2019年10月16日水曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第九 神功皇后1

  『日本書紀』は慶長版
氣長足姫尊稚日本根子彥大日日天皇之曾孫氣長宿祢王之女也母曰葛城髙顙媛足仲彥天皇二年立爲皇后幼而聰明叡智貌容壯麗父王異焉九年春二月足仲彥天皇崩於筑紫橿日宮時皇后傷天皇不從神教而早崩以爲知所崇之神欲求財寶國是以命群臣及百寮以解罪改過更造齋宮於小山田邑三月壬申朔皇后選吉日入齋宮親爲神主則命武內宿祢令撫琴喚中臣烏賊津使主爲審神者因以千繒髙繒置琴頭尾而請曰先日教天皇者誰神也願欲知其名逮于七日七夜乃荅曰神風伊勢國之百傳度逢縣之拆鈴五十鈴宮所居神名撞賢木嚴之御?()天疎向津媛命焉亦問之除是神有神乎荅曰幡荻穗出吾也於尾田吾田節之淡郡所居之有也問亦有耶荅曰於天事代於虛事代玉籤入彥嚴之事代神有之也問亦有耶荅曰有無之不知焉於是審神者曰今不荅而更後有言乎則對曰於日向國橘小門之水底所底而水葉稚之出居神名表筒男中筒男底筒男神之有也問亦有耶荅曰有無之不知焉遂不言旦有神矣時得神語隨教而祭然後遣吉備臣祖鴨別令擊熊襲國未經浹辰而自服焉且荷持田村有羽白熊鷲者其爲人強健亦身有翼能飛以髙翔是以不從皇命毎略盜人民戊子皇后欲擊熊鷲而自橿日宮遷于松峽宮時飄風忽起御笠墮風故時人号其處曰御笠也辛卯至層増岐野即舉兵擊羽白熊鷲而滅之謂左右曰取得熊鷲我心則安故号其處曰安也丙申轉至山門縣則誅土蜘蛛田油津媛時田油津媛兄夏羽興軍而迎來然聞其妹被誅而逃之
【気長足姫尊は、稚日本根子彦大日日天皇の曽孫で、気長宿禰王の娘だ。母は葛城高顙媛という。足仲彦天皇の二年に、皇后となった。幼いころからかしこく深く道理を知り、顔だちは立派で美しい。父王は、特にえこひいきした。九年の春二月に、足仲彦天皇は、筑紫の橿日宮で崩じた。その時に皇后は、天皇が神の教えに従わないまま早死にしたことを傷んで、祟った神の思し召しを知って宝の国を求めようとした。それで、群臣および役人に命じて、前王の罪を知り過を改めて、さらに齋宮を小山田邑に造った。三月の壬申の朔に、皇后は、吉日を選んで、齋宮に入って、みずから神主となって。それで武内宿禰に命じて琴をひかせた。中臣烏賊津使主を呼び出して、皇后のお告げを解釈する審神者にした。それで、多くの長い幣の束を琴の左右に敷いて「さきの日に天皇に教えたのはどの神か。できたらその名を教えてほしい」と願い求めた。七日七夜に経って、「神風と形容する伊勢国の百傳と形容する度逢縣の拆鈴の五十鈴の宮にいる神で、は撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命だ」と答えた。亦、「この神を除いて他に神はいるのか」と問いかけた。「萩色の旗の間から出てきた私は、尾田の吾田節の淡の郡にいる神である」と答えた。「他にいますか」と問いかけた。「天事代虚事代の玉籤入彦嚴之事代神がいる」と答えた。「他にいますか」と問いかけた。「他に有るか無いか知らない」と答えた。それで、審神者が「今、答えず後でお告げをすることが有るか」と言った。それで、「日向国の橘小門の水底にいて、水中葉の芽が出たように生き生きとしている神で、名は表筒男・中筒男・底筒男の神がいる」と答えた。「ほかにいますか」と問いかけた。「いるかいないか知らない」と答えた。とうとう他の神を言わなかった。その時に神の言葉を得て、教どうりに祭った。その後で、吉備臣の祖で鴨別を派遣して、熊襲国を撃った。まだ干支が一回りもしないうちに、自分から服従した。また荷持田村に、羽白熊鷲という者がいる。その人柄は、強靭で強力だ。また身に翼があるように、身軽に山へ駆けあがる。それで、皇命に従わない。いつも人民を略奪する。戊子の日に、皇后は、熊鷲を撃とうと思って、橿日宮から松峽の宮に遷った。その時に、飄風が急に起こって、笠が吹き飛んだ。それで、当時の人は、そこを御笠となづけた。辛卯の日に、層増岐野に着いて、挙兵して羽白熊鷲を撃ち滅ぼした。近習に「熊鷲を滅ぼすことが出来た。私の心は安泰だ」と言った。それで、そこを安となづけた。丙申の日に、移って山門縣に着いて、それで土蜘蛛田油津媛を誅殺した。その時に田油津媛の兄の夏羽が、挙兵して迎え撃ってきた。しかしその妹が誅殺されたことを聞いて逃げた。】とあり、標準陰暦と合致する。
息長氏は『古事記』に「近淡海之御上祝以伊都玖天之御影神之女息長水依比賣生子丹波比古多多須美知能宇斯王」と近江の出身で続けて、「此美知能宇斯王之弟水穂真若王者(近淡海之安直之祖)次神大根王者次山代之大箇木真若王娶同母弟伊理泥王之女母泥(丹波)能阿治佐波毗賣生子迦迩來()雷王此王娶丹波之遠津臣之女名高材比賣生子息長宿祢王此王娶葛城之高額比賣生子息長帯比賣命」と近江・山代・丹波の地域に姻戚をもつ王家で敦賀に皇后が滞在した理由がここにあり、元々敦賀の宮に住んでいた可能性が高く、すなわち、近江の物部王朝が崩壊し、葛城王家を頼ったのが息長王家なのだろう。
地名説話の「安」も水穂真若王が尾張天皇から任命された地が近江の安国で、その説話を流用したもので、熊襲征伐は倭奴国の女王の説話で、『三国志』に「卑彌呼事鬼道能惑衆」と直接神のお告げを指示した女王と合致し、糟屋郡の猪野皇大神宮のそばに山田があり、斎宮跡が残っている。
また、「南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」と南に敵国の狗奴國があって、その最前線の砦が三笠山で、敵の本拠地が筑紫野市の夜須でその南に侏儒で「侏儒國在其南人長三四尺」と身長70cm程度の人々の国が柳川市近辺にあり、景行十八年年の巡行で大牟田市周辺の御木、八女市の水沼縣、浮羽を回ったが、その北側である。
ただし、この熊襲征伐はおそらく台与の即位前の説話で『三国志』の「立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定」で、西暦251年のことと考えられ、「千繒髙繒」も『三国志』の「賜汝紺地句文錦三匹細班華( ケイ)五張白絹五十匹」と、たくさんの絹を得ている。

