんなことでも無駄がない。天皇に就くようお願いして決めなさい」と命令した。山田の皇后は、「私は、神のめぐみを身に受けたが、山と海は同じではありません。多くの重要な事柄の難しさを婦女子がどうして預かれましょう。今、皇子は、老人を敬い、幼い人を慈しみ、道理に通じた人には敬意が下される。昼日中は部下を待って食べないで、加えて、若いころから抜きんでていて、早くから人望を独り占めにして、性格もゆとりが有って穏やかで、務めて、悲しんでいる人をなだめている。お願いだから、諸臣達よ、早く皇子を即位させて天下に臨ませて欲しい」と畏まって断った。冬十二月の朔が庚辰の甲申の日に、天國排開廣庭の皇子が、天皇に即位した。この時に年齢は若干だった。皇后を尊んで皇太后といった。大伴の金村の大連と物部の尾輿の大連を大連とし、蘇我の稻目の宿禰の大臣を大臣としたのは共に以前と同じだ。】とあり、十二月庚辰は539年で標準陰暦と合致する。
ところが、同じ蘇我氏が記述させた『舊事本紀』では「元年歳次巳未冬十二月庚辰朔甲申皇太子等召天皇位尊皇后曰皇太后追皇太后贈太皇太后物部尾輿連公為大連物部目連公為大臣」と『日本書紀』の欽明天皇元年が540年と違い、大伴大連が記述されない。
本来の元年は当然539年になるのだが、『日本書紀』は宮を天皇としているので遷都した540年が元年で、実際は、以前に記述した通り、やはり、襲名した継体天皇が相変わらず天皇である。
また、大伴大連が『舊事本紀』では記述されず、さらに、継体天皇・安閑天皇・宣化天皇にも「物部麁鹿火大連爲大連、蘇我稻目宿祢大臣爲大臣」を含めて記述されておらず、安閑天皇も宣化天皇も勾金橋宮と桧隈廬入野宮に遷都しただけでずっと継体帝だったことを意味し、継体天皇イコール欽明天皇を意味して、『舊事本紀』の欽明すなわち継体即位の説話で、武烈天皇が即位して尾輿を大連に、目を大臣にし、540年6月以前に武烈天皇を殺害して物部目が天皇に即位したのだろう。
物部麁鹿火も、継体天皇を発掘し、対磐井戦争の時に筑紫以西を取れと言われ、安閑天皇・宣化天皇に記述されているのだから、蘇我氏の王朝内の説話と考えられ、そうでないなら、『舊事本紀』から安閑天皇・宣化天皇での大連就任記事を削除する必要がない。
『舊事本紀』には「孫物部麁鹿大連公・・・此連公勾金橋宮御宇天皇御世爲大連」と系図部分には安閑天皇の大連とするが、天皇紀には継体天皇の時に継体天皇を推挙する大連とするだけで、系図部分は欽明天皇世代に配置され、最も矛盾を持つ人物で、実際は継体天皇イコール欽明天皇で、この中に物部目・蘇我稲目・蘇我馬子・葛子などの王の事績が割り振られているのである。
また、皇太后に襲名するのは安閑天皇の皇后の春日山田皇后ではなく仁賢天皇の春日皇后で、本来なら欽明天皇即位時の皇后と呼べるのは宣化天皇の皇后の橘仲媛しか有り得ない。
したがって、春日皇后に皇位継承を催促して、女だからと拒絶しているが、古代の天皇はこれまで記述した通り、前皇后を宮に迎え入れて皇太后に就任させることが皇位継承の必須で、迎え入れられない時は、皇后という天皇の宮という分王朝が併立することになる。
この皇后の説話は巨勢王朝の最高の皇位継承者の皇后を皇太后として迎え入れ、天皇というシステムが継承されたことを記述しているのである。

