2018年2月5日月曜日

最終兵器のミサ 海外文献 『三國史記』1

 『三国史記』には「赫居世王」・「東名王」・駕洛國「首露王」と初代の王は全て卵生説話で登場し、百済は 東名王と同じとする卵から生まれた朱蒙の子孫と記述して、中心的王は全て卵の子孫になる。
ところが、脫解王は初代でもないが、昔氏の始祖ということからか卵から産まれたことになっている。
伝説の檀君も殷の流れを、辰韓も秦の流れをくむと呼ぶように他民族の王を受け入れそれを濁すための卵説話、父親は他民族のためあやふやにして母系が朝鮮民族の末裔と記述しているように感じる。
そのため、脫解は母親が日本人にも拘らず卵生としているのは、父が朝鮮人で母が日本人だから卵生と記述したように感じる。
『三國史記』卷一 新羅本紀 第一 
始祖 赫居世居西干 
「只有大卵,剖之,有嬰兒出焉,則收而養之,・・・六部人以其生神異推尊之,至是立爲君焉。」
脫解尼師今
「脫解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里・・・娶女國王女爲妻・・・乃生大卵 王曰人而生卵不祥也」

 辰人が朴姓を与え、紀元前50年に倭人が侵略してきたので、紀元前27年に皇子日槍が日本に支援を得るため来日して、その結果、紀元前20年に倭人の瓠公が新羅を支援したようだ。
また、西暦59年の新羅の王子の曽孫の清彦説話と西暦57年の脫解王の王位継承説も『三国遺事』ではやはり瓠公が脫解王を見つけており無関係とは思えない。
日本書紀での約80年の日槍から清彦への経過は矛盾が無く、約110年の赫居世居西干から儒理尼師今は長すぎるが、瓠公が赫居世居西干38年に出現して脫解尼師今を見つけているのだからどこかの王が重複していることが解り、私が見つけ出した古代天皇の皇位継承と同じことが新羅の王室で起こっている可能性がある。
『三國史記』卷第一
「辰人謂瓠爲朴,以初大卵如瓠,故以朴爲姓,居西干,辰言王或云呼貴人之稱。」
八年,倭人行兵,欲犯邊,聞始祖有神德,乃還。
三十八年・・・瓠公者, 未詳其族姓,本倭人,初以瓠繫腰渡海而來,故稱瓠公。
『日本書紀』 垂仁天皇三年三月
「天日槍對曰。僕新羅國主之子也。然聞日本國有聖皇。則以己國授弟知古而化歸之。仍貢献物葉細珠。」
「故天日槍娶但馬出嶋人。太耳女。麻多烏。生但馬諸助也。諸助生但馬日楢杵。日楢杵生清彦。」
垂仁天皇八八年七月戊午
「新羅王子。名曰天日槍。則留于但馬娶其國前津耳女。麻能烏。生但馬諸助。是清彦之祖父也。」

 『三國史記』では西暦173年に卑彌乎が新羅に訪問しているが、これも史実と矛盾しているため古代文献の信頼性を貶めている1つになっている。
しかし、西暦173年は『日本書紀』では政務天皇43年にあたり、政務天皇を私は卑弥呼の時代と論証しており、私の年表に換算すれば西暦243年正始四年となり、「倭王復遣使」の時に新羅まで同行すれば矛盾が解消する。
朝鮮には卑弥呼が政務天皇の時代という資料が残っていた可能性があり、『三国史記』・『日本書紀』の内容を再検討する必要があり、『三国志』まで新羅・百済は中国史書に記述が無い事に注目すべきだ。
『三國史記』 卷第二 阿達羅尼師
「二十年 夏五月 倭女王卑彌乎遣使來聘」

 すなわち、 赫居世居西干の王室はまだ馬韓のもとの小さな小国の国盗り物語が始まったばかりで、中国晋朝頃に馬韓地域を統一したのだろうが、後代支配した王朝は遠慮することなく建国時が統一王朝と呼ぶのは当然の行動だ。
古田史学のように遠慮して701年まで年号を発布しない王など存在せず、701年に政権を奪い取ったから年号を発布したのであり、前政権は継続して違う年号を使い続け、大長年号の終了が前政権が滅んだときだということだ。
百済が破れたからと言ってすぐに滅亡したのではなく、熊津都督府の都督となっているようで、日本もすでに天智天皇が政権を奪取していたが、670年まで名目上以前の政権が大宰府に存在し、政権が変わって日本と国号を改めたと考えるべきだろう。

