3.『日本書紀』と『古事記』
『日本書紀』は正史であるのだが、「元正天皇」やまだ生存中の「元明天皇」が認めているにも関わらず偽書説や官僚が勝手に書いた物語やら継体天皇以降は信じられるなどと恣意的に正しい部分を決めたりしている。
しかし、これも『古事記』と同じで、在位年数や寿命が長いと言って、他国の史書と合わないと言って間違いとしているが、これらの人々は中国史書が間違いなどと言っている人物がほとんどで、自説が正しく古文書が間違いという、論理とは言えない妄想を唱えている。
しかし、『古事記』と同じ理由でこれらの人物は論証しなおすべきで、古書の矛盾は矛盾とならない読み方をまず考えるべきであり、そして、まさに『日本書紀』には矛盾が存在しているために偽書扱いしているのだが、矛盾を矛盾でない読み方を私は考えている。
矛盾の一つが「元明天皇」の夫の名前で、『日本書紀』では「草壁皇子」、『続日本紀』では「日並知」なのだが、巷間では諱だと言って意に介していない。
しかし、『日本書紀』の皇太子を見ると2つ名を持つ太子はいるが、無い太子もあり、有る皇子は臆病者で、ない皇子は勇敢とでもいうのだろうか。
さらに、「元明天皇」の姉妹で義母でもある「持統天皇」の母親の名前が解らないのではなく、誰だったかわからないというのは異常で、「元明天皇」と「持統天皇」の血縁関係を疑わざるを得ず、「元明天皇」と「日並知」は「持統天皇」と血縁がない無関係の可能性が高い。
さらに、『古事記』の序文では「元明天皇」を「可謂名高文命、徳冠天乙矣」と中国の著名な初代皇帝より優れていると、初代皇帝になぞらえ、従来「天武天皇」と考えられてきた序文の「飛鳥浄御原天皇」だが、その天皇を「道軼軒后、徳跨周王」と中国の殷末の著名な臣下と対比して臣下の様に記述した。
しかも、まだ即位していないのに「飛鳥浄御原天皇」の時代に潜伏していて突如帝位を奪ったと記述している。
この後から帝位を奪った人物が「元明天皇」の先代の人物の「文武天皇」以外考えられない記述をしていて、すなわち、これは「天武天皇」から「文武天皇」に政権が遷ったことを示している。
したがって、『日本書紀』の持統紀は「文武天皇」と併存していたことになり、『日本書紀』を1代後にずらさなければならない。
本来の皇位は天智→天武→文武→元明とつながって「持統天皇」が正当な天皇で、「元明天皇」は707年から「安万侶」が『古事記』を記述しだした和銅四年711年までに正式な皇位を得ることになったと読まなければ辻褄が合わない。
4.飛鳥浄御原京と藤原京
したがって、持統11年が707年から711年と想定されるということは持統元年は696年から700年の間となる。
そして、『古事記』序文に「飛鳥浄御原天皇」が天皇の時政権を奪ったと書かれているのだから、696年まで「天武天皇」が即位していたことになる。
しかし、この時期は「飛鳥浄御原京」ではなく「藤原京」になってしまうということは、『日本書紀』の「藤原京」も一代ズレて「飛鳥浄御原京」だといえる。
実際、『続日本紀』の704年に「始定藤原宮地」と都を藤原に始めて定めたと記述してあり、すると、694年12月に遷った宮は「藤原」ではなく「飛鳥浄御原」だということになり、「天武天皇」は「飛鳥浄御原」に即位してから入っている。
したがって、「天武天皇」は695年の即位ということになり、天武15年は709年にあたり『続日本紀』では翌年「平城京」に遷り、『続日本紀』では704年から「藤原京」が首都だ。
しかし、『日本書紀』では「藤原京」が消えてしまって「飛鳥浄御原京」ということになり、「飛鳥浄御原京」の「天武天皇」は実際には「天武天皇」・「文武天皇」・「元明天皇」の「平城京」に遷都するまでのことになる。
そして、これらの天皇と並行して「持統天皇」がいて「藤原京」に途中で移っており、すなわち、『続日本紀』に翻訳すると持統9年が710年と考えられる。
すなわち、701年から712年まで続いた正式な天皇が存在して712年に正式に「元明天皇」に皇位を譲った天皇ということになり、臣下の「文武天皇」、初代天皇「元明天皇」と『古事記』序文とピタリと当てはまる。
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