2019年10月14日月曜日

最終兵器の目 仲哀天皇4

  『日本書紀』慶長版は
己亥到儺縣因以居橿日宮秋九月乙亥朔己卯詔群臣以議討熊襲時有神託皇后而誨曰天皇何憂熊襲之不服是膂之空國也豈足舉兵伐乎愈茲國而有寶國譬如美女之睩有向津國眼炎之金銀彩色多在其國是謂𣑥衾新羅國焉若能祭吾者則曾不血刃其國必自服矣復熊襲爲服其祭之以天皇之御舩及穴門直踐立所獻之水田名大田是等物爲幣也天皇聞神言有疑之情便登髙岳遙望之大海曠遠而不見國於是天皇對神曰朕周望之有海無國豈於大虛有國乎誰神徒誘朕復我皇祖諸天皇等盡祭神祇豈有遺神耶時神亦託皇后曰如天津水影押伏而我所見國何謂無國以誹謗我言其汝王之如此言而遂不信者汝不得其國唯今皇后始之有胎其子有獲焉然天皇猶不信以強擊熊襲不得勝而還之九年春二月癸卯朔丁未天皇忽有痛身而明日崩於是皇后及大臣武內宿祢匿天皇之喪不令知天下則皇后詔大臣及中臣烏賊津連大三輪大友主君物部膽咋連大伴武以連曰今天下未知天皇之崩若百姓知之有懈怠乎則命四大夫領百寮令守宮中竊收天皇之屍付武內宿祢以從海路遷穴門而殯于豊浦宮爲无火殯斂甲子大臣武內宿祢自穴門
還之復奏於皇后是年由新羅役以不得葬天皇也
【己亥の日に、儺縣に着いて、橿日宮にいた。秋九月の朔が乙亥の己卯の日に、役人に詔勅して、熊襲を討とうと話し合った。その時に、神が、皇后にお告げで「天皇よ、どうして熊襲が服従しないことを憂えるのだ。これは、背中の肉のように何もない国だ。挙兵して討つに足る国なのか。この国よりたくさん宝物が有る国、たとえば美女がじっと見るように、対岸の港がある国だ。目が金銀で燃えるように彩るように多くある国だ。これを栲衾の白の新羅の国という。もししっかりと私を祭れば、血を流さないで、其の国はきっと自分から服従するだろう。また、熊襲も服従する。その祭る方法は、天皇の船と穴門の直が受け継いで献上する水田、名なづけて大田というが、これらの物を神前に供えなさい」とさとした。天皇は、神の言葉を聞いて、疑心を持った。それで高い岳に登って、遥か大海を望んだが、広くて遠く国が見えなかった。それで、天皇は、神に「私が見回したけれど、海だけで国は無かった。どうして何もないところに国が有るのか。どの神がいたずらに私をあざむくのか。また、私の皇祖や諸天皇たちが、全て残らず神祇を祭った。どこに、残った神が有るのか」と答えた。その時、神がまた皇后に取りついて「天の津の水影のように、ねじ伏せて見せた国をどうして国が無いと言って、私のことを誹謗するのか。それはお前がそのように言って信じなければ、お前は、その国を得ることが出来ない。ただし、今、皇后が始めて妊娠した。その子が獲るだろう」と言った。しかし、天皇は、それでも信じず、強引に熊襲を撃った。勝つことが出来ずに戻った。九年の春二月の朔が癸卯の丁未の日に、天皇は、体を傷めて、明日に、崩じた。皇后と大臣の武内の宿禰が、天皇の死を隠して、天下に知らしめなかった。それで皇后は、大臣と中臣の烏賊津の連・大三輪の大友の主君・物部の膽咋の連・大伴の武以の連に「今、天下はまだ天皇が崩じたことを知らない。もし百姓が知ったら、なまけるだろう」と詔勅した。すなわち四人の高官に命じて、役人に命令して、宮中を守らせた。ひそかに天皇の屍を棺に收めて、武内の宿禰に任せて、海路で穴門に遷した。それで豊浦宮にかりにもがりして、火葬しないで死者のなきがらをおさめた。甲子の日に、大臣の武内の宿禰が、穴門から還って、皇后に復命した。この年、新羅の役によって、天皇を葬むることが出来なかった。】とあり、標準陰暦と合致する。
この説話は2つの豊浦宮にいる王と香椎宮を首都にする王の説話で、夏磯姫のたちの説話としては当然新羅を知らないはずが無く、この当時の倭奴国は新羅を別の名で呼んでいて、那の津の対岸は『三国志』でも「狗邪韓國」、新羅は「辰韓」と呼んでいて、新羅の対岸にある国は出雲より東の国である。
ところが、この出雲から東の国は新羅の宗主国で討伐する必要がなく、日槍のように人質として朝廷に赴いていて、逆に守るべき国なので、この新羅を討とうとする王は『後漢書』の「女王國東度海千餘里至拘奴國」や倭奴国で、しかし、拘奴国は新羅を守ろうとする大国によって攻撃されることになり、『三国史記』で攻撃してくる国は倭国である。
すなわち、香椎宮が倭奴国の首都で拘奴国の首都が豊浦宮の『後漢書』の世界、神功皇后たちは周防からの攻撃で、拘奴国の中の王の熊鰐が拘奴国を裏切って豊浦に案内した後の話で、『三国志』の世界で、香椎宮に伝仲哀天皇陵があるが、『日本書紀』が豊浦に遺体を持ち帰っていて、仲哀天皇陵では有り得ない。
そして、北を見ても新羅が無いと言った王は「周芳娑麼」から出撃して京都郡に都を持ち、拘奴国すなわち熊襲の一部を押しやって紀伊まですなわち瀬戸内を制覇した王が穴門に宮を置いて新羅をはじめて攻撃しようとしていた4世紀中の説話である。