2018年2月2日金曜日

最終兵器のミサ 海外文献 『三國遺事』と「しん国」

 今回、私は「しん」国とひらがなで題を書いたが、朝鮮人や日本人が「辰」(chen)国・「秦」(qín)国・「神」(shén)国と聞いて分別できるのだろうか。漢時代以前、馬韓が建国する前に「辰國」が統治していたと記述されているが、燕・斉・趙を跳び越して秦が朝鮮南部を支配したとは考えられない。
秦が中国を支配した20年の時代とすることも可能だが、『後漢書』・『三国志』で風俗が倭に近いと記述しているのに、『晉書』で秦人に類するとあたかも秦人が中国人でないように記述している。そして、辰人は朝鮮人の一角を占めて、「朴」姓を与えるなど力があるのに自ら王とならず、共立されて王となり馬韓人に自治させているが、紀元前100年以前衛氏朝鮮の右渠の時、漢に「辰国」が親書を持って接見を天子に申し出ている。
『三国史記』・『三国遺事』ではどちらも倭を悪者にしているが、『三国史記』の辰と『三国遺事』の日本は尊敬されているのに辰は忽然と消えて、後代には秦と記述される。
『三国遺事』に出現する日本を『日本書紀』で調べると、神武東征で銅鐸の国に侵略した時神武天皇は「神倭伊波礼毘古」次代の天皇は「神沼河耳」と神国に仕え大和の三輪を神倭と書き、倭をヤマトと呼んだ。神武東征の時期は畿内に初めて多紐細文鏡が出土する前2世紀頃と考えられ、それ以前から「神国」が存在し朝鮮の「辰国」と重なる。
さらに、「延烏郎 細烏女」伝説と同じような記事が垂仁天皇二年に記述され、おそらく174年で新羅王は阿達羅王21年にあたる。
この時期は私の証明する天皇は神国王ナガスネヒコの血を引く物部氏が尾張氏から政権を奪取しており、国名を「日本」としていたと考えられ、神功皇后の時代でも新羅王は神国と呼んでいる。
そして、「日御碕社」の古伝に孝霊天皇の頃紀元前230年頃に辰王が支配する月支国が出雲を襲っているが、まさしく銅鐸国に侵略する出雲を銅鐸国王と同族の辰王が挟撃している様が見えてくる。
そのご、中国の南北朝の頃は日本で扶桑国が皇位を奪取して、神国日本は滅亡し、朝鮮では自治を認めてくれた辰国に変わり半戦闘状態の中国南朝をバックにした伽耶を戦いの拠点にした倭国と高句麗・百済と友好的な扶桑国との等距離外交を行ったと思われる。
晋が記述する言語が秦人に類するとの記述は中国の秦人では中国人の晋の言葉と類していない表現で異様な表現で日本人・神人と類するとすれば現代の朝鮮語と日本語との近さがうかがえる。
松菊里式住居が日本に存在したり、支石墓が縄文遺跡から出土するが、土器文化としては影響を持ちながら一線を画す出土状況は辰王の支配体制を物語る。
『漢書』
真番、辰國欲上書見天子,又雍閼弗通。
『後漢書』馬韓伝
「馬韓・・・南與倭接。辰韓在東・・・弁辰在辰韓之南・・・其南亦與倭接・・・伯濟是其一國焉・・・皆古之辰國也。馬韓最大、共立其種為辰王、都目支國、盡王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。其南界近倭,亦有文身者。 」
『後漢書』辰韓伝
 辰韓、耆老自言秦之亡人、・・・有似秦語、故或名之為秦韓。
『後漢書』弁辰伝
 弁辰與辰韓雜居、城郭衣服皆同、言語風俗有異・・・其國近倭、故頗有文身者。
『三國志』
魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳第三十 韓
「弁辰亦十二國・・・其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之,世世相繼。辰王不得自立爲王。」
「今辰韓人皆褊頭 男女近倭 亦文身 便歩戰 兵仗與馬韓同」
『晉書』卷九十七 列傳第六十七 四夷傳 馬韓 辰韓 弁韓
「辰韓在馬韓之東,自言秦之亡人避役入韓,韓割東界以居之,立城柵,言語有類秦人,由是或謂之爲秦韓」
『梁書』新羅
新羅者,其先本辰韓種也。辰韓亦曰秦韓,相去萬里,傳言秦世亡人避役來適馬韓,馬韓亦割其東界居之,以秦人,故名之曰秦韓。・・・又辰韓王常用馬韓人作之,世相係,辰韓不得自立爲王,明其流移之人故也」
『三國史記』卷第一
始祖姓朴氏,諱赫居世,・・・辰人謂瓠爲朴,以初大卵如瓠,故以朴爲姓,居西干,辰言王或云呼貴人之稱。
『三國遺事』 卷第一 
延熹〈戊戌〉九 又與倭國梖嶺。立峴個彌勒大院東嶺是也。
魏滿朝鮮 
前漢朝鮮傳云・・・真番辰國欲上書見天子。
馬韓 九夷者一玄菟二樂浪三高麗・・・八倭人・・・海東安弘記云九韓者一日本二中華三吳越・・・」
延烏郎 細烏女
「・・・負歸日本。國人見之曰・・・降在我國。今去日本。故致斯怪。王遣使求二人。延烏曰。我到此國」
『日本書紀』
神武天皇即位前紀 神日本磐余彦天皇。諱彦火火出見。
綏靖天皇即位前紀 神渟名川耳天皇、神日本磐余彦天皇第三子也。
垂仁天皇二年是歳 
「意富加羅國王之子。・・・傳聞日本國有聖皇。以歸化之。・・・尋追求。遂遠浮海以入日本國。所求童女者。」
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年 新羅王遥望以爲。・・・乃今醒之曰。吾聞。東有神國。謂日本。