2020年5月13日水曜日

最終兵器の目 宣化天皇 2

 『日本書紀』慶長版は
夏五月辛丑朔詔曰食者天下之本也黃金萬貫不可療飢白玉千箱何能救冷夫筑紫國者遐邇之所朝届去來之所關門是以海表之國候海水以來賓望天雲而奉貢自胎中之帝洎于朕身收藏穀稼蓄積儲粮遙設凶年厚饗良客安國之方更無過此故朕遣阿蘇仍君加運河內國茨田郡屯倉之穀蘇我大臣稻目宿祢冝遣尾張連運尾張國屯倉之穀物部大連麁鹿火宜遣新家連運新家屯倉之穀阿倍臣宜遣伊賀臣運伊賀國屯倉之穀修造官家那津之口又其筑紫肥豊三國屯倉散在懸隔運輸遙阻儻湏如要難以備卒亦宜課諸郡分移聚建那津之口以備非常永爲民命早下郡縣令知朕心秋七月物部麁鹿火大連薨是年也太歲丙辰二年冬十月壬辰朔天皇以新羅冦於任那詔
大伴金村大連遣其子磐與狹手彥以助任那是時磐留筑紫執其國政以備三韓狹手彥往鎮任那加救百濟四年春二月乙酉朔甲午天皇崩于檜隈廬入野宮時年七十三冬十一月庚戌朔丙寅葬天皇于大倭國身狹桃花鳥坂上陵以皇后橘皇女及其孺子合葬于是陵
夏五月の辛丑の朔の日に、「食は天下の根本だ。黄金が萬貫有っても、飢を癒すことが出来ない。白い玉が千箱有っても、冷たくなってしまった男をどのように救うことが出来ようか。筑紫国は、遠近の者たちが朝廷に遣ってくる行き来の関所の門となるところである。それで、海の向こうの国は、海の状態をじっと伺って、客人が来て、雲の様子を見て奉献する。お腹の中にいた天皇から、私まで、収穫された穀物を蔵に納め、その余を農作物の出来が非常に悪い年に備えて長い間たくさんたくわえた。国を安らかで平穏にする方法はこれ以上のものは無い。それで、私は、阿蘇仍(?のの)君を派遣して、追加で、河内国の茨田の郡の屯倉の穀物を運ばせた。蘇我の大臣の稻目宿禰は、尾張の連を派遣して、尾張国の屯倉の穀物を運ばせなさい、物部の大連の麁鹿火は、新家の連を派遣して、新家の屯倉の穀物を運ばせなさい、阿倍臣は、伊賀臣を派遣して、伊賀の国の屯倉の穀物を運ばせ、官家を、那の津の入口に繕い直しなさい。またその筑紫と肥と豊の、三国の屯倉は、散らばってかけはなれて、物を運ぶのに遠いので妨げられてい望み求めることが急に有っても備えとはならない。また諸郡に割り当てて那津の入口に集めて官家を建てるのが良い。それで、思いがけない時に備えて、永く人民の為のものとするべきだ。早く郡縣に命令を下して、私の気持ちを知らしめなさい」と詔勅した。秋七月に、物部の麁鹿火の大連が薨じた。この年は太歳が丙辰だった。二年の冬十月の壬辰が朔の日に、天皇は、新羅の任那に侵略したので、大伴の金村の大連に詔勅して、その子の磐と狹手彦とを派遣して、任那を助けた。この時に、磐は、筑紫に留まって、その国の政策を執り行い、三韓に備えた。狹手彦は、任那に行って鎮圧し、それに加えて百済を救った。四年の春二月の朔が乙酉の甲午の日に、天皇は、桧隈の廬入野の宮で崩じた。この時の年齢は七十三歳だった。冬十一月の朔が庚戌の丙寅の日に、天皇を大倭国の身狹の桃花鳥坂の上の陵に葬った。皇后の橘の皇女とその子供を、この陵に合葬した。】とあり、二年十月壬辰は9月30日で9月が小の月なら標準陰暦と合致し、その他は標準陰暦と合致する。
官家の那の津の食糧を畿内から運んでいるが、これは、那の津以外の九州の地が天皇の領地ではないことを表し、天皇の直轄領は阿蘇仍君に運ばせ、那の津の官家を運営し、何かあった時に磐などのように、適時任命された責任者が官家に滞在して、狹手彦が現地の責任者として戦う方法を採用したようだ。
そして、この磐も狹手彦も賜姓も役職名も記述されていないが、これも、物部氏や蘇我氏の配下でないためと考えられ、俀国の人物と考えた方が理に適い、畿内の人物ではまた失敗しそうなので、手慣れた俀国王に任せたと思われ、磐は倭武と同じように倭磐かも知れず、石姫皇女、小石姫皇女・倉稚綾姫・上殖歯皇子は葛子と兄弟の可能性がある。
東漢直駒東漢直磐井子也」・「東漢直駒偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻河上娘蘇我馬子宿禰女也」と直は縣主や国造の氏姓なのだから、磐井の乱で奪った、磐井が東漢直なのだから駒は糟屋の縣主で、糟屋の縣主が蘇我馬子の配下で義理の息子になった。
だから、俀国の分国の倭国の継体天皇が稲目でその子、倭国の宣化天皇である馬子の子が義子の上殖歯皇子すなわち東漢直駒ということも、磐が馬子若しくは磐井とも考えられ、馬子は推古天皇三四年「大臣薨仍葬于桃原墓大臣則稻目宿禰之子也」と626年に死亡しており、磐井の死亡年も再検証が必要だ。
何度も述べるが、継体・安閑・宣化・・・の各天皇も首都である宮の歴史にすぎず、そこに、多数の王を当て嵌めたにすぎず、安閑・宣化・・・の各天皇名は蘇我氏の役職名で、内容は倭国王・俀国王・秦王国などの王の事績を記述していることを忘れてはならない。
巨勢王朝の崩壊によって、屯倉の穀物を運ばせた意味は、蘇我氏が尾張氏を配下に、物部麁鹿火が新家連を配下、阿倍臣が伊賀臣を配下にしたことを示し、ここには大伴氏が出現せず、代わりに大夫阿倍火麻呂臣が登場していることから、大伴氏は巨勢王朝の側の人物だった可能性が高い。
また、この天皇は陵墓造りに農繁期を含めて9ヶ月しかかかっていないので、竪穴式石棺で溜池用に造った盛り土の頂上に竪穴を掘って石棺をおさめ、やはり皇后も共に埋葬し皇后と天皇が一緒になっての天皇システムという体制をもった王朝の陵墓だと解る。
任那鎮圧記事は『三国史記』法興王十九年532年の「金官國主金仇亥與妃及三子長曰奴宗仲曰武德季曰武力以國帑寶物來降王禮待之授位上等以本國爲食邑子武力仕至角干」と 金官国が敗れたことを受けての戦いなのだろう。

