2018年2月21日水曜日

最終兵器のミサ 「邪馬台国論争」の論文解説2


2.邪馬台国への行程の考察
 「邪馬台国論争」批判のため『三国志』の行程を検討した。
壱岐の直径は16Km弱、対馬は長径70Km弱と短径15Km弱で、島全体で1国か複数の国かわらないが、朝鮮から対馬が最短で55Km強、接点経路で最短80Km強、対馬と壱岐は最短55Km弱、接点経路で最短60Km弱、壱岐から唐津が最短40Km、接点経路の最短45Km強ですべて千里と書かれている。
 千里の道程を地図で距離を測定し、最大値と最小値を全部水行と島内歩行も調べてみた。

里単位を長里だいや短里で1里70mといろいろ述べられているが、私たちの目に映る現実では1里50m強とする以外、壱岐の直径が16Km弱という事実がある以上動かすごとができない事実である。
 壱岐島の直径が最大16Kmで方3百里という事実が厳然と有り、3百里が間違いとしない限り1里50~60mとなり、これが私の仮説で、論理に整合性が無ければこの仮説が否定される。

すなわち、千里は50Kmくらいで、接点間の距離では最大千6百里と1.5倍になり百里にこだわった、「張政」を送り込んで行程をよく知っている『三国志』としては大雑把すぎるので、国境の最短距離と考えた方が合理的で、到着地から出発地の間は陸行でないと辻褄があわない。
 1里50mなのだから、接点間の行程は正しいとは考えられないが、どちらの説も否定せず検討する。

仮に接点を通るすべて水行とすると、「奴国」からの残余1400里は70Km程度で「不彌国」を各説に有利なように想定して、福岡市から南方向で測ると大牟田市近辺で、筑後山門までの千里程度をとおりこし、東方向とすると直線で北九州市になり大和に足りず、大和なら直線でも1万里となり、大牟田や北九州では鏡、絹、古墳、環濠集落が合わない。(図1)
 接点行程で島内歩行を否定すると1400里(70Km)を検討しなければならず、実際に地図上で従来説に有利なように検討したが、従来説の地域は距離が合わないことが解った。

さらに、仮に「奴国」からの残余1400里のみ長里にすると、東方向は大和辺りにできるが、水行の日数が「投馬国」まで二十日(330Km)とされているので水行十日(150Km)以上、または、陸行を含めると着船場所もわからないし、1月もかからず、「伊都国」から1400里は筑後山門も奈良大和も行程では証明できない。
 畿内説に有利な部分長里でも地図上では合わない。

そこで、水行十日を一月の間違いとさらに都合よく間違わせるのであり、「投馬国」の南1万2千里では沖縄になってしまい、水行十日では着きそうもなく、陸行で1月も歩くところが無く、国名も「琉球国」で「倭国」とは言えない。
「投馬国」を東行にすれば、「不彌国」から東でよく、「投馬国」を記述した必要性、なぜ西回りの水行にしたかが問われてしまう。
 現行説では到底目的地に到着できないことが解るので、好き放題に文字を書き換えていることを説明している。

一層のこと、全部書き換えた方が早く、距離は千里で「山門国」の間違いだ、東1万2千里で「大和国」の間違いだとすれば良いのだが、これでは身も蓋もないからだれも論じないが、従来説は同じことを、言い方を変えて論じている。
 従来説は全て『三国志』を書き換えてしまっているのと同じだと論じている。

しかも、『後漢書』も『梁書』も『隋書』もすべて「倭国」まで「樂浪郡徼去其國萬二千里」、「去帶方萬二千餘里」、「古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在」と全て郡から「倭国」まで『三国志』と同じ「自郡至女王國萬二千餘里」と「郡」から「倭国」まで1万2千里なので『三国志』を認証している。
 『後漢書』から『隋書』まですべて一萬二千里でその間の史書は全て否定していないことを述べ、『三国志』が間違いなら、この間の史書は全て間違いになってしまい、証明に使える史書が無くなってしまう。

『旧唐書』で「多自矜大 不以實對 故中国疑焉」と疑いながらも、初めて「去京師一萬四千里」と「西安市」から「郡」の直線千5百Km、「福岡」から「大和」まで直線5百Kmとして2千里増やしたが、2千里と2千Kmでは1万2千里と合わせて1万4千Kmになるが、西安から大和を通り越してシカゴまで行ってしまい、すなわち里単位が変わり、唐朝では「西安・大和」間の約3千5百Kmで一萬四千里だったことがわかる。
 遅くとも梁時代から変わった中国の里単位だったが『梁書』・『隋書』はそのまま日本の言い分を使い、唐時代から倭国に対する里単位が変わったことを述べた。


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