 そして、扶桑国に滅ぼされた神国・日本国の末裔の物部氏は531年に政権を奪い返して秦王国日本と国名を戻した。
そして、628年守屋の死亡によって物部王朝は弱体化し、馬子の妃で物部氏の大刀自が炊屋姫の称号で皇位を継いでいたがその死をもって縄文王朝の東鯷国・神国・秦国・日本国の王朝は終わり、その皇子の蝦夷が皇位を継いで倭国としたと思われる。
『隋書俀国伝』 
又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀

2018年1月31日水曜日

最終兵器のミサ 海外文献 『山海經』

 『山海經』の大荒東經には中国の5帝の一人としている舜と同一人物とする俊が生んだ国々と称しているが、これも、記紀などと同様に別人だ。
中国で重要な神と同等の人物に2つ名など必要なく、本来なら名前すら無い「主神」でよいし、実際おなじ「大荒東經」に舜が出現する。
中国中原にまだ国が無い神話の時代の4千年前以前から「大荒東經」の地域である日本列島南部(九州から関東・すべて方角は月日所出)にすでに国々があり、その国々の歴史は、女王の羲和と俊が4国(中容・晏龍・黑齒・孫国白民)を建国したことを記述している。
中国の神話では羲和が日神、常羲が月神で共に俊の妻になっているが、天照と月読の話と同じ、国産みもイザナギ・イザナミの話と同じことを記述しているように見える。
日月所出の羲和之國に始まり止日月の女和月母之國で書き終わる国々があり、 この神話が少昊の時代以前の話だと書いているのだ。
そして、これを基に『契丹古伝』は殷と親戚と記述したのだろう。
そして、この地域は百穀があり黍を中心に穀物を栽培し、狩猟を行い、さらに「海外東經」では稻を栽培し冠を被って帯刀して、縄文土偶の頭には飾りが有る。
『山海經』
大荒東經
「東海之外大壑少昊之國・・・羲和者帝俊之妻・・・帝俊生中容・・・有君子之國其人衣冠帶劍・・・帝俊生晏龍晏龍生司幽・・・帝俊生帝鴻帝鴻生白民・・・帝俊生黑齒・・・黍食使四鳥・・・帝舜生戲・・・百穀所在」
海外東經
「君子國在其北衣冠帶劍・・・黑齒國在其北為人黑食稻啖蛇」

