徐福伝説は邪馬台国と共に諸説かまびすしい話題だけど、誘致合戦の感情に訴えるだけの騒ぎになっていて、そこには科学など一つもなく、蓬萊山は富士山に決まっているというような論調だ。徐福は秦の始皇帝の時代の話で『史記』でも『後漢書』でも黄河流域から揚子江流域の話題として出現して、場所は東南方向にあるとか、会稽から出発と書かれてむつかしい船旅だ。『太平御覽』では沖縄を思わせ、沖縄に渡るには会稽出港は理にかない、沖縄に渡るには黒潮の横断が必要で古代船では余程の技術が無ければ漂流の憂き目にあい、うまくすれば日本の太平洋側に打ち上げられる可能性があるが、その場所が10世紀に呉の風俗に似ているとは思えない。
『史記』 卷一百一十八
淮南衡山列傳 第五十八
「使徐福入海求神異物・・・即從臣東南至蓬萊山・・・徐福得平原廣澤,止王不來」
『後漢書』 卷八十五 東夷列傳第七十五
又有夷洲及澶洲傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海 求蓬萊神仙不得徐福畏誅不敢還遂止此洲丗丗相承有數萬家人民時至會稽市會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者所在絕遠不可往來
『太平御覽』
紵嶼人 外國記曰 周詳泛海,落紵嶼。上多紵,有三千餘家,云是徐福僮男之後,風俗似吳人。
中国の東夷観は、史記では直接戦闘する相手で東夷と戦っている国は、中原や黎山が山西省、太室・殷・周・陳・睢が河南省、鄭が陝西省、魯・齊が山東省、楚が湖北省にあり、東夷は中国国内山東半島や淮水河口部を想定していて、漢代で初めて朝鮮北東部と思われる蒼海郡が東夷と呼ばれるようになった。魏長城・楚北城などの万里の長城は南北に走り、斉長城は山東半島に対しているように見られる。日本列島に行こうにも間に東夷が存在し、秦が征服したのは遼東半島西部までで山東半島部は最後の征服地だ。
『史記』
帝堯 請流共工於幽陵,以變北狄;放驩兜於崇山,以變南蠻;遷三苗於三危,以變西戎;殛鯀於羽山,以變東夷:四辠而天下咸服。
卷四
周本紀 第四
「成王既伐東夷,息慎來賀,王賜榮伯作賄息慎之命」
卷四十
楚世家 第十
伍舉曰:「桀為有仍之會,有緡叛之。紂為黎山之會,東夷叛之。幽王為太室之盟,戎、翟叛之。」
春秋左傳
僖公四年 「鄭申侯曰,師出於陳鄭之間,國必甚病,若出於東方,觀兵於東夷,循海而歸,其可也」
僖公十九年 「夏宋公使邾文公,用鄫子于次睢之社,欲以屬東夷」
文公五年 「打開字典 顯示相似段落 六人叛楚,即東夷,秋,楚成大心,仲歸,帥師滅六」
文公九年 「秋,楚公子朱自東夷伐陳,陳人敗之,獲公子茷,陳懼,乃及楚平。」
襄公二十六年 「而逸楚囚,楚師宵潰,晉降彭城,而歸諸宋,以魚石歸,楚失東夷,子辛死之」
襄公二十九年 「誰得治之,杞,夏餘也,而即東夷,魯,周公之後也,而睦於晉,以杞封魯」
昭公四年 「夏桀為仍之會,有緡叛之,商紂為黎之蒐,東夷叛之,周幽為大室之盟」
昭公五年 「冬,十月,楚子以諸侯及東夷伐吳,以報棘,櫟,麻,之役,薳射以繁揚之師」
昭公十一年 「・・・桀克有緡,以喪其國,紂克東夷,而隕其身,楚小位下,而亟暴於二王,能無咎乎」
哀公十九年 「秋,楚沈諸梁伐東夷,三夷男女,及楚師盟于敖」
『漢書』
「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫」
「東夷薉君南閭等口二十八萬人降,為蒼海郡」
「莽復奏曰太后秉統數年・・・越裳氏重譯獻白雉,黃支自三萬里貢生犀,東夷王度大海奉國珍」
更に徐福の向かった蓬萊山は『山海經』の「海内東經」に書かれていて、海内は渤海・黄海・東シナ海のことで、朝鮮半島から会稽山までのことが書かれ、『漢書』でも渤海に属すと書かれている。越とともに朝貢するまで会稽地域に有った越と交流していた倭人は周に越とともに朝貢していたため、倭人から聞いた蓬萊山を求めて、倭人から聞いた航路で会稽近辺から出発した。しかし、技術が無く難破して帰ることができなかったが、越の人々は倭人と共に沖縄と交流して呉の風俗が流入したのではないだろうか。中国文献を読めば蓬萊山は渤海・黄海に存在しそうで、済州島が第一候補になりそうだ。
『山海經』 海內東經
「鉅燕在東北陬・・・蓬萊山在海中・・・會稽山在大楚南」
『漢書』 卷二十五下
郊祀志 第五
「臨勃海,將以望祀蓬萊之屬,幾至殊庭焉」
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