2019年10月11日金曜日

最終兵器の目 仲哀天皇3

 『日本書紀』慶長版は
「八年春正月己卯朔壬午幸筑紫時岡縣主祖熊鰐聞天皇車駕豫拔取百枝賢木以立九尋舩之舳而上枝掛白銅鏡中枝掛十握剱下枝掛八尺瓊參迎于周芳沙麼之浦而獻魚鹽地因以奏言自穴門至向津野大濟爲東門以名籠屋大濟爲西門限設利嶋阿閇嶋爲御筥割柴嶋爲御甂以逆見海爲塩地既而導海路自山鹿岬𢌞之入岡浦到水門御舩不得進則問熊鰐曰朕聞汝熊鰐者有明心以參來何舩不進熊鰐奏之曰御舩所以不得進者非臣罪是浦口有男女二神男神曰大倉主女
神曰菟夫羅媛必是神之心歟天皇則禱祈之以挾杪者倭國菟田人伊賀彥爲祝令祭則舩得進皇后別舩自洞海入之潮涸不得進時熊鰐更還之自洞奉迎皇后則見御舩不進惶懼之忽作魚沼鳥池悉聚魚鳥皇后看是魚鳥之遊而忿心稍解及潮滿即泊于岡津又筑紫伊覩縣主祖五十迹手聞天皇之行拔取五百枝賢木立于舩之舳艫上枝掛八尺瓊中枝掛白銅鏡下枝掛十握剱參迎于穴門引嶋而獻之因以奏言臣敢所以獻是物者天皇如八尺瓊之勾以曲妙御宇且如白銅鏡以分明
看行山川海原乃提是十握剱平天下矣天皇即美五十迹手曰伊蘇志故時人號五十迹手之本土曰伊蘇國今謂伊覩者訛也
【八年の春正月の朔が己卯の壬午の日に、筑紫に行幸した。その時に、岡の縣主の祖の熊鰐が、天皇の車駕がやってきたことを聞きあらかじめ、百くらいの葉がある枝の賢木を抜き取って、10mくらいの船の舳に立てて、上の枝には白銅鏡を掛け、中間の枝には十握剱を掛け、下の枝には八尺瓊を掛けて、周芳の沙麼の浦に参上して迎え、魚塩の地を献上した。それで「穴門から向津野の大渡までを東の門とし、名篭屋の大渡を西の門とした。沒利の嶋・阿閉の嶋を境界にした領域とし、柴嶋を分割して区切りとした。逆見の海を塩地とした」と奏上した。すぐに海路先導して仕えた。山鹿の岬から廻って岡浦に入った。水門に着いたが、船を進めることが出来なかった。それで熊鰐「私は聞いたが熊鰐お前は、見るからに立派な気持ちで先導しようとやってきたがどうして船が進まないのだ」と問い詰めた。熊鰐は「船が進むことが出来ないのは私の罪ではありません。この浦の入り口に、男女の二王がいます。男王を大倉主という。女王を菟夫羅媛という。きっと是の王のためだ」と奏上した。天皇は、それで祈祷して、梶取を倭國の菟田の人で伊賀彦を長として祭らせた。それで船を進めることが出来た。皇后は、別の船で、洞の海から入った。潮が引いて進めなかった。その時熊鰐が、帰って来て、洞から皇后を迎にやってきた。それで船が進まないことを見て、びくびくと恐れて、すぐに魚沼と鳥池を作って、のこらず魚や鳥を集めた。皇后は、この魚や鳥が遊んでいるのを見て、怒りがやっと解けた。潮が満ちて、岡の津に停泊した。また、筑紫の伊覩の縣主の祖の五十迹手は、天皇がやってきたことを聞いて、五百位の葉が枝にある賢木を抜き取って、船の 舳先に立てて、上の枝に八尺瓊を掛け、中間の枝に白銅鏡を掛け、下の枝に十握剱を掛けて、穴門の引嶋に迎えにやってきて献上した。それで「わたしは、あえてこれを献上する理由は、天皇が、八尺瓊が曲がって尖ったように、この上なく巧みに天下を統治してほしい。また、白銅鏡のように、はっきり見きわめて山川海原を見守り、すなわちこの十握剱を提げて、天下を平定してほしいという意味だ」と奏上した。天皇は、すなわち五十迹手を誉めて、「伊蘇の心意気」といった。それで、その当時の人は、五十迹手の里を、伊蘇国となづけたという。今、伊覩というのは訛ったものだ。】とあり、標準陰暦と合致する。
この説話は京都郡侵攻の、景行天皇十二年の「八月乙未朔己酉幸筑紫九月甲子朔戊辰到周芳娑麼時天皇南望之詔羣卿曰於南方烟氣多起」と周芳からの進撃そのものだが、敵国は穴門から松浦の名護屋までと倭奴国以前の説話が混じり、『三国志』は「東南陸行五百里到伊都國」と卑弥呼の時代はこの記述の時代の呼び方の伊都で、少なくとも魏時代より前の話で伊蘇と呼ばれた時代の話だ。
そのため、筑紫全体を紫島と呼んで、それを分割したと言っているのだから、神話時代の三身国のころの話の可能性があり、景行天皇十二年の戦いのあと火国と熊襲国を分割している。
「百枝賢木」を「百の葉を枝に付けた」と訳したが沢山の意味なら五百と百を使い分ける必要がないし、おそらく、たくさんの単位が百で、百万はもっとたくさんの意味で、八は国の名だったので、五も国の名で伊都→五十と考えられ、八尺も八国の20cmの鏡、九尋舩は1尺約20cm弱で1尋が6尺で10m程度の船として、雄略天皇より前の『日本書紀』は周朝の単位と考えるべきだとした。
ここで、阿閉嶋は赤人の歌の「阿倍の島鵜の住む礒に寄する波間なくこのころ大和し思ほゆ」と阿倍の島が枕詞としているが、『日本書紀』のここが大本なのではないだろうか。

