9.金石文と飛鳥浄御原宮6
資料15の美努岡万墓誌は730年建造で日本書紀どおり、684年の記述賜姓になっており、天武天皇・持統天皇・文武天皇・元明天皇・元正天皇・聖武天皇の区別がない。
文武天皇が藤原天皇、元正天皇を平城京天皇として、元明天皇を区別していないということは、文武天皇と元明天皇は共に藤原天皇ということになる。
資料15
『美努岡万墓誌』
我祖美努連岡連萬連飛鳥浄御原天皇御世、甲申年正月十六日、勅賜連姓、藤原宮御宇大行天皇御世、大宝元年歳次辛丑五月、使乎唐国、平城宮治天下大行天皇御世、霊亀二年歳次丙辰正月五日、授従五位下、任主殿寮頭、神亀五年歳次戊辰十月廿日卒、春秋六十有七、其為人小人事帝、移考為忠、忠簡帝心、能秀臣下、成功廣業、照一代之高栄、陽名顕親、遺千歳之長跡、令聞難盡、餘慶無窮、仍作斯文、納置中墓、 天平二年歳次庚午十月廿日
『日本書紀』
天武天皇十三年春正月甲申朔庚子。三野縣主。内藏衣縫造二氏賜姓曰連。
以上、骨臓器銘文以外は日本書紀に合わないと作り直す可能性があり、720年以降日本書紀が完成後、日本書紀を確認しながらの年号指定を余儀なくされたのであろう。
以上705年以降になって藤原宮、後清原が出現するが、694年以前の対象時期は持統天皇・天武天皇どちらの時期も前後の飛鳥浄御原が出現せず、私が論証する通り、筑紫の郭務悰が統治する飛鳥浄御原が前で天武天皇が統治する飛鳥浄御原が後と考えることが妥当である。
少なくとも、日本書紀通りに読んでも天皇があいまいで、完全な形で持統天皇が金石文に一つも出てこず、宮天皇が認知されていれば後代日本書紀が発布されても違和感を持つことがなかったし、持統天皇は九州で在位していることが常識であったため、やはり違和感を持たなかった。
また、粟原寺鑪盤銘から文武天皇が仲臣氏の可能性が発見され、日本書紀は整合性に無頓着で、元明天皇の家系の経歴が天氏天皇家と継ればよかったのだ。
『薬師寺東塔の擦管』と『野中寺金銅弥勒菩薩台座框』のように金石文同士をすり合わせることによって、『日本書紀』の再評価が進むことも理解でき、これまで、『日本書紀』とあわない金石文を偽作と無視してきた学者は、金石文の再評価をすべきだ。
そして、日本書紀が完成した後の『美努岡万墓誌』の墓誌には日本書紀どおりだが、個々の天皇を区別しておらず、『日本書紀』の記述方法と同じ思想による記述方法で、私の言う「宮天皇」である。
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