2018年1月22日月曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 飛鳥浄御原宮の考察6

.金石文と飛鳥浄御原宮4

資料12の伊福吉部臣徳足比売墓誌 は710年の銘で707年二月従七位下賜で大村骨臓器銘文と同じ背景になり、705年以降は「藤原大宮御宇天皇」だ。
資料12
伊福吉部臣徳足比売墓誌 金石文字墨帖一覧
因幡国法美郡伊福吉部徳足比責臣
藤原大宮御宇大行天皇御世慶雲四年歳次丁未春二月二十五日従七位下被賜仕奉実
和銅元年歳次戊申秋七月一日卒也三年庚戊冬十月火葬即蹟此虚故末代君等不膳崩壊上件如前故謹録鐸和銅三年十一月十三日己未
続日本紀
慶雲四年二月甲午 天皇御大極殿。詔授成選人等位。親王已下五位已上。男女一百十人各有差。・・・

資料13の粟原寺鑪盤銘は715年に記述されたと思われる銘だが、なぜ、草壁皇子薨後5年(694年)に粟原寺建立で、なぜか建造に20年もかかり、なぜか藤原宮持統天皇「浄御原宮天下天皇」と記述し、なぜか唐突に臣下「比賣朝臣額田」が出現し、なぜか日本書紀では草壁皇子が続日本紀の「日並」なのか。
資料13
粟原寺鑪盤銘
此粟原寺者、仲臣朝臣大嶋、惶惶誓願、奉為大倭国浄御原宮天下天皇時、日並御宇東宮、
故造伽檻之、爾故比賣朝臣額田、以甲午年始、至和銅八年
日本書紀
天武天皇十二年十二月丙寅 遣諸王五位伊勢王。大錦下羽田公八國。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。
天武天皇十三年十一月戊申朔
天武天皇十四年九月辛酉 ・・・是日。宮處王。難波王。竹田王。三國眞人友足。縣犬養宿禰大侶。大伴宿禰御行。境部宿禰石積。多朝臣品治。釆女朝臣竹羅。藤原朝臣大嶋。凡十人賜御衣袴。
持統三年四月乙未 皇太子草壁皇子尊薨

日本書紀どおりなら、持統天皇が文面に全く出現しないし、浄御原宮天下天皇が持統天皇なら後浄御原宮天下天皇と表記すべきで、大嶋の妻はこの銘が出自で、どうして持統天皇はすぐに栗原寺を建立出来なかったのか
新しい年表なら、大嶋が藤原姓を名乗る684年以前または695年以降は浄御原宮天下天皇だが、715年銘記なので、浄御原宮天下天皇の「時」が付加されており、日並が奈良天皇家の東宮で、比賣朝臣額田なる人物は解らず、文章を普通に読めば日並の親が大嶋すなわち日並の妻すなわち元明天皇が額田で文武天皇は臣下仲臣朝臣であり、政権を完全に掌握後建立したとしか読めない。
朝臣という姓が持統天皇や元明天皇の縁者では有り得ず、あっても真人で皇女や皇子などでなければいけない。
まとめると、大嶋が家督を継いだ浄御原宮天下天皇時681年頃から日並が跡取りだったが、694年薨じ、追悼の寺の建立を願ったが大嶋も卒し元明天皇が意思を継いで栗原寺を建立したということではないか。
それほど身分が高くない人物が薨じた皇太子のために寺を作る程の財力があるのだろうか。
豊御食炊屋姫は額田部で比賣朝臣額田と関係がありそうで、古事記では欽明天皇は蘇我氏と姻戚で、欽明天皇時に中臣連鎌子が急に出現し、以降中臣氏が活躍していて、タイミングが良すぎる。
寺の建立に臣下が名前を大々的に銘盤に記述することは考えられず、普通は臣下が建立したとしても天皇が命じて大嶋が建立したと記述して、天皇を持ち上げる記述があるはずで、比賣朝臣額田は不要である。

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