2019年10月9日水曜日

最終兵器の目 仲哀天皇2

  『日本書紀』慶長版は
二年春正月甲寅朔甲子立氣長足姫尊爲皇后先是娶叔父彥人大兄之女大中姫爲妃生麛坂皇子忍熊皇子次娶來熊田造祖大酒主之女弟媛生譽屋別皇子二月癸未朔戊子幸角鹿即興行宮而居之是謂笥飯宮即月定淡路屯倉三月癸丑朔丁卯天皇巡狩南國於是留皇后及百寮而從駕二三卿大夫及官人數百而輕行之至紀伊國而居于德勒津宮是時熊襲叛之不朝貢天皇於是將討熊襲國則自德勒津發之浮海而幸穴門即日使遣角鹿勅皇后曰便從其津發之逢於穴門夏六月辛巳朔庚寅天皇泊于豊浦津且皇后從角鹿發而行之到渟田門食於舩上時海鯽魚多聚舩
傍皇后以酒灑鯽魚鯽魚即醉而浮之時海人多獲其魚而歡曰聖王所賞之魚焉故其處之魚至于六月常傾浮如醉其是之縁也秋七月辛亥朔乙卯皇后泊豊浦津是日皇后得如意珠於海中九月興宮室于穴門而居之是謂穴門豊浦宮
【二年の春正月の朔が甲寅の甲子の日に、氣長足姫尊を皇后に立てた。これより前に、叔父の彦人大兄のが娘の大中姫を娶って妃とした。麛坂皇子と忍熊皇子を生んだ。次に來熊田の造の祖の大酒主の娘の弟媛を娶って、譽屋別皇子を生んだ。二月の朔が癸未の戊子の日に、角鹿に行幸し、それで行宮を興して腰をおちつけていた。これを笥飯の宮という。その月に、淡路の屯倉を定めた。三月の朔が癸丑の丁卯の日に、天皇は、南国を巡回した。ここに、皇后および役人を留めて、駕に従う二・三人の高官と官僚数百人で、簡単な視察に出かけた。紀伊の国について、徳勒津の宮に腰を落ち着けた。この時に、熊襲が、約束を破って朝貢しなかった。天皇は、熊襲の国を討とうとした。それで徳勒津を出発して、船で穴門に行幸した。その日に、使者を角鹿に派遣して、皇后に「すぐにその津を出発して、穴門で逢おう」と詔勅した。夏六月の朔が辛巳の庚寅の日に、天皇は、豊浦の津に停泊した。また、皇后は、角鹿から出港して、渟田の門に着き、船上で食事をした。その時に、海の魚がたくさん船のそばに集った。皇后は、酒を海の魚に注いだ。海の魚は、そのため酔って浮かんだ。その時に、海人は、たくさんその魚を獲ることが出来て喜んで、「聖王から贈られた魚だ」と言った。それで、そこの魚が、六月になると、いつも酔ったように横向き浮ぶのはこれが由来だ。秋七月の朔が辛亥の乙卯の日に、皇后は、豊浦の津に停泊した。この日に、皇后は、如意の珠を黄海で獲た。九月に、宮室を穴門に建てて腰を落ち着けた。これを穴門の豊浦の宮という。】とあり、二月癸未朔は1月30日で1月が小の月なら合致し、その他は標準陰暦と合致する。
『古事記』は「大江王之女大中津比賣命生御子香坂王忍熊王」と兄王の意味ではなく音が重要なようで、同じく『古事記』に「之女名針間之伊那毗能大郎女・・・伊那毗能大郎女之弟伊那毗能若郎女生御子真若王次日子人之大兄王又娶倭建命之曽孫名須賣伊呂大中日子王之女訶具漏比賣生御子大枝王」、『日本書紀』は播磨王の娘の子の大兄王としているが姫の名前と『古事記』が大江王とすることと、妃の名前が大中津比賣で大中日子王に近いので、大国と「なか国」の王の姫の可能性があり、娘婿が足仲彦と「なか国」を統治する王とよく合う。
さらに、大中姫は「皇后日葉酢媛命生・・・第三曰大中姫命」と垂仁天皇の姫だが、垂仁天皇も37年から景行・成務朝と重なり大足・若足と同年代の人物で、この大中姫の可能性もある。
すなわち、仲哀天皇も2王以上の人物が記述されている可能性が高く、角鹿に行幸してどうして首都を南国と言い、本隊をわざわざ外地に置いて首都方面を巡行して紀伊に行くのは理に適わず、方向性として、角鹿より西に都を持ち、南国は瀬戸内方面で近江→大和→紀伊などの国々が南国で全軍で移動できない遠慮した、どちらかというと、貢献や挨拶の旅に感じる。
そして、対熊襲の戦いの前線基地が穴門で、やはり、京都郡への攻撃と符合し、景行天皇十二年の「八月乙未朔己酉幸筑紫九月甲子朔戊辰到周芳娑麼時天皇南望之詔羣卿曰於南方烟氣多起」と周芳を出発した先遣部隊に追いついた記述と考えられる。