)崇峻天皇までは馬子達が記述しているので、解説文も資料の直引きではないが、同じ王朝内の感想と考えるべきだろう。磐を馬子から見れば自分の親類なのだから氏姓等不要で、物部天皇から見れば蘇我氏、役職名は武小廣國押盾と考えられる。

2020年5月11日月曜日

最終兵器の目 宣化天皇 1

 『日本書紀慶長版
武小廣國押盾天皇男大迹天皇第二子也勾大兄廣國押武金日天皇之同母弟也二年十二月勾大兄廣國押武金日天皇崩無嗣群臣奏上剱鏡於武小廣國押盾尊使即天皇之位焉是天皇爲人器宇清通神襟朗邁不以才地矜人爲王君子所服元年春正月遷都于檜隈廬入野因爲宮號也二月壬申朔以大伴金村大連爲大連物部麁鹿火大連爲大連並如故又以蘇我稻目宿祢爲大臣阿倍大麻呂臣爲大夫三月壬寅朔有司請立皇后巳酉詔曰立前正妃億計天皇女橘仲皇女爲皇后
是生一男三女長曰石姫皇女次曰小石姫皇女次曰倉稚綾姫皇女次曰上殖葉皇子亦名椀子是丹比公偉那公凢二姓之先也前庶妃大河內稚子媛生一男是曰火焰皇子是椎田君之先也
武小廣國押盾天皇は、男大迹天皇の第二子で、勾大兄廣國押武金日天皇の同母弟だ。二年の十二月に、勾大兄廣國押武金日天皇が崩じたが継嗣が無かった。群臣が、剱と鏡を武小廣國押盾尊に奏上して、天皇に即位した。この天皇は、人と為りは、心のもちかたが広くて、筋が通っていてわかりやすく、心のうちは何のこだわりもなく時が過ぎた。君子才能や地位がある人ではなく、哀れな人のために王となることを身に着けるべきものだとした。元年の春正月に、都を桧隈の廬入野に遷し、宮と呼んだ。二月の壬申が朔の日に、大伴の金村の大連を大連、物部の麁鹿火の大連を大連とすることは、共に以前と同じだ。また蘇我の稻目の宿禰を大臣とした。阿倍の大麻呂の臣を大夫とした。三月の壬寅が朔の日に、役人が、皇后を立てようと願った。己酉の日に、「以前の正妃すなわち億計天皇の娘の橘仲皇女を立てて皇后としよう」と詔勅した。皇后は一人の男子と三人の女子を生んだ。長女を石姫の皇女といい、次を小石姫の皇女といい、次を倉の稚綾姫の皇女といい、次を上殖葉の皇子といい、またの名は椀子だ。この皇子は丹比の公と偉那公全てで二姓の先祖だ。以前の側室の下の妃の大河内の稚子媛が、一人の男子を生んだ。この子を火焔の皇子といい、この皇子は椎田の君の先祖だ。】とあり、三月壬寅は3月2日で2月は小の月のため、大の月なら標準陰暦と合致し、二月壬申朔も合致する。
『舊事本紀』には「二年春正月都遷檜前謂廬入宮三月壬寅朔」と元年が535年安閑二年で実際の物部氏の天皇と異なる人物が天皇で、この天皇も安閑天皇が12月に崩じたにもかかわらず、1月が元年だが、やはり、遷都が1月で、宮が変わった時に天皇が変わる例になっていて、実際は536年に宮が変わったから天皇が変わったのである。
天皇の一人の生き死には関係が無く、武小廣國押盾を桧隈廬入野天皇に割り当てたにすぎず、王朝の交代に記述される璽すなわち玉と書付が含まれず、武小廣國押盾は天皇より下位の大王の徴ということが解る。
この天皇の皇子に上殖葉皇子がいるが、『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』の「治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖」と「獲□□□鹵大王」がこの皇子ではないかと考えた。
なぜなら、「鹵」は「ル」の可能性が低いと『稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣』でのべたように、学者が「ル」と読ませたくて『日本書紀』では「ロ」と読ませているにもかかわらず「鹵」を当てただけで、朝鮮語の「Lo」が「鹵」で日本語にこの発音が無く、実際は「齒」なのではないかと考えたのである。
江田船山古墳で523年に崩じた百済武寧王の陵から出土した垂飾付耳飾と同型飾が出土したが、当然、江田船山古墳被葬者が武寧王より先に同型飾を使用して副葬されることは考えにくく、武寧王が倭王に送り、それが下賜されたと考える方が合理的だ。
副葬の朝鮮由来物の時代が離れているため、追葬との説が発表されているが、私は、倭武とともに朝鮮に出兵した時の取得物と、530年代に俀国王とともに出兵した時の戦利品が副葬されたため、副葬品の年代が離れていると考えた。
530年頃に上殖葉が天皇ではなく火国の大王となって朝鮮に出兵し、事典曹の「无利弖」に下賜し、死後副葬されたと考えるべきで、同古墳の出土須恵器も日本の須恵器ではなく朝鮮の全羅南道に出土例が多く有り、副葬品との関連が理解できる。
江田船山古墳はかなり副葬が豪華で、かなりの高位の近習のようで、その主君の「獲□□□鹵大王」すなわち「「獲□□□鹵」君が上殖葉なら、斉明天皇七年「天皇遷居于朝倉橘廣庭宮」と朝倉に廣庭があり、江田船山の近傍で、蘇我氏の役職名と考えられる天國排開廣庭の名前も関連し、上殖葉は偉那鏡王の祖としているが、『大村骨臓器銘文』に「大村檜前五百野宮御宇天皇之四世後岡本聖朝紫冠威奈鏡公之第三子也」と年齢が合わず、当然上殖葉は襲名され大王なのだから大臣の可能性が高く、稲目も威奈目とも考えられる。

