9.金石文と飛鳥浄御原宮5
資料14の薬師寺東塔の擦管は730年に建て替えられており730年はすでに日本書紀が知れ渡っており、日本書紀に合わせるための苦労が庚辰680年天皇即位九年を八年に誤まったかもしれない。
資料14
『薬師寺東塔の擦管』
維清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳建子之月以中宮不悆創此伽藍而鋪金未遂龍駕騰仙大上天皇奉遵前緒遂成斯業照先皇之弘誓光後帝之玄功道済郡生業傳劫式於高躅敢勒貞金其銘曰巍巍蕩蕩薬師如来大発誓願廣運慈哀猗・・・
孝徳天皇は664年まで皇位にあって崩じ、天智天皇六年、667年天智天皇が即位したと
或本云の表記で伝えており、野中寺金銅弥勒菩薩台座框の銘文に666年天皇が大御身労とある。
藤氏家伝は白鳳5年「委皇太子」と天皇即位にはなっておらず、天智天皇の即位前紀に皇祖母が即位したとしているので、中宮天皇は嶋皇祖母で、そのための難波宮の東宮(本来天皇になるべき人物皇太弟)がいた場所小墾田宮に天智天皇は宮を遷した。
孝徳天皇の登遐が八月以降すぐのため麟德二年の訪中天皇は、天智天皇が引き続き摂政を継続しているため、中宮天皇が訪中したようで、そのため、新唐書に天豐財の実名表記なのではないか。
その後、天智天皇6年若しくは7年中宮天皇が天皇位を天智天皇に譲り、『薬師寺東塔の擦管』の太上天皇となり680年より前に崩じた。
天智天皇が東宮の宮に遷るのは当然で、古人皇子が失脚しているので最年長の皇子であり、中宮天皇は引き続き難波宮に都を置いた。
そして、前項で述べたように嶋皇祖母は薬師寺を建立してもらったが、嶋皇祖母は完成を待たずに崩じた。
『日本書紀』
白雉五年十月癸卯朔 皇太子聞天皇病疾。乃奉皇祖母尊。間人皇后并率皇弟公卿等。
天智天皇即位前紀 ・・・天萬豐日天皇後五年十月崩。明年皇祖母尊即天皇位。
天智天皇三年 六月。嶋皇祖母命薨。
『薬師寺 東塔擦管銘』
維清原宮馭宇 天皇即位八年庚辰之歳建子之月以 中宮不悆創此伽藍而鋪金未遂龍駕 騰仙大上天皇奉遵前緒遂成斯業・・・
『薬師寺東塔の擦管』の内容も「其銘曰」と如何にも写したような言い回しで、日本書紀と合わないために写し変えたか解らないが、建立しようとした天皇が崩じ、治癒を願った皇后が治癒して皇后が完成させたと意味不明な内容になっている。
実際は天智天皇を680年頃は維清原宮天皇と呼び、668年中宮天皇のために建立して治って大上天皇となったが完成前に崩じたの意味だ。
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