2019年10月7日月曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第八 仲哀天皇1

 『日本書紀』慶長版は
足仲彥天皇日本武尊第二子也母皇后曰兩道入姫命活目入彥五十狹茅天皇之女也天皇容姿端正身長十尺稚足彥天皇四十八年立爲太子稚足彥天皇無男故立爲嗣六十年天皇崩明年秋九月壬辰朔丁酉葬于倭國狹城盾列陵元年春正月庚寅朔庚子太子即天皇位秋九月丙戌朔尊母皇后曰皇太后冬十一月乙酉朔詔群臣曰朕未逮于弱冠而父王既崩之乃神靈化白鳥上天仰望之情一日勿息是以冀獲白鳥養之於陵域之池因以覩其鳥欲慰顧情則令諸國俾貢白鳥閏十一月乙卯朔戊午越國貢白鳥四隻於是送鳥使人宿菟道河邊時蘆髮蒲見別王視其白鳥而問之曰何處將去白鳥也越人荅曰天皇戀父王而將養狎故貢之則蒲見別王謂越人曰雖白鳥而燒之則爲黑鳥仍強之奪白鳥而將去爰越人參赴之請焉天皇於是惡蒲見別王无禮於先王乃遣兵卒而誅矣蒲見別王則天皇之異母弟也時人曰父是天也兄亦君也其慢天違君何得兔誅耶是年也太歲壬申
【足仲彦天皇は、日本武尊の第二子だ。母の皇后を兩道入姫命という。活目入彦五十狹茅天皇の娘だ。天皇は、姿・形や動作などが端正できちんとしていた。身長は十尺あった。稚足彦天皇の四十八年に太子に立った。稚足彦天皇は男子が無く、それで皇太子を立てて後継とした。六十年に、天皇が崩じた。翌年の秋九月の朔が壬辰の丁酉の日に、倭国の狹城の盾列の陵に葬った。元年の春正月の朔が庚寅の庚子の日に、太子は、天皇に即位した。秋九月の丙戌の朔に、母の皇后を尊んで皇太后といった。冬十一月の乙酉の朔に、群臣に「私は、二十歳に届かないうちに、父の王が既に崩じていた。それで父の霊魂は、白鳥となって天に上った。あおぎのぞむ気持ちは一日として忘れなかった。それで、できたなら白鳥を捕まえて、陵域の池に養いたい。それで、その鳥を見ながら、思いめぐらす気持ちを慰めたい」と詔勅した。それで諸国に命じて、白鳥を献上させた。閏十一月の朔が乙卯の戊午の日に、越國が、白鳥四羽を献上した。その鳥を持って来た使者が、菟道河の辺に宿を取っていた。そのときに、蘆髮蒲見別王が、その白鳥を見て、「どこに持っていく白鳥だ」と問うと、越の人が「天皇が、父王を慕って、飼い馴らしたいというので献上します」と答えた。それで蒲見別王は、越の人に「白鳥といっても、焼いてしまえば黒鳥になる」といった。それで強引に白鳥を奪って、持ち去った。そこで越の人が、駆けつけて参上して報告した。天皇は、それで蒲見別王が、先王への無礼に怒って、派兵して誅殺した。蒲見別王は、天皇の異母弟だ。その当時の人は「父は天子だ。兄も王だ。その天子を侮り王にそむけば、どうして誅殺を免れることが出来るのだろうか」と言った。この年は、太歳壬申だ。】とあり、元年十一月乙酉朔は10月30日で11月は小の月、10月が小の月なら合い、他は標準陰暦と合致する。
『古事記』に「大國之淵之女弟苅羽田刀弁生御子石衝毗賣命亦名布多遅能伊理毗賣命」と足仲彦は大国の活目邑の主と大国の娘の弟苅羽田刀弁との子の布多遅能伊理毗賣と倭武との子、もちろん襲名で何代も経過しているが、足仲彦もやはり大国に移住した葛城氏の子孫である。
足仲彦は倭武死亡時の景行40年が20歳とすると景行51年立太子で31歳、69年後に100歳のとき即位、成務48年立太子が31なら43歳即位、52歳死亡で、倭武死亡は成務天皇の時、ここでも景行・成務は同時に王位にあったことを示して、どちらにしても立太子の時期は無関係で同時並行の宮の住人だったことを頭に置かなければならない。
これは、元々『日本書紀』も天皇の璽をもつ宮を中心に記述した紀伝体の史書で、それに、何人かの王を記述し、系図も仮想天皇にまとめ上げた史書に宮の記録を落とし込んで、史書を記述した王朝の王名を付加したものだから、王が前後したり、同じ人物が複数の王の時に記述されるのである。
また、身長十尺は唐の大尺が現在の曲尺29.63 cmだが身長3mの人間は考えられず、高句麗・高麗尺でもなく新井の唱える26.8cmの古韓尺説でもなく、戦国から漢代の23から24cmでもない、もっと小さい周尺でおそらく、20cmより短いもので無ければ、この天皇は化け物になってしまい、周朝からの交流がよくわかる。