2020年5月8日金曜日

最終兵器の目 安閑天皇4

 『日本書紀』慶長版は
二年春正月戊申朔壬子詔曰間者連年登穀接境無虞元元蒼生樂於稼穡業業黔首兔於飢饉仁風暢乎宇宙美聲塞乎乾坤內外清通國家殷富朕甚欣焉可大酺五日爲天下之歡夏四月丁丑朔置勾舍人部勾靫部五月丙午朔甲寅置筑紫穗波屯倉鎌屯倉豊國滕碕屯倉桑原屯倉肝等屯倉大拔屯倉我鹿屯倉火國春日部屯倉播磨國越部屯倉牛鹿屯倉備後國後城屯倉多祢屯倉來履屯倉葉稚屯倉河音屯倉婀娜國膽殖屯倉膽年部屯倉阿波國春日部屯倉紀國經湍屯倉河邊屯倉丹波國蘇斯岐屯倉近江國葦浦屯倉尾張國間敷屯倉入鹿屯倉上毛野國緑野屯倉駿河國稚贄屯倉秋八月乙亥朔詔置國國犬養部九月甲辰朔丙午詔櫻井田部連縣犬養連難波吉士等主掌屯倉之税丙辰別勅大連云宜放牛於難破大隅嶋與媛嶋松原冀垂名於後冬十二月癸酉朔己丑天皇崩于勾金橋宮時年七十是月葬天皇于河內舊市髙屋丘陵以皇后春日山田皇女及天皇妹神前皇女合葬于是陵
【二年の春正月の朔が戊申の壬子の日に、「このごろは何年も続いて、耕地の境が解らないほど穀物が実り、何の憂いも無い。元々人民は種まきと収穫を楽しみに、いそいそと働く人民は、飢えや苦しみを免れることが出来る。仁徳による教化は宇宙(漢淮南子·天文訓「道始于虛霩虛霩生宇宙宇宙生氣氣有涯垠」時間と空間全て)に延び拡がり、耳に快い声は日が当たる天地を覆うほど響き渡る。内も外も筋が通っていてわかりやすく国家は栄えて豊かなになった。私は大変喜んでいる。私が酒食を用意するから大宴会を五日間開くのでみな喜びとしてほしい」と詔勅した。夏四月の丁丑が朔の日に、勾の舍人部と勾の靫部を置いた。五月の朔が丙午の甲寅の日に、筑紫の穗波の屯倉・鎌の屯倉、豊の国の滕碕の屯倉・桑原の屯倉・肝等の屯倉、大拔の屯倉・我鹿の屯倉、火の国の春日部の屯倉、播磨の国の越部の屯倉、牛鹿の屯倉、備の後の国の後城の屯倉・多禰の屯倉・來履の屯倉、葉稚の屯倉、河音の屯倉、婀娜の国の膽殖の屯倉、膽年部の屯倉、阿波の国の春日部の屯倉、紀の国の經湍の屯倉、河邊の屯倉、丹波の国の蘇斯岐の屯倉、近江の国の葦浦の屯倉、尾張の国の間敷の屯倉、入鹿の屯倉、上毛野の国の緑野の屯倉、駿河の国の稚贄の屯倉を置いた。秋八月の乙亥が朔の日に、国々の犬養部を置くよう詔勅した。九月の朔が甲辰の丙午の日に、櫻井の田部の連・縣犬養の連・難波の吉士達に、屯倉の税をつかさどるところのかしらに任命する詔勅を出した。丙辰の日に、大連には別に「牛を難破の大隅の嶋と媛嶋の松原とに放牧して、出来たら名を後世に残せ」と詔勅した。冬十二月の朔が癸酉の己丑の日に、天皇は、勾の金橋の宮で崩じた。この時、年齢は七十歳だった。この月に、天皇を河内の舊市の高屋の丘の陵に葬った。皇后の春日の山田の皇女と天皇の妹の神前の皇女を、この陵に合葬した。】とあり、四月丁丑、五月丙午、八月乙亥、十二月癸酉は標準陰暦と合致し、九月甲辰は8月30日で9月が小の月なら合致する。