 「大荒東經」には『魏志倭人伝』に記述される「侏儒国」が「小人国」と記述されていて、「海外東經」には「扶桑国」と『梁書』の倭伝に出現する国名と共通する。
すなわち、「海外東經」は日本海の西端から見て東南の地域から東北で堯が葬られた山東半島の根本から見ると東の地域と記述され、そこからすべて方角は北に進む。
黒歯国は『三国志』で船行1年、『山海經』では5億歩以上で太陽が北に上ると記述されやはり南アメリカの内容なのだろうか。△印の国(君子国・ 黒歯国・湯谷)がその境となっているようで、日本列島の国々が倭と違う国として古くからある国として紹介されている。
そして、国と記述されている国々が羲和之国から勞民国まで君子之国と黑齒之国・青丘国の重複を除いた22国と東鯷国の20余国と合致し、無関係としてよいのだろうか。
『山海經』 
海外東經
  「海外自東南陬至東北陬者・・・在堯葬東。」
「青丘國在其北・・・一曰在朝陽北・・・自東極至于西極・・・五億十萬九千八百步 黑齒國在其北」
大荒東經
〔少昊之國(山東半島西の日の出る方向で東夷より東〕 
羲和之國(日月所出)→大人之國→〇小人國→蒍國(日月所出)→中容之國→△君子之國→司幽之國(日月所出)→白民之國→△青丘之國→維嬴土之國→△黑齒之國→夏州之國(日月所出)→蓋余之國→困民國→
△上湯谷→壎民之國(日月所生)→中容之國(日月所出)→女和月母之國(止日月)
海外東經
〔海外自東南陬至東北陬 東南(堯を葬った東、君子国・ 黒歯国・湯谷 で交差)→東北〕
嗟(镸+差)丘→大人國(北)→奢比之尸(北)→△君子國(北)→こうこう(北)→朝陽之谷(北)→△青丘國(北)→豎亥(北 東極)→△黑齒國(北) △湯谷(下=東?)→〇扶桑(上=西?)→十日(北)→雨師妾國(北)→玄股之國(北)→毛民之國(北)→勞民國(北)
『漢書』 卷二十八下 地理志第八下 呉地条
「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云」
『三国志』
「有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里 又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至」

 倭は朝鮮半島の東南端を示しているがまだ国として記述されておらず、私はいわゆる弥生人の倭は大八島の国で日本列島の近辺の壱岐・対馬・隠岐の島前・五島列島・瀬戸内の島々を支配する国と述べてきた。
『山海經』は国としてまだ認めていないが、『日本書紀』の一書や『出雲國風土記』の記述でいわゆる弥生人が新羅から国を引いてきたり、新羅に天下って関係を示し、私の示す領域と矛盾しない。
矛盾どころか、記紀の神話ができる前から日本列島に国々が存在し、もちろん、この国々は縄文土器を作っていた人々で、その中の一部の倭人が朝鮮半島南東部から 姑射國より南のいくつかの島が倭人の島と考えることができる。
『遼史』には「渤海改爲蓋州,又改辰州,以辰韓得名」と渤海が蓋で、辰韓すなわち朝鮮半島が蓋国だったとしていて、その南の黄海にある地域が倭である。
中国でも日本でも倭が日本と考えて「大荒東經」は架空の国々で中国の神話と片付けてきたが、見方を変え素直に読み進むと他の文献と整合することが解る。
そして、中国人は「大荒東經」と「大荒東經」の国々を後に倭種の元の辰国領域と考え辰韓(新羅)の地を元の辰国と記述し、まだ国ではない倭と区別して中国は辰国に敬意を表し帝が存在する5帝の一人と同等の国として『山海經』を記述したようだ。 朝鮮の領域が西南端まで有るため、もし蓬萊山が勃海の近辺の済州島なら姑射國・大蟹・大鯾・明組邑は対馬・壱岐・隠岐になる。
『山海經』 
海內東經〔朝鮮半島から島嶼を南下して会稽までを記述〕
鉅燕→蓋國→朝鮮(列陽東,海北山南)
鉅燕→蓋國→倭(蓋國南)
⇒列姑射(木浦?海河州中)→姑射國(海中)→大蟹(海中)→大鯾(海中)→明組邑(海中)→蓬萊山(海中)→大人之市(海中)→琅邪臺(海閒)→都州(海中)→韓鴈(南海中)→始鳩(南海中)→雷澤中(吳西)→會稽山(大楚南)
『日本書紀』一書
「素戔鳴尊帥其子五十猛神 降到於新羅國 居曾尸茂梨之處」
『出雲國風土記』
「所以号意宇者 国引坐八束水臣津野命詔・・・衾志羅紀乃三埼矣」
『漢書』 卷二十五下 郊祀志 第五
「臨勃海,將以望祀蓬萊之屬,幾至殊庭焉」
『遼史』 第三十八卷 志第八 地理志二
「辰州奉國軍節度 本高麗蓋牟城 唐太宗會李世攻破蓋牟城即此 渤海改爲蓋州又改辰州以辰韓得名」