2019年10月4日金曜日

最終兵器の目 成務天皇

  『日本書紀』慶長版は
稚足彥天皇大足彥忍代別天皇第四子也母后曰八坂入姫命八坂入彥皇子之女也大足彥天皇四十六年立爲太子年二十四六十年冬十一月大足彥天皇崩元年春正月甲申朔戊子皇太子即位是年也太歲辛未二年冬十一月癸酉朔壬午葬大足彥天皇於倭國之山邊道上陵尊皇后曰皇太后三年春正月癸酉朔己卯以武內宿祢爲大臣也初天皇與武內宿祢同日生之故有異寵焉
四年春二月丙寅朔詔之曰我先皇大足彥天皇聰明神武膺籙受圖洽天順人撥賊反正德侔覆燾道協造化是以普天率土莫不王臣稟氣懷靈何非得處今朕嗣踐寶祚夙夜兢惕然黎元蠢爾不悛野心是國郡無君長縣邑無首渠者焉自今以後國郡立長縣邑置首即取當國之幹了者任其國郡之首長是爲中區之蕃屏也五年秋九月令諸國以國郡立造長縣邑置稻置並賜楯矛以爲表則隔山河而分國縣隨阡陌以定邑里因以東西爲日縱南北爲日横山陽曰影面山陰曰背面是以百姓安居天下無事焉四十八年春三月庚辰朔立甥足仲彥爲皇太子六十年夏六月己巳朔己卯天皇崩時年一百七歲
【稚足彦天皇は、大足彦忍代別天皇の第四子だ。母の皇后を八坂入姫命という。八坂入彦皇子の娘だ。大足彦天皇の四十六年に、太子に立った。年齢は二十四歳だった。六十年の冬十一月に、大足彦天皇が崩じた。元年の春正月の朔が甲申の戊子の日に、皇太子は即位した。この年は太歳辛未だった。二年の冬十一月の朔が癸酉の壬午の日に、大足彦天皇を倭国の山邊の道の上の陵に葬った。皇后を尊んで皇太后といった。三年の春正月の朔が癸酉の己卯の日に、武内宿禰を大臣にした。初め、天皇と武内宿禰とが同じ日に生れたので、特に優遇した。四年の春二月の丙寅の朔に、「私の先皇の大足彦天皇は、理解が速くて賢く人知を越えてたけだけしく、家を継承し、記録を受け取った。天神の風習は広くゆきわたり、人々はそれに従って、賊をはねかえし、正道に復帰した。徳に従い、道を照らし、力をあわせて教え導いた。それで、天から地の果てまで(率土:詩經‧小雅‧北山「率土之濱莫非王臣」)行き渡り臣は王に従い身の引き締まる気持ちで神霊を心にいだくことで、得られない者が無かった。今、私は皇位の位を嗣いだ。朝早くから夜まで気が引き締まってのんびりできない。ところが、人民は虫がたかるように集まって騒ぎ、悪事を遠慮なく実行する。これは、国郡に王や長がいなくて、縣邑に頭が無いからだ。これから、国郡に長を立て、縣邑に頭を置こう。すなわち、強健で才知に秀でた者を採用して担当の国郡の首長に任命しなさい。それで、任地の防備に当たらせよう」と詔勅した。五年の秋九月に、諸國に命じて、国郡に造長を立て、縣邑に稻置を置いた。それとともに盾矛を与えてしるしとした。それで山河を境界に国縣を分け、千戸・百戸の単位で、邑里を定めた。それで東西を日縱として、南北を日横とした。山の陽が当たる斜面を影面という。山の日陰の面を背面という。これで、百姓は心やすらかに住め、天下も平穏無事だった。四十八年の春三月の庚辰の朔に、甥の足仲彦を皇太子に立てた。六十年の夏六月の朔が己巳の己卯の日に、天皇が崩じた。この時の年齢は百七歳だった】とあり、四年二月丙寅朔は1月30日、四十八年三月庚辰朔は2月30日で他は標準陰暦と合致する。
丹波道主王の宮から尾張大海媛の宮に政権が遷り、前王朝が皇位や記録を継承して、自分も皇位を受け継いだと、前政権の時に王朝交代したと述べ、尾張王朝が前政権から始まった。
そして、武内宿禰は前政権の時に誕生し、この王朝に当てはめた豊国王朝の天皇の皇太子に武内宿禰が就き、仁徳天皇五十年まで生きているが290歳などと言うのは当然考えられず、これは、神功皇后摂政五十一年と仲哀天皇九年と景行天皇五一年と仁徳天皇五十年が同じ時期の説話で、成務天皇三年、景行天皇三年も武内宿禰が大国王の皇太子と同じ日に生まれ、応神天皇九年頃に父王が死亡したことを意味していると思われる。
すなわち、葛城王朝の王は大足彦・若足彦・中足彦・大雀は同時期の王で、その後に譽田が位置する順で挿入したと考えることが出来る。
そして、国境を山や川で区切っているということは、『三国志』の国境間距離が不彌國邪馬台国間に無かったり、伊都国・奴国間や伊都国・不彌國間が5Km程度だったりと山巾などに近い国境間距離を証明し、しるしの楯矛も「兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭」と合致し、国縣を「阡陌以定」とこれも『三国志』の對海國→千餘戸、一大國→三千許家、末盧國→四千餘戸、伊都國→千餘戸、不彌國→千餘家と国の戸数は千から数千戸と邪馬台国や奴国などの大国を除くと良く合致し、下部組織の邑が百単位の戸数となるのは当然だ。
この天皇は、「景行天皇五一年立太子」を46年立太子と、24歳で立太子なのに、9数歳と記述の107歳と全く計算が合わないにも関わらず堂々と記述しているが、景行天皇も53歳即位の113歳が106歳と計算が合わず、私の言う、立太子は倭国の王家の記述で天皇に無関係で成務天皇の立太子が48年としたのは、景行天皇4年で46歳と応神天皇の立太子を加えた年数と成務天皇48年と混同した結果だ。
おそらく天皇の年齢は宮の築造年数の可能性が高く、高千穂の宮が『古事記』に「穂々手見命者坐高千穂宮伍佰捌拾歳」と580歳と同じ用法だ。
従って、私はこの立太子を卑弥呼のことと考え、201年24歳で卑弥呼が即位し、その時男弟王が21歳で248年死亡しその後251年まで男弟王が引き継いだがうまくいかなかったので、台与が『三国志』「宗女壹與年十三爲王國」と13歳で即位したのが前政権の即位3年で、子たちが倭国を継承し、『筑後國風土記逸文』の「令筑紫君等之祖甕依姬為祝祭之」と甕依媛説話で卑弥呼は独身で子がいないから台与のことで、子孫が後に筑紫君と言われた。
これらのことから、景行12年の熊襲遠征は「神夏磯媛」が卑弥呼なら212年の出来事ということになり、景行3年生まれの武内宿禰と卑弥呼が同い年ではないことがわかり、『古事記』に「娶穂積臣等之祖建忍山垂根之女名弟財郎女生御子和訶奴氣王」と若帯日子の子も若国の奴氣王で若国王も継承された。