ところが、正月戊申は戊寅で468年雄略天皇十二年と597年推古天皇五年でどちらも、今一つ当てはまるとは言えず、561年欽明天皇二二年は1月2日が戊申で前年の12月は小の月で、大の月なら合致する。
朕承帝業於今二十四年天下清泰內外無虞土脉膏腴穀稼有實竊恐元元由斯生俗藉此成驕」と継体24年に高らかに宣言し、これは欽明元年のことと述べたが、欽明21年末に前天皇が崩じて長男が後継天皇として即位という間隔に良くあてはまり、元年の宣言を基にしたと考えられる。
しかし、もともと、前の項で535年の1月を534年閏12月と記述していて、この1月が2月であれば、戊申でピタリと符合するが、安閑元年は531年2月からで、正月が無く、安閑2年は3年でなければ正しいとは言えず、勿論年干支も違い、531年2月即位した天皇は巨勢男人が大臣になった時の可能性が高い。
そして、これらの屯倉を置けた理由は、巨勢氏と大伴氏、磐井の敗北とそれに協力した尾張氏、上毛野君(前項で述べた)の領地を物部氏と蘇我氏が手に入れたことを示し、筑紫・火・豊は磐井の領地、播磨・阿波・紀は景行天皇すなわち恐らく建内宿禰の一族の領地で、備後・婀娜はは平群氏雄略天皇が奪った領地で丹波は『舊事本紀』に「六世孫建田背命・・・丹波國造」と尾張氏、近江も『舊事本紀』に「日本武尊娶兩道入姬皇・・・稚武王 近江速部君祖」とあり、ヤマトタケルは熱田神宮から東征し尾張氏の領地と思われる。
また、この天皇は崩じたその月に埋葬され、古墳は既にできていた、すなわち、磐井と同じように横穴石棺の古墳の記述のようで、『釈紀十三』に筑後國風土記の逸文から、「筑紫君石井豪強暴虐不偃皇風生平之時預造此墓俄而官軍動發欲襲之間知勢不勝獨自遁于豐前國上膳縣終于南山峻嶺之曲於是官軍追尋失蹤士怒未泄擊折石人之手打墮石馬之頭」と磐井と戦った時に既に石人が設置された別区があってそれを打ち壊したと述べ、既に古墳が完成していたと記述されている。
畿内ではまだ横穴石室が7世紀まで無く、九州の王の説話、蘇我氏か葛子か磐井の埋葬を記述した可能性があり、神前皇女の母は廣媛で、廣國押武金日を兄妹としているが、三代目の廣國押武金日が兄妹、2代目廣國押武金日が531年の戦乱で得た廣国の姫の廣媛との間に生まれたのが神前皇女、倭王なのだから横穴石棺で、娘と皇后を合葬したと思われ、この廣國押武金日は蘇我氏の倭国の宮が出来て70年という意味だろう。
石舞台古墳が馬子の墓と言われているが、横穴式石室なのだから土を取り除く必要が無く、横穴石室を作って、土を盛る前に古墳を作ることを止めたのであって、入鹿や蝦夷の墓の可能性が高い。