2018年1月29日月曜日

最終兵器のミサ 海外文献 徐福伝説

  徐福伝説は邪馬台国と共に諸説かまびすしい話題だけど、誘致合戦の感情に訴えるだけの騒ぎになっていて、そこには科学など一つもなく、蓬萊山は富士山に決まっているというような論調だ。徐福は秦の始皇帝の時代の話で『史記』でも『後漢書』でも黄河流域から揚子江流域の話題として出現して、場所は東南方向にあるとか、会稽から出発と書かれてむつかしい船旅だ。『太平御覽』では沖縄を思わせ、沖縄に渡るには会稽出港は理にかない、沖縄に渡るには黒潮の横断が必要で古代船では余程の技術が無ければ漂流の憂き目にあい、うまくすれば日本の太平洋側に打ち上げられる可能性があるが、その場所が10世紀に呉の風俗に似ているとは思えない。
『史記』 卷一百一十八 淮南衡山列傳 第五十八
「使徐福入海求神異物・・・即從臣東南至蓬萊山・・・徐福得平原廣澤,止王不來」
『後漢書』 卷八十五 東夷列傳第七十五
又有夷洲及澶洲傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海 求蓬萊神仙不得徐福畏誅不敢還遂止此洲丗丗相承有數萬家人民時至會稽市會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者所在絕遠不可往來
『太平御覽』
紵嶼人 外國記曰 周詳泛海,落紵嶼。上多紵,有三千餘家,云是徐福僮男之後,風俗似吳人。

中国の東夷観は、史記では直接戦闘する相手で東夷と戦っている国は、中原や黎山が山西省、太室・殷・周・陳・睢が河南省、鄭が陝西省、魯・齊が山東省、楚が湖北省にあり、東夷は中国国内山東半島や淮水河口部を想定していて、漢代で初めて朝鮮北東部と思われる蒼海郡が東夷と呼ばれるようになった。魏長城・楚北城などの万里の長城は南北に走り、斉長城は山東半島に対しているように見られる。日本列島に行こうにも間に東夷が存在し、秦が征服したのは遼東半島西部までで山東半島部は最後の征服地だ。
『史記』
帝堯 請流共工於幽陵,以變北狄;放驩兜於崇山,以變南蠻;遷三苗於三危,以變西戎;殛鯀於羽山,以變東夷:四辠而天下咸服。
卷四 周本紀 第四
「成王既伐東夷,息慎來賀,王賜榮伯作賄息慎之命」
卷四十 楚世家 第十 
伍舉曰:「桀為有仍之會,有緡叛之。紂為黎山之會,東夷叛之。幽王為太室之盟,戎、翟叛之。」
春秋左傳 
僖公四年 「鄭申侯曰,師出於陳鄭之間,國必甚病,若出於東方,觀兵於東夷,循海而歸,其可也」
僖公十九年 「夏宋公使邾文公,用鄫子于次睢之社,欲以屬東夷」
文公五年 「打開字典 顯示相似段落 六人叛楚,即東夷,秋,楚成大心,仲歸,帥師滅六」
文公九年 「秋,楚公子朱自東夷伐陳,陳人敗之,獲公子茷,陳懼,乃及楚平。」
襄公二十六年 「而逸楚囚,楚師宵潰,晉降彭城,而歸諸宋,以魚石歸,楚失東夷,子辛死之」
襄公二十九年 「誰得治之,杞,夏餘也,而即東夷,魯,周公之後也,而睦於晉,以杞封魯」
昭公四年 「夏桀為仍之會,有緡叛之,商紂為黎之蒐,東夷叛之,周幽為大室之盟」
昭公五年 「冬,十月,楚子以諸侯及東夷伐吳,以報棘,櫟,麻,之役,薳射以繁揚之師」
昭公十一年 「・・・桀克有緡,以喪其國,紂克東夷,而隕其身,楚小位下,而亟暴於二王,能無咎乎」
哀公十九年 「秋,楚沈諸梁伐東夷,三夷男女,及楚師盟于敖」
『漢書』
「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫」
「東夷薉君南閭等口二十八萬人降,為蒼海郡」
「莽復奏曰太后秉統數年・・・越裳氏重譯獻白雉,黃支自三萬里貢生犀,東夷王度大海奉國珍」