2019年10月2日水曜日

最終兵器の目 景行天皇13

 『日本書紀』慶長版は
五十二年夏五月甲辰朔丁未皇后播磨太郎姫薨秋七月癸卯朔己酉立八坂入媛命爲皇后
五十三年秋八月丁卯朔天皇詔群卿曰朕顧愛子何日止乎冀欲巡狩小碓王所平之國是月乗輿幸伊勢轉入東海冬十月至上總國從海路渡淡水門是時聞覺賀鳥之聲欲見其鳥形尋而出海中仍得白蛤於是膳臣遠祖名磐鹿六鴈以蒲爲手繦白蛤爲膾而進之故美六鴈臣之功而賜膳大伴部十二月從東國還之居伊勢也是謂綺宮五十四年秋九月辛卯朔己酉自伊勢還於倭居纏向宮
五十五年春二月戊子朔壬辰以彥狹嶋王拜東山道十五國都督是豊城命之孫也然到春日穴咋邑臥病而薨之是時東國百姓悲其王不至竊盜王尸葬於上野國五十六年秋八月詔御諸別王曰汝父彥狹嶋王不得向任所而早薨故汝專領東國是以御諸別王承天皇命旦欲成父業則行治之早得善政時蝦夷騷動即舉兵而擊焉時蝦夷首帥足振邊大羽振邊遠津闇男邊等叩頭而來之頓首受罪盡獻其地因以免降者而誅不服是以東久之無事焉由是其子孫於今有東國五十七年秋九月造坂手池即竹蒔其堤上冬十月令諸國興田部屯倉五十八年春二月辛丑朔辛亥幸近江國居志賀三歲是謂髙穴穗宮六十年冬十一月乙酉朔辛卯天皇崩於髙穴穗宮時年一百六歲
【五十二年の夏五月の朔が甲辰の丁未の日に、皇后の播磨太郎姫が薨じた。秋七月の朔が癸卯の己酉の日に、八坂入媛命を皇后に立てた。五十三年の秋八月の丁卯の朔に、天皇は、群卿に「私が愛した子を顧みる思いはいつの日に止むのだろうか。小碓王が平定した国をどうしても巡回したい」と詔勅した。この月に、輿に乗って、伊勢を行幸して、東海に移った。冬十月に、上総国に、海路で淡水門を渡って着いた。この時に、鷹の鳴き声が聞こえた。その鳥の姿を見ようと思って、探し求めて海に出て途中の浜でオオハマグリが獲れた。そこに、膳臣の遠祖で、名は磐鹿六鴈が、ガマの葉に通して、オオハマグリをなますにして食べた。それで、六鴈臣の功績を褒めて、膳大伴部を与えた。十二月に、東国から還って、伊勢にいた。これを綺(かむはた)宮という。五十四年の秋九月の朔が辛卯の己酉の日に、伊勢から倭に還って纏向の宮にいた。五十五年の春二月の朔が戊子の壬辰の日に、彦狭嶋の王を、東山道の十五国の都督を授けた。これは豊城命の孫だ。それで春日の穴咋の邑に着いて、病に臥して薨じた。この時に、東国の百姓が、その王の到着しないことを悲んで、人知れず、王のなきがらを盜んで、上野国に葬った。五十六年の秋八月に、御諸別王に「おまえの父の彦狹嶋王は、任地に向うことが出来ずに早々と薨じた。それで、おまえの思うがまゝに東国をおさめるなさい」と詔勅した。それで、御諸別王は、天皇の命をうけ、ひとまず父の任務を行おうとした。それで任地に行って治めて、早々と善政を行った。その時に蝦夷が騒動を起こした。それで挙兵して討った。その時に蝦夷の将軍の足振邊・大羽振邊・遠津闇男邊達が、頭を地につけて土下座をして罪を受け入れ、全ての領地を献上した。それで、降伏した者は許し従わない者は誅殺した。これで、東方は長く何事もない。これで、その子孫は、今も東国にいる。五十七年の秋九月に、坂手の池を造った。すなわち竹をその堤防の上に植た。冬十月に、諸国に田部屯倉を興す命令を出した。五十八年の春二月の朔が辛丑の辛亥の日に、近江国に行幸して、志賀にいること三年で、これを高穴穗宮という。六十年の冬十一月の朔が乙酉の辛卯の日に、天皇が高穴穗宮で崩じた。その時、年齢は一百六歳だった。】とあり、五十四年九月辛卯朔は9月2日で8月は小の月なので大の月なら1日で、五十五年二月戊子朔は閏月があり計算では2月30日で翌月は閏2月で1月が閏月の可能性があり、近い年代で合致するのはここだけで、その他は標準陰暦と合致する。