2020年5月6日水曜日

最終兵器の目 安閑天皇3

  『日本書紀』慶長版は
是月廬城部連枳莒喩女幡媛偸取物部大連尾輿瓔珞獻春日皇后事至發覺枳莒喩以女幡媛獻采女丁幷獻安藝國過戸廬城部屯倉以贖女罪物部大連尾輿恐事由己不得自安乃獻十市部伊勢國來狹狹登伊贄土師部筑紫國膽狹山部也武藏國造笠原直使主與同族小杵相爭國造經年難决也小杵性阻有逆心髙無順密就求援於上毛野君小熊而謀殺使主使主覺之走出詣京言狀朝庭臨斷以使主爲國造而誅小杵國造使主悚憙交懷不能默已謹爲國家奉置横渟橘花多氷倉樔四處屯倉是年也太歲甲寅
【この月に、廬城部の連の枳莒喩の娘の幡媛が、物部の大連の尾輿の首飾りを盗み取って、春日の皇后に献上した。事実が発覚して、枳莒喩の、娘の幡媛を、後宮の女官に献上した。併せて安芸の国の過戸の廬城部の屯倉を献上して、娘の罪を贖った。物部の大連の尾輿は、事体は自分が原因ということで身に降りかかることを恐れて、安心できなかった。それで十市部、伊勢国の來狹狹・登伊の贄の土師部、筑紫国の膽狹山部を献上した。武蔵の国造の笠原の直の使主と同族の小杵とが、国造を互いに争って、何年たっても決めることが出来なかった。小杵は、性格が険しく逆らうことが有って志が高くて素直でない。密かに上毛野の君の小熊に助けを求めに行って、使主を殺そうと謀った。使主はそれをさとって逃げ出し、京にやって来て状況を述べた。朝庭は使主に対して、使主を国造にすると言い渡し、小杵を誅殺した。国造の使主は、押し殺して喜んだが、黙っていることが出来ず、謹んで国家の為に、横渟・橘花・多氷・倉樔、四所の屯倉を置いて奉納した。この年は、太歳が甲寅だった。】とある。
この頃の出土物に稲荷山古墳の『金錯銘鉄剣』が出土しているが、「辛亥年」から471年と531年の説があり、古代史の世界では「獲加多支鹵大王」を「ワカタケル」と読ませて雄略天皇と決めつけて471年作成としている。
しかし、獲は誰が見てもワなどと読めず、「カ」または「エ」としか読めず、「支」も「シ・サ」でせいぜい岐の略字でキと読ませる程度、「鹵」は「ロ・シ」で、とにかく読みなさいと言っているようなもので、「鹵」の字は「阿鹵旱岐」、「中佐平麻鹵」、「百濟遣將軍君尹貴麻那甲背麻鹵等」、「盖鹵王」と朝鮮語に対する音として使用しており、日本人の名に含まれることは少なそうである。
そして、前方後円墳の竪穴棺は先に溜池ありきの残土置き場を墳墓に流用したものと証明し、2回の春名山噴火が6世紀にあり、その下の層に古墳が有ったからと言ってその時、墳墓となっていたか不明だ。
土器編年も鉄剣銘の辛亥年を471年として,ここから須恵器TK23~TK47型式を5世紀後半~末葉に比定し、須恵器を古墳時代に符合させるために開始年代を早め、崇峻天皇元年588年の「始作法興寺此地名飛鳥眞神原」と飛鳥寺が建てられた588年の下の層からTK43式須恵器が発見されたので、この型式を定点としたが、この型式を造った窯の基礎となる水を引く樋管の木が613年以降に伐採された木を使用し、隋様式の硯も見つかっていて、証拠となるのか不明だ。
このように、須恵器の年代も証拠にならず、531年に死亡した「乎獲居臣」おそらく読みは「ヲカコオミ」であるが、「獲居」は「弖已加利獲居」、「多加披次獲居」、「多沙鬼獲居」と何代もの人物に付加されていて、『三国志』には「伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚」、「奴國百里官曰兕馬觚副曰卑奴母離」、「不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離」と各国異なる官位を持っているように、武蔵国にも「獲居」という官位が有り得る。
そして、この家系は「祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比其児名加差披余」と大彦を始祖として、8代目、当然紀元前から6世紀で8代のはずが無く、宮世代で夫々三代程度襲名が有り、2代目の多加利足尼は王家で、三代目から多加利足尼のおそらくNo1の臣下となって仕えたが、6代目から没落してしまったが8代目に乎獲居とまたN01の臣下となり「斯鬼宮」の「多加利」の宿禰、宿禰は天皇に準じる大王を意味し、天皇家の皇太子と同等の地位の大王の子孫の「獲加多支鹵」大王の補佐をしたと記述されているのである。
まさに、小杵は「乎(獲居)」の長男で上毛野君若しくは皇太子のNo1の臣下武蔵国造の父親が531年に亡くなり、先代の上毛野君の陵に追葬してもらい、銘文付きの刀を副葬してもらったが、巨勢氏を取るか物部氏を取るかの争いで、小杵は上毛野君と共に巨勢側について、同族の使主が物部氏について小杵は責任を取らされたと考えられる。
531年は磐井の乱と王朝の争奪戦で、『常陸國風土記』西野宣明の「自相模国足柄岳坂以東諸縣揔稱我姫國」の難波朝まで続いた関東我姫国の倭武天皇の後裔上毛野の王朝もどちらにつくかの選択を迫られた戦いになったようであり、安閑の時代はその戦後処理の時代となったのだろう。