更に徐福の向かった蓬萊山は『山海經』の「海内東經」に書かれていて、海内は渤海・黄海・東シナ海のことで、朝鮮半島から会稽山までのことが書かれ、『漢書』でも渤海に属すと書かれている。越とともに朝貢するまで会稽地域に有った越と交流していた倭人は周に越とともに朝貢していたため、倭人から聞いた蓬萊山を求めて、倭人から聞いた航路で会稽近辺から出発した。しかし、技術が無く難破して帰ることができなかったが、越の人々は倭人と共に沖縄と交流して呉の風俗が流入したのではないだろうか。中国文献を読めば蓬萊山は渤海・黄海に存在しそうで、済州島が第一候補になりそうだ。
『山海經』 海內東經
「鉅燕在東北陬・・・蓬萊山在海中・・・會稽山在大楚南」
『漢書』 卷二十五下 郊祀志 第五
「臨勃海,將以望祀蓬萊之屬,幾至殊庭焉」

2018年1月26日金曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 飛鳥浄御原宮の考察8

9.金石文と飛鳥浄御原宮6

 資料15の美努岡万墓誌は730年建造で日本書紀どおり、684年の記述賜姓になっており、天武天皇・持統天皇・文武天皇・元明天皇・元正天皇・聖武天皇の区別がない。
文武天皇が藤原天皇、元正天皇を平城京天皇として、元明天皇を区別していないということは、文武天皇と元明天皇は共に藤原天皇ということになる。
資料15
『美努岡万墓誌』
我祖美努連岡連萬連飛鳥浄御原天皇御世、甲申年正月十六日、勅賜連姓、藤原宮御宇大行天皇御世、大宝元年歳次辛丑五月、使乎唐国、平城宮治天下大行天皇御世、霊亀二年歳次丙辰正月五日、授従五位下、任主殿寮頭、神亀五年歳次戊辰十月廿日卒、春秋六十有七、其為人小人事帝、移考為忠、忠簡帝心、能秀臣下、成功廣業、照一代之高栄、陽名顕親、遺千歳之長跡、令聞難盡、餘慶無窮、仍作斯文、納置中墓、 天平二年歳次庚午十月廿日
『日本書紀』
天武天皇十三年春正月甲申朔庚子。三野縣主。内藏衣縫造二氏賜姓曰連。

