2018年1月19日金曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 飛鳥浄御原宮の考察5

.金石文と飛鳥浄御原宮3

資料11の大村骨臓器銘文は707年作成でありピッタリの対象時期である。
資料11
大村骨臓器銘文
卿諱大村。 檜前五百野宮御宇 天皇之四世。 後岡本聖朝、紫冠 威奈鏡公之第三子也。卿温良在性。恭倹為懐。簡而廉隅。柔而成立。後清原聖朝、初授務廣肆。藤原聖朝小納言闕。於是、高門貴兜、各望備員。天皇特擢卿、除小納言。授勤廣肆。居無幾進位直広肆以大宝元年律令初定更授従五位下仍兼侍従卿 ・・・(中略)・・・
以、慶雲四年歳在丁未四月廿四日。寝疾終、於越城。時年卌六。粤以其年冬十一月、乙未朔廿一日乙卯。帰葬。於大倭国葛木下郡山君里狛井山崗。・・・
日本書紀
天武天皇十三年十月己卯朔 是日。守山公。路公。高橋公。三國公。當麻公。茨城公。丹比公。猪名公。坂田公。羽田公。息長公。酒人公。山道公十三氏賜姓曰眞人。
続日本紀
大宝元年三月甲午 ・・・始依新令。改制官名位号。・・・
大宝元年五月癸酉朔 太政官處分。王臣五位已上上日。本司月終移式部。然後式部抄録。申送太政官。
大宝元年五月己亥 始改勤位已下之号。内外有位六位已下者。進階一級。
大宝元年七月戊戌 太政官處分。
大宝元年八月癸夘 ・・・五位下伊吉連博徳。伊余部連馬養撰定律令。
大宝元年八月甲辰 太政官處分。
大宝元年十一月乙酉 太政官處分。
大宝三年十一月癸夘 太政官處分。
大宝三年十月丁夘任 太上天皇御葬司。以二品穗積親王爲御裝長官。從四位下廣瀬王。正五位下石川朝臣宮麻呂。從五位下猪名眞人大村爲副。
慶雲元年十一月壬寅 始定藤原宮地。
慶雲三年閏正月庚戌 以從五位上猪名眞人大村。爲越後守。
和銅二年八月乙酉 廢銀錢。一行銅錢。」太政官處分。
和銅五年五月丙申 太政官處分。

銘文には天武天皇から与えられた「賜姓真人」に言及せず「清原聖朝」に「後」を冠して、初授としているのは、前「清原聖朝」の存在を表している。
持統天皇を後「清原聖朝」に当てているようだが、日本書紀どおりなら持統天皇は前「藤原聖朝」でもあるはずであり、後「藤原聖朝」が文武天皇である。
すなわち、704年に「定藤原宮」と決まったため705年から文武天皇を「藤原聖朝」といったのではないか。
したがって、藤原に遷都したという持統天皇抜きで、天武天皇が後「清原聖朝」となり前「清原聖朝」は天智天皇・大友太政大臣になる。
持統天皇・天武天皇紀に大村への務廣肆授号記事が無いので言及できないが、浄御原令発効後の681年以降683年初出が初授で、この頃が授号となり天武天皇が後「清原聖朝」と別に前「清原聖朝」を裏付ける。
しかし、700年より前に後「清原聖朝」が出現しないということは、それ以降に後「清原聖朝」が出現したと考えるほかない。
そして、701年のクーデターと大宝律令によっての「無幾進位」と4回の「太政官處分」との対応があり、701年の大混乱が解る。
日本書紀どおりなら、「藤原聖朝」に前後、「清原聖朝」に後は不要で、あちらを立てればこちらが立たずだが骨臓器銘文は後代に書き換えることはなく一番の資料となり、704年遷都の藤原宮を証明している

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