2020年5月4日月曜日

最終兵器の目 安閑天皇2

 『日本書紀』慶長版は
冬十月庚戌朔甲子天皇勅大伴大連金村曰朕納四妻至今無嗣萬歲之後朕名絶矣大伴伯父今作何計毎念於茲憂慮何已大伴大連金村奏曰亦臣所憂也夫我國家之王天下者不論有嗣無嗣要湏因物爲名請爲皇后次妃建立屯倉之地使留後代令顯前迹詔曰可矣宜早安置大伴大連金村奏稱宜以小墾田屯倉與毎國田部給貺紗手媛以櫻井屯倉與毎國田部給賜香香有媛以難波屯倉與毎郡钁丁給貺宅媛以示於後式觀乎昔詔曰依奏施行閏十二月己卯朔壬午行幸於三嶋大伴大連金村從焉天皇使大伴大連問良田於縣主飯粒縣主飯粒慶悅無限謹敬盡誠仍奉獻上御野下御野上桑原下桑原幷竹村之地元合肆拾町大伴大連奉勅宣曰率土之下莫匪王封普天之上莫匪王域故元(先)天皇建顯號垂鴻名廣大配乎乾坤光華象乎日月長駕遠撫横逸乎都外瑩鏡區域死(充)塞乎無垠上冠九垓旁濟八表制禮以告成功作樂以彰治定福應允致祥慶符合於往歲矣今汝味張率土幽微百姓忽爾奉惜王地輕背使乎宣旨味張自今以後勿預郡司於是縣主飯粒喜懼交懷廼以其子鳥樹獻大連爲僮竪焉於是大河內直味張恐畏求悔伏地汗流啓大連曰愚蒙百姓罪當萬死伏願毎郡以钁丁春時五百丁秋時五百丁奉獻天皇子孫不絶藉此祈生永爲鑒戒別以狹井田六町賂大伴大連蓋三嶋竹村屯倉者以河內縣部曲爲田部之元於是乎起
【冬十月の朔が庚戌の甲子の日に、天皇は、大伴の大連の金村に「私は、四人の妻を迎え入れて、今になるまで跡継ぎがいない。長い年月の後に私の名は忘れ去られてしまう。大伴の伯父よ、何か方策が無いかいつも考えているが、心配しても何ともならない」と詔勅した。大伴の大連の金村は、「私もまた私たちの国を治める王のことを憂慮しているところです。天下は、後継者の有り無しを問わず、名を残す物が無くてはなりません。お願いですから皇后や次妃の為に、屯倉の地を建立して、後代に名を留めて、前代からの足跡を残しましょう」と奏上した。「解った。すみやかに置きなさい」と詔勅した。大伴の大連の金村は、詔勅を聞いて「小墾田の屯倉と国ごとの田部とを、紗手媛にあてがいなさい。櫻井の屯倉と国ごとの田部とを、香香有媛にあてがった。難波の屯倉と郡ごとの耕作にあたる者を、宅媛にあてがった。これで後代に示して昔に存在したことが解るようにしなさい」と言って宣下した。「言った通りに実行しなさい」と詔勅した。閏十二月の朔が己卯の壬午の日に、三嶋に行幸した。大伴の大連の金村が従った。天皇は、大伴の大連を使者として、良田を縣主の飯粒に聞いた。縣主の飯粒は、よろこばしいことこの上なかったので謹で敬い誠意を尽くした。それで上の御野・下の御野・上の桑原・下の桑原併せて竹村の地を全て合わせて肆拾町を奉献した。大伴の大連が詔勅を聞いて、「国家の辺地と言っても、王が与えた領地だ。天がおおう限りの土地の上は、全て王の領域だ。それで、先の天皇は、帝号を建元して名声を教え示して、広く大きく天地に行き届き、美しく光って日月のようだ。長く馬に乗って遠くまでいたわり、都の外を思うように領域を明るく照らし、果てしなく満ちおおうた。上は天地のはて(垓は京の1万倍:兆・京・垓・・・)から広く全世界に行きわたる。きまりを取り決めて仕事をするように言いつけて、楽しみを創ったので世が落ち着いたのはあきらかだ。幸せを求める声に十分こたえたので、年をとっても、よろこびめでたいことと対応する。今、味張よお前は、辺地のもの静かな名も無いような百姓だ。それなのに急に、王の土地を献上するのを惜しんで、使者の宣下の内容を侮って叛いた。味張は、今より後、郡司の任ではない」と宣下した。それで縣主の飯粒は、心から喜び畏まって、それでその子の鳥樹を大連に献上して、下僕の小僧とした。それで、大河内の直の味張は、おそれ かしこしこまるって後悔して、地面に土下座して考え直すよう訴えた。大連に「おろかで道理がわからない百姓の罪は萬死に値する。土下座してお願いします。郡ごとに、田地の耕作者を春耕す時に男子五百人、秋耕す時に男子五百人を、天皇に奉献して、子孫が絶えないようにしてください。これで命を助けて貰えれば、ずっと戒めとします」と申しひらきした。それとは別に狹井田の六町を、大伴の大連に賄賂として贈った。思うに三嶋の竹村の屯倉に、河内の縣の私有民を以て耕作した者とすることの最初がこれである。】とあるが、十月庚戌朔は534年で標準陰暦と合致し、閏十二月己卯朔は535年1月2日で、534年12月は小の月で、大の月なら1月1日となり、計算では見かけ上の太陽の運行が一定でないため535年2月が閏月、そして、534年から535年は節気が晦日に計算され、また、閏月は大小の月で変化が大きく、江戸時代は閏月が藩毎でまちまちだった事実が有る。
天皇が大伴大連金村に「大伴伯父」と呼び掛けているが、天皇の伯父の大連は 物部の木蓮子大連で仁賢天皇の時の大連だが、目大連の子の物部荒山連と同世代と記述されているので、主語も対象者も異なるか、大伴大連が伯父である王、すなわち、葛城氏の神武東征で活躍した大伴氏を伯父で配下とする巨勢王朝の話であるかのどちらかである。
天皇建顯號」に帝号・漢風諡号を始めたと訳したが、それ以外でどのような名を特別に公表したか理解できず、文中に「繼體之君」と会話の部分に記述されているのだから、実際に使われていた可能性が高い。
そして、大河内縣主味張直は生きるか死ぬか、一家殲滅の危機にある人物が、大伴大連に賄賂を贈っただけで、宣化天皇の姻戚に出世し矛盾があるが、このことから、宣化天皇は物部王朝ではない法によって統治する別の王朝(武烈紀「長好刑理法令分明)の可能性が高く、摂津は後に物部守屋の領地となったのだから、この事件がきっかけで物部王朝の配下となったと考えられる。