以上、骨臓器銘文以外は日本書紀に合わないと作り直す可能性があり、720年以降日本書紀が完成後、日本書紀を確認しながらの年号指定を余儀なくされたのであろう。
以上705年以降になって藤原宮、後清原が出現するが、694年以前の対象時期は持統天皇・天武天皇どちらの時期も前後の飛鳥浄御原が出現せず、私が論証する通り、筑紫の郭務悰が統治する飛鳥浄御原が前で天武天皇が統治する飛鳥浄御原が後と考えることが妥当である。
少なくとも、日本書紀通りに読んでも天皇があいまいで、完全な形で持統天皇が金石文に一つも出てこず、宮天皇が認知されていれば後代日本書紀が発布されても違和感を持つことがなかったし、持統天皇は九州で在位していることが常識であったため、やはり違和感を持たなかった。
また、粟原寺鑪盤銘から文武天皇が仲臣氏の可能性が発見され、日本書紀は整合性に無頓着で、元明天皇の家系の経歴が天氏天皇家と継ればよかったのだ。
『薬師寺東塔の擦管』と『野中寺金銅弥勒菩薩台座框』のように金石文同士をすり合わせることによって、『日本書紀』の再評価が進むことも理解でき、これまで、『日本書紀』とあわない金石文を偽作と無視してきた学者は、金石文の再評価をすべきだ。
そして、日本書紀が完成した後の『美努岡万墓誌』の墓誌には日本書紀どおりだが、個々の天皇を区別しておらず、『日本書紀』の記述方法と同じ思想による記述方法で、私の言う「宮天皇」である。

2018年1月24日水曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 飛鳥浄御原宮の考察7

9.金石文と飛鳥浄御原宮5

 資料14の薬師寺東塔の擦管は730年に建て替えられており730年はすでに日本書紀が知れ渡っており、日本書紀に合わせるための苦労が庚辰680年天皇即位九年を八年に誤まったかもしれない。
資料14
『薬師寺東塔の擦管』
維清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳建子之月以中宮不悆創此伽藍而鋪金未遂龍駕騰仙大上天皇奉遵前緒遂成斯業照先皇之弘誓光後帝之玄功道済郡生業傳劫式於高躅敢勒貞金其銘曰巍巍蕩蕩薬師如来大発誓願廣運慈哀猗・・・

 孝徳天皇は664年まで皇位にあって崩じ、天智天皇六年、667年天智天皇が即位したと 或本云の表記で伝えており、野中寺金銅弥勒菩薩台座框の銘文に666年天皇が大御身労とある。
藤氏家伝は白鳳5年「委皇太子」と天皇即位にはなっておらず、天智天皇の即位前紀に皇祖母が即位したとしているので、中宮天皇は嶋皇祖母で、そのための難波宮の東宮(本来天皇になるべき人物皇太弟)がいた場所小墾田宮に天智天皇は宮を遷した。
孝徳天皇の登遐が八月以降すぐのため麟德二年の訪中天皇は、天智天皇が引き続き摂政を継続しているため、中宮天皇が訪中したようで、そのため、新唐書に天豐財の実名表記なのではないか。
その後、天智天皇6年若しくは7年中宮天皇が天皇位を天智天皇に譲り、『薬師寺東塔の擦管』の太上天皇となり680年より前に崩じた。
天智天皇が東宮の宮に遷るのは当然で、古人皇子が失脚しているので最年長の皇子であり、中宮天皇は引き続き難波宮に都を置いた。
そして、前項で述べたように嶋皇祖母は薬師寺を建立してもらったが、嶋皇祖母は完成を待たずに崩じた。
『日本書紀』
白雉五年十月癸卯朔 皇太子聞天皇病疾。乃奉皇祖母尊。間人皇后并率皇弟公卿等。
天智天皇即位前紀 ・・・天萬豐日天皇後五年十月崩。明年皇祖母尊即天皇位。
天智天皇三年 六月。嶋皇祖母命薨。
天智天皇七年正月丙戌朔戊子。皇太子即天皇位。或本云。六年歳次丁卯三月即位
『野中寺金銅弥勒菩薩台座框』
丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也
『薬師寺 東塔擦管銘』
維清原宮馭宇 天皇即位八年庚辰之歳建子之月以 中宮不悆創此伽藍而鋪金未遂龍駕 騰仙大上天皇奉遵前緒遂成斯業・・・

 『薬師寺東塔の擦管』の内容も「其銘曰」と如何にも写したような言い回しで、日本書紀と合わないために写し変えたか解らないが、建立しようとした天皇が崩じ、治癒を願った皇后が治癒して皇后が完成させたと意味不明な内容になっている。
実際は天智天皇を680年頃は維清原宮天皇と呼び、668年中宮天皇のために建立して治って大上天皇となったが完成前に崩じたの意味だ。

