2018年2月5日月曜日

最終兵器のミサ 海外文献 『三國史記』1

 『三国史記』には「赫居世王」・「東名王」・駕洛國「首露王」と初代の王は全て卵生説話で登場し、百済は 東名王と同じとする卵から生まれた朱蒙の子孫と記述して、中心的王は全て卵の子孫になる。
ところが、脫解王は初代でもないが、昔氏の始祖ということからか卵から産まれたことになっている。
伝説の檀君も殷の流れを、辰韓も秦の流れをくむと呼ぶように他民族の王を受け入れそれを濁すための卵説話、父親は他民族のためあやふやにして母系が朝鮮民族の末裔と記述しているように感じる。
そのため、脫解は母親が日本人にも拘らず卵生としているのは、父が朝鮮人で母が日本人だから卵生と記述したように感じる。
『三國史記』卷一 新羅本紀 第一 
始祖 赫居世居西干 
「只有大卵,剖之,有嬰兒出焉,則收而養之,・・・六部人以其生神異推尊之,至是立爲君焉。」
脫解尼師今
「脫解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里・・・娶女國王女爲妻・・・乃生大卵 王曰人而生卵不祥也」

 辰人が朴姓を与え、紀元前50年に倭人が侵略してきたので、紀元前27年に皇子日槍が日本に支援を得るため来日して、その結果、紀元前20年に倭人の瓠公が新羅を支援したようだ。
また、西暦59年の新羅の王子の曽孫の清彦説話と西暦57年の脫解王の王位継承説も『三国遺事』ではやはり瓠公が脫解王を見つけており無関係とは思えない。
日本書紀での約80年の日槍から清彦への経過は矛盾が無く、約110年の赫居世居西干から儒理尼師今は長すぎるが、瓠公が赫居世居西干38年に出現して脫解尼師今を見つけているのだからどこかの王が重複していることが解り、私が見つけ出した古代天皇の皇位継承と同じことが新羅の王室で起こっている可能性がある。
『三國史記』卷第一
「辰人謂瓠爲朴,以初大卵如瓠,故以朴爲姓,居西干,辰言王或云呼貴人之稱。」
八年,倭人行兵,欲犯邊,聞始祖有神德,乃還。
三十八年・・・瓠公者, 未詳其族姓,本倭人,初以瓠繫腰渡海而來,故稱瓠公。
『日本書紀』 垂仁天皇三年三月
「天日槍對曰。僕新羅國主之子也。然聞日本國有聖皇。則以己國授弟知古而化歸之。仍貢献物葉細珠。」
「故天日槍娶但馬出嶋人。太耳女。麻多烏。生但馬諸助也。諸助生但馬日楢杵。日楢杵生清彦。」
垂仁天皇八八年七月戊午
「新羅王子。名曰天日槍。則留于但馬娶其國前津耳女。麻能烏。生但馬諸助。是清彦之祖父也。」

 『三國史記』では西暦173年に卑彌乎が新羅に訪問しているが、これも史実と矛盾しているため古代文献の信頼性を貶めている1つになっている。
しかし、西暦173年は『日本書紀』では政務天皇43年にあたり、政務天皇を私は卑弥呼の時代と論証しており、私の年表に換算すれば西暦243年正始四年となり、「倭王復遣使」の時に新羅まで同行すれば矛盾が解消する。
朝鮮には卑弥呼が政務天皇の時代という資料が残っていた可能性があり、『三国史記』・『日本書紀』の内容を再検討する必要があり、『三国志』まで新羅・百済は中国史書に記述が無い事に注目すべきだ。
『三國史記』 卷第二 阿達羅尼師
「二十年 夏五月 倭女王卑彌乎遣使來聘」

 すなわち、 赫居世居西干の王室はまだ馬韓のもとの小さな小国の国盗り物語が始まったばかりで、中国晋朝頃に馬韓地域を統一したのだろうが、後代支配した王朝は遠慮することなく建国時が統一王朝と呼ぶのは当然の行動だ。
古田史学のように遠慮して701年まで年号を発布しない王など存在せず、701年に政権を奪い取ったから年号を発布したのであり、前政権は継続して違う年号を使い続け、大長年号の終了が前政権が滅んだときだということだ。
百済が破れたからと言ってすぐに滅亡したのではなく、熊津都督府の都督となっているようで、日本もすでに天智天皇が政権を奪取していたが、670年まで名目上以前の政権が大宰府に存在し、政権が変わって日本と国号を改めたと考えるべきだろう。

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