2020年5月1日金曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第十八 安閑天皇1

 『日本書紀』慶長版は
勾大兄廣國押武金日天皇男大迹天皇長子也母曰目子媛是天皇爲人墻宇凝嵈(?)不可得窺桓桓寛大有人君之量二十五年春二月辛丑朔丁未男大迹天皇立大兄爲天皇即日男大迹天皇崩是月以大伴大連物部麁鹿火大連爲大連並如故元年春正月遷都于大倭國勾金橋因爲宮號三月癸未朔戊子有司爲天皇納采億計天皇女春日山田皇女爲皇后別立三妃立許勢男人大臣女紗手媛紗手媛弟香香有媛物部木蓮子大蓮女宅媛夏四月癸丑朔內膳卿膳臣大麻呂奉勅遣使求珠伊甚伊甚國造等詣京遲晩踰時不進膳臣大麻呂大怒收縛國造等推問所由國造稚子直等恐懼逃匿後宮內寢春日皇后不知直入驚駭而顚慚愧無已稚子直等兼坐闌入罪當科重謹專爲皇后獻伊甚屯倉請贖闌入之罪因定伊甚屯倉今分爲郡属上總國五月百濟遣下部脩德嫡德孫上部都德巳州已婁等來貢常調別上表秋七月辛巳朔詔曰皇后雖體同天子而內外之名殊隔亦可以死(?)屯倉之地式樹椒庭後代遺迹逎差勅使簡擇良田勅使奉勅宣於大河內直味張曰今汝宜奉進膏腴雌雉田味張忽然恡惜欺誑勅使曰此田者天旱難漑水潦易浸費功極多收獲甚少勅使依言服命無隱
【勾大兄廣國押武金日天皇は、男大迹天皇の長子だ。母を目子媛という。この天皇の人と為りは、屋根や垣根が急な山の様に思えるほど窺い知れず、強くいさましくて度量が大きくて、人々の君主としての器量が有った。二十五年の春二月の朔が辛丑の丁未の日に、男大迹天皇が、大兄を天皇に即位させた。その日に、男大迹天皇が崩じた。この月に、大伴の大連をと、物部の麁鹿火の大連を大連としたのは共に以前の通りだ。元年の春正月に、都を大倭國の勾の金橋に遷し宮とした。三月の朔が癸未の戊子の日に、役人が、天皇の為に、億計天皇の娘の春日の山田皇女と結納を取り交わし皇后とした。別に三人の妃を立てた。許勢の男人大臣の娘の紗手媛、紗手媛の妹の香香有媛、物部の木蓮子の大連の娘の宅媛を立てた。夏四月の癸丑が朔の日に、内膳卿の膳の臣の大麻呂が、詔勅を受けて、使者を派遣して珠を伊甚で探した。伊甚の国造達は、京に遣ってくるのが遅すぎて、期限を超えるまで献上出来なかった。膳の臣の大麻呂は、とても怒って、国造等達閉じ込めて縛り上げて、どうして遅れたかを問いただした。国造の稚子の直達が、 おそれかしこまって、後宮の寝床まで逃げてきて隠れた。春日皇后は、すぐに状況を把握できず、驚いてみだれてひっくり返ってしまった。深く恥じることはやむを得なかった。稚子の直達は、もう一つの許可なくむやみにはいり込む罪を追加されて、重罪に当たった。それで、謹んで皇后だけのために、伊甚の屯倉を献上して、むやみにはいり込んだ罪を償わせてほしいと言った。それで伊甚の屯倉を定めた。今は分割して郡とし、上総国に所属させた。五月に、百済が、下部の脩徳と嫡徳孫と上部の都徳己州己婁達を派遣して、やって来ていつもの年貢を貢上した。その他に上表文も提出した。秋七月の辛巳が朔の日に、「皇后が、天子と同体と言っても、内々の呼び名と公の名は著しく隔たっている。また屯倉の地を充ててそれを皇后の宮にして後世に残すべきだ」と詔勅した。それで、勅使に指示して、良田を選び出した。勅使は、詔勅を受けて、大河内の直の味張に「今すぐお前は雉が良く育つ田を奉献しなさい」と宣下した。味張は、急に物惜しみして、勅使を「この田は、恵みの雨を注ぎ込むのが難しくて、雨水がすぐにしみこんでしまう。いくらたくさん働いても、収穫はとても少ない」とあざむきたぶらかした。勅使は、言葉のまゝ何も隠さないで復命した。】とあり、二十五年春二月辛丑朔は531年1月30日で1月が小の月なら合致し、三月癸未朔は534年3月1日、四月癸丑朔も534年4月1日、七月辛巳朔は534年6月30日で6月が小の月なら7月1日となって、ここでも継体天皇の崩御日に矛盾が出来てしまっている。
2月に即位した天皇が1月に都を遷せるわけがなく、しかも、年が異なり、他の王の内容が混入していることがよく解り、『舊事本紀』もまったく同じで、無批判に同じ資料を写し取っている証拠となっていて、検証していればどちらかが間違いを指摘している。
いままで、あまり書かれなかった皇位継承の方法を記述しているが、その意味は、長男ならこの記述は必要なく、531年に「日本天皇及太子皇子倶崩薨」と巨勢王朝の天皇と皇太子と皇子の多くが崩薨し、皇太子の長男が男人で20歳に達していなかったので生き残った皇子の一人が天皇に即位して男人が皇太子すなわち大臣になったのではないかと私は考えている。
大臣は天皇の家系でもなく、皇后も天皇の家系でない人物が王朝を奪取した人物、もしくは、天皇の後継者が皇位を他王朝に奪取された人物が呼ばれる称号で、天皇の家系でなかった武内宿禰は皇后に尾張王朝の八坂入媛を皇后に迎えて応神天皇となり、葛城王朝が始まり、葛城王朝は圓大臣で終焉し、武内宿禰の子で物部王朝の八田皇女を迎えて平郡王朝が始まり、鮪で終焉し、葛城氏の荑媛の孫の巨勢王朝が始まり、男人大臣で終焉したのである。