2018年1月12日金曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 飛鳥浄御原宮の考察2

.郭務悰はいつ帰ったか
 郭務悰は白村江の戦後処理の対日担当者で何度も来日しているが、最終的にいつ帰ったかというと、壬申の乱の新しい年表の695年である。
資料1の造仏記事は中国や朝鮮から送ったものでなく九州から送ったもので、資料2の天智天皇に対しては死後も九州から東を向いて再拝して、5月に帰国と記述されている。
おそらく、在日中は海軍力増強をしないかと監視し政治に口出しを行い、そして、口出しする郭務悰は中国との中継基地九州の都督府に駐留していたのではないか。
数千人は軍にしては少なく、使節団には多過ぎ、九州での駐留の人員としては適正な規模で、日本は軍隊として数万人を百済に送っている。
その後、天武天皇は郭務悰帰国後695年壬申の勝利の乱で郭務悰お気に入りの大友皇子の首を掲げた。
天武天皇元年郭務悰離日後、天武天皇治世中に唐からの来日はなく、天武天皇十三年に大唐學生が来日するまで空白であるが、天武天皇十三年は新しい年表の707年で、持統天皇四年の新しい年表の706年の大唐學問僧と同じ記事と思われ、すなわち、天武天皇に対して中国は交流を止めた。

4.戦場の飛鳥浄御原宮
  天智天皇は667年から694年まで在位したと論じたが、新しい年表には4つの宮で在位したことになる。資料4のように、665年の小墾田宮は難波京の東宮有間皇子が入っていた場所に天智天皇が入り、668年近江に遷都、678年飛鳥川原宮に遷都した。
685年の遷都記事は無いが天智天皇は近江大津宮天皇と呼ばれているので、近江大津宮に戻ったのだろう。
そして、皇太子は、天智天皇が若くして天皇になったため、長男ではなく弟、おそらく孝徳天皇の弟が東宮大皇弟となり、671年には、資料4のとおり正月には大皇弟が五月には皇太子となっていて、大皇弟は皇嗣から外され、居場所のない皇太子の弟大友皇子はどこに宮を置いていたのだろうか。
大友皇子が宮を作る年齢になったときはおそらく飛鳥川原宮に遷都した時期ではないだろうか。資料2の天智天皇10年671年には大友皇子がおそらく13歳そこそこで太政大臣にして、逆に既に病弱になって2年以上たっての太政大臣も異様だ。
この671年に飛鳥遷都時に近江大津宮での政務を新しい皇太子に任せ、681年に皇太子を廃位して大友皇子を皇太子にして、再度685年近江に遷都するとき大友皇子は飛鳥川原宮に残し政務をまかせたのではないか。
この飛鳥川原宮はおそらく都督府と同じ場所にあり、郭務悰と調整しながら政務を行っていたのではないかと思われ、672年から690年まで饗応記事はほとんど筑紫になっている。
郭務悰は670年から695年まで九州に常駐していたので、造仏以外全く現れないのは、筑紫に朝廷があったからと思われる。
そして、郭務悰が帰国するまで、大友皇子が天智天皇の代理として郭務悰と共に飛鳥川原宮を朝廷として統治していた。
すなわち、飛鳥川原宮と近江大津宮は並行して続き、郭務悰に認められた大友皇子を後継にしようと681年に天武天皇を皇太子から引きずり下ろし、眞人という臣下にし、東宮大友皇子とし、694年に崩じた。
日本書紀での饗応を確認すると、筑紫の饗応が668年から690年までしかなく、21回筑紫で、その間、4回が飛鳥寺、難波が1回、解らないすなわち都で3回で、合計29回とほとんどが筑紫で饗応しているということは、郭務悰が滞在中は首都が実質筑紫にあったことが解かる。
ちなみに、上記以外では宣化天皇以降47回饗応があり、飛鳥寺2回、難波9回で圧倒的に都で行っている。
飛鳥寺、難波もどこに指定するかで議論が異なるだろうが、饗応は普通、首都で元首が行うもので、記述しているのは首都以外で元首が行った饗応、天智天皇の川原の宮遷都も川原の宮に常駐した饗応で、近江宮が名目上の首都だったと思う。
もちろん、飛鳥寺も神社仏閣の寺ではなく、鴻臚寺すなわち役所の寺で、657年から688年までしか現れておらず、九州の鴻臚館の前身か。
すなわち、筑紫で饗応したとき、首都機能は別にあったが、郭務悰がいる筑紫が結果的に首都となり、天皇もしくは最高実力者も筑紫に滞在していた。
天武天皇元年、新年表695年、大友皇子が皇位を受け継いだことを見届け郭務悰が帰国すると、天武天皇が中国傀儡政権打倒を合言葉にしたか蜂起し皇位を奪い、飛鳥川原宮と日本書紀に記述した飛鳥浄御原宮で、天武天皇元年、新年表695年7月26日壬申の日に勝利したが、中国に警戒感を与えた。
天智天皇に、ついて回る宮資料は4回変わって最後は近江大津宮であるが、大友皇子の宮飛鳥浄御原宮は天皇になっていないので、天皇の宮としては残らなかったが、朝廷の宮としては672年以降飛鳥浄御原の時代であった。その後、文武天皇が701年2月29日壬申の日に吉野から帰った天武天皇をクーデターで飛鳥浄御原宮から追い出し、その守りは基肄城・大野城などが役に立った。
すなわち、資料5のように671年大友太政大臣就任から704年まで日本の首都は飛鳥浄御原であった。

資料3
『日本書紀』
天智天皇三年五月甲子 百濟鎭將劉仁願遣朝散大夫郭務悰等進表函與獻物。
持統四年十月乙丑 天命開別天皇三年。土師連富杼。氷連老。筑紫君薩夜麻。弓削連元寶兒四人。思欲奏聞唐人所計。縁無衣粮。憂不能達。
天智天皇十年十一月癸卯 對馬國司遣使於筑紫大宰府言。月生二日。沙門道文。筑紫君薩野馬。韓嶋勝娑婆。布師首磐。四人從唐來曰。唐國使人郭務悰等六百人。送使沙宅孫登等一千四百人。合二千人。乘船册七隻倶泊於比智嶋。
『旧唐書 仁軌伝』
麟德二年 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・四國酋長赴會 高宗甚悅
資料4
『日本書紀』
天智天皇即位前紀斉明天皇七年 ・・・皇太子遷居于長津宮。・・・
皇極天皇元年十二月壬寅 天皇遷移於小墾田宮。或本云。遷於東宮南庭之權宮
天智天皇六年三月己卯 遷都于近江
斉明天皇元年是冬。災飛鳥板盖宮。故遷居飛鳥川原宮
天智天皇一〇年正月 甲辰。東宮太皇弟奉宣
天智天皇一〇年五月丁酉朔辛丑。天皇御西小殿。皇太子。
資料5
『日本書紀』
持統八年十二月乙卯 遷居藤原宮。・・・710年
『続日本紀』
慶雲元年十一月壬寅 始定藤原宮地。 ・・・704年

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