2018年1月17日水曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 飛鳥浄御原宮の考察4

.金石文飛鳥浄御原宮2

資料9の采女氏塋(うねめしのえい)域碑はいつ直大弐に昇進したかわからないため評価できないが、689年は持統天皇で、少なくとも天武天皇と持統天皇の前後飛鳥浄御原などの区別がされておらず、宮ごとで天皇を表記している。
資料9
采女氏塋域碑 
飛鳥浄原大朝廷大弁官直大貳采女竹良卿所請造墓所形浦山地四千代他人莫上毀木犯穢傍地也  己丑年十二月廿五日
日本書紀
「朱鳥元年九月甲子 ・・・次直大肆釆女朝臣筑羅誄内命婦事・・・」

新しい年表では689年の朝廷は大友皇子がいる天皇を付加していない飛鳥浄御原で間違いはないが、昇進時期が気になる。
資料10の文忌寸祢麻呂墓誌板が一番の難題で、壬申年672年に本当に政変があったなら、私の論は全くの空想になるが、逆に672年の壬申の乱を正当とすると私が述べてきた矛盾点が解消されない。
資料10
文忌寸祢麻呂墓誌板』
 壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻呂忌寸慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒
『日本書紀』
天武天皇元年七月辛卯 ・・・且遣村國連男依。書首根麻呂。和珥部臣君手。膽香瓦臣安倍。率數萬衆。・・・
天武天皇十四年六月甲午 大倭連。葛城連。凡川内連。山背連。難波連。紀酒人連。倭漢連。河内漢連。秦連。大隅直。書連并十一氏賜姓曰忌寸。
持統六年十一月戊戌 務大貳川内忌寸連等祿。
『続日本紀』
文武二年四月壬寅 遣務廣貳文忌寸博士等八人于南嶋覓國。因給戎器。
大宝元年正月己丑。大納言正廣參大伴宿祢御行薨。帝甚悼惜之。
大宝元年七月壬辰 勅親王已下。准其官位賜食封。又壬申年功臣。隨功等第亦賜食封。並各有差。又勅。先朝論功行封時。賜村國小依百廿戸。當麻公國見。縣犬養連大侶。榎井連小君。書直知徳。書首尼麻呂。黄文造大伴。大伴連馬來田。大伴連御行阿倍普勢臣御主人。神麻加牟陀君兒首一十人各一百戸。若櫻部臣五百瀬。佐伯連大目。牟宜都君比呂。和爾部臣君手四人各八十戸。凡十五人。賞雖各異。而同居中第。宜依令四分之一傳子。又皇大妃。内親王。及女王。嬪封各有差。
大宝三年閏四月辛酉朔 是日。右大臣從二位阿倍朝臣御主人薨。遣正三位石上朝臣麻呂等弔賻之。
慶雲四年冬十月戊子。從四位下文忌寸祢麻呂卒。遣使宣詔。贈正四位上。並賻布。以壬申年功也。
霊亀二年夏四月癸丑。詔。壬申年功臣・・・贈正四位上文忌寸祢麻呂息正七位下馬養・・・
壬申の功生前恩賞
天武天皇十一年七月壬子。摩漏臣以壬申年之功贈大紫位及祿。更皇后賜物亦准官賜。
持統五年五月辛卯 褒美百濟淳武微子壬申年功、賜直大參。
持統七年九月壬寅。以直廣參贈蚊屋忌寸木間。并賜賻物。以褒壬申年之役功。
文武元年九月壬寅。賜勤大壹丸部臣君手直廣壹。壬申之功臣也。
文武三年五月辛酉。詔曰。圖勲之義。肇自前修。創功之賞。歴代斯重。蓋所以昭壯士之節。著不朽之名者也。汝坂上忌寸老。壬申年軍役。
大宝元年七月壬辰。勅親王已下。准其官位賜食封。又壬申年功臣。
大宝三年六月壬子。贈從五位下民忌寸大火正五位上。正六位上高田首新家從五位上。並遣使弔賻。以壬申年功也。

671年までにやってきた中国軍は体調の悪い天智天皇に対してお見舞いにでも来たのだろうか。
九州の饗応は持統天皇が続けても良いし九州が都なら天武天皇が筑紫で饗応する必要がないし、大宰府の朝堂院建築は何を意味するのだろうか。
軍果を受け取りに来ただけの軍で、大友皇子に天皇位を継がせたくなくて天武天皇に肩入れするための軍だったのだろうか。
しかし、史実は逆で、郭務悰が日本滞在中に皇太子を変更しているということは、郭務悰も望んだものであるから、大友皇子に継承されたことを確認して帰国したように思われ、しかも1年程度の駐留が妥当であろうか。
そして、壬申の乱という大きな事件があったにも関わらず、九州年号では元号を変えることなく白鳳が続いており、壬申の乱はやはり695年大友中国傀儡政権の打倒の成功日の壬申の勝利で、恩賞はほとんど死後に追賞で、最初が天武天皇5年、生前に送られた恩賞は天武天皇11年で本当に恩賞を与えたかすらわからない。
さらに、716年壬申の乱後44年もあとに子供に恩賞を与えているが、孫の間違いではないかと思われるぐらいで、701年の壬申の日のクーデターによる禅譲なら子供の世代であり、恩賞は翌月すぐにはじまり、701年のクーデターは形式上禅譲であるためどのように呼ぶことになったのだろう。
そして、文氏は天武天皇十四年685年に忌寸を賜姓されておらず、初出は持統九年695年で、祢麻呂は707年まで出現しないし671年では祢麻呂が将軍になるには若すぎ、実際に壬申の乱時には将軍と書かれていないし、大宝元年七月の記事に村國小依に連姓が付いていない。
持統天皇時、阿倍朝臣御主人(みうし)や大伴連御行(みゆき)は昇進しているが壬申の功の言及がなく、701年1月阿倍朝臣御主人は死亡時に右大臣を贈られているが壬申の功と書かれていない。
やはり、壬申の乱は701年2月29日壬申の日に吉野から帰った天皇がクーデタで追放された、壬申の勝利の日であった。

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