皇后の交代は宮の交代で、髙穴穗宮が八坂入媛の宮ということになるが、6年のタイムラグがあり、播磨太郎姫は尾張王朝の皇后ではなかったので、八坂入媛の宮に政権が遷ったか纏向の政権が崩壊したということで伊勢の綺宮は伊勢遺跡の宮でそこから志賀の高穴穗宮に移ったのだろう。
景行天皇の義父の丹波主王は『古事記』に「娶近淡海之御上祝以伊都玖天之御影神之女息長水依比賣生子丹波比古多多須美知能宇斯王」と近江の皇子で「朝庭別王者(三川之穂別之祖)此美知能宇斯王之弟水穂真若王者(近淡海之安直之祖)次神大根王者(三野國之本巣國造長幡部連之祖)」と兄弟が三河の穂別王・近江の安王美濃の本巣国造後には三野国造の祖と記述し尾張近辺の王となっている。
そして、本牟智和氣と「率遊其御子之状者在於尾張之相津二俣椙作二俣小舟」のように遊んだのも墨俣、八坂入媛を娶ったのも美濃、『古事記』に「大中津日子命者・・・尾張國之三野別・・・落別王者・・・三川之衣君之祖」と子に尾張・美濃・三河の王がいる。
そして、『舊事本紀』には「八世孫倭得玉彦命亦云市大稲日命此命淡海國谷上刀婢爲妻生一男伊我臣祖大伊賀彦女大伊賀姫生四男」と弟彦の父親の倭得玉彦が近江王と伊賀王の娘を妃にして、伊賀臣の祖大彦の孫で近江王の娘婿宇斯王の娘婿でもある垂仁天皇とかなり濃密な姻戚である。
さらに『舊事本紀』では景行天皇の子たちの領地が吉備や讃岐以西なのに対し、倭武の領地は兩道入姬皇女為妃生・・・稚武王近江速部君祖宮道君祖・・・穗積氏祖忍山宿祢女弟媛生・・・次伊賀彦王次武田王尾張國丹羽建部君祖次佐伯命参川御使連等祖」と伊賀・尾張・三河と尾張近辺の王の祖で、大伊賀彦の子孫の系図と重なり、都が稚武王の近江に移り、伊賀彦は弟彦の可能性がある。
そして、穂積氏と同系の近江朝の大臣の物部膽咋宿禰は「三川穂國造美巳止真妹伊佐姫爲妾」と三河の姫を娶り、弟は「弟物部片堅石連公駿河國造等祖弟物部印岐美連公志紀縣主遠江國造久努真佐夜直等祖」と倭武の征服地の駿河や遠江を得、大臣ということはそれまで近江の天皇だったことを意味し、物部分王朝は破綻した。
これによって、倭武が伊吹山で死んだ意味が解り、纏向・伊賀・尾張・美濃の王家の倭武が近江の王朝と戦って、戦死したということで、伊勢から出発した倭武は物部倭武だ。
彦狹嶋王が崇神朝で既に活目尊と夢見で争って「豐城命令治東國」と東国を与えられたはずなのに、その孫が都督として再度与えられているということは、本来この記述が夢見説話の可能性が高く、倭武で記述したようにいくつかの王朝の皇子が時代を超えて記述されていて、『三國志』の魏書•武帝紀に「建安十八年春正月進軍濡須口攻破權江西營獲權都督公孫陽」と213年に都督の初出があり、おそらくそれ以降、218年・244年・275年・301年の日干支が2月1日に戊子である。