2018年1月22日月曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 飛鳥浄御原宮の考察6

8.金石文と飛鳥浄御原宮4

資料12の伊福吉部臣徳足比売墓誌 は710年の銘で707年二月従七位下賜で大村骨臓器銘文と同じ背景になり、705年以降は「藤原大宮御宇天皇」だ。
資料12
『伊福吉部臣徳足比売墓誌』 金石文字墨帖一覧
因幡国法美郡伊福吉部徳足比責臣
藤原大宮御宇大行天皇御世慶雲四年歳次丁未春二月二十五日従七位下被賜仕奉実
和銅元年歳次戊申秋七月一日卒也三年庚戊冬十月火葬即蹟此虚故末代君等不膳崩壊上件如前故謹録鐸和銅三年十一月十三日己未
『続日本紀』
慶雲四年二月甲午 天皇御大極殿。詔授成選人等位。親王已下五位已上。男女一百十人各有差。・・・

資料13の粟原寺鑪盤銘は715年に記述されたと思われる銘だが、なぜ、草壁皇子薨後5年(694年)に粟原寺建立で、なぜか建造に20年もかかり、なぜか藤原宮持統天皇を「浄御原宮天下天皇」と記述し、なぜか唐突に臣下「比賣朝臣額田」が出現し、なぜか日本書紀では草壁皇子が続日本紀の「日並」なのか。
資料13
『粟原寺鑪盤銘』
此粟原寺者、仲臣朝臣大嶋、惶惶誓願、奉為大倭国浄御原宮天下天皇時、日並御宇東宮、
故造伽檻之、爾故比賣朝臣額田、以甲午年始、至和銅八年
『日本書紀』
天武天皇十二年十二月丙寅 遣諸王五位伊勢王。大錦下羽田公八國。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。
天武天皇十三年十一月戊申朔
天武天皇十四年九月辛酉 ・・・是日。宮處王。難波王。竹田王。三國眞人友足。縣犬養宿禰大侶。大伴宿禰御行。境部宿禰石積。多朝臣品治。釆女朝臣竹羅。藤原朝臣大嶋。凡十人賜御衣袴。
持統三年四月乙未 皇太子草壁皇子尊薨。

日本書紀どおりなら、持統天皇が文面に全く出現しないし、浄御原宮天下天皇が持統天皇なら後浄御原宮天下天皇と表記すべきで、大嶋の妻はこの銘が出自で、どうして持統天皇はすぐに栗原寺を建立出来なかったのか。
新しい年表なら、大嶋が藤原姓を名乗る684年以前または695年以降は浄御原宮天下天皇だが、715年銘記なので、浄御原宮天下天皇の「時」が付加されており、日並が奈良天皇家の東宮で、比賣朝臣額田なる人物は解らず、文章を普通に読めば日並の親が大嶋すなわち日並の妻すなわち元明天皇が額田で文武天皇は臣下仲臣朝臣であり、政権を完全に掌握後建立したとしか読めない。
朝臣という姓が持統天皇や元明天皇の縁者では有り得ず、あっても真人で皇女や皇子などでなければいけない。
まとめると、大嶋が家督を継いだ浄御原宮天下天皇時681年頃から日並が跡取りだったが、694年薨じ、追悼の寺の建立を願ったが大嶋も卒し元明天皇が意思を継いで栗原寺を建立したということではないか。
それほど身分が高くない人物が薨じた皇太子のために寺を作る程の財力があるのだろうか。
豊御食炊屋姫は額田部で比賣朝臣額田と関係がありそうで、古事記では欽明天皇は蘇我氏と姻戚で、欽明天皇時に中臣連鎌子が急に出現し、以降中臣氏が活躍していて、タイミングが良すぎる。
寺の建立に臣下が名前を大々的に銘盤に記述することは考えられず、普通は臣下が建立したとしても天皇が命じて大嶋が建立したと記述して、天皇を持ち上げる記述があるはずで、比賣朝臣額田は不要である。