2018年2月28日水曜日

終兵器のミサ 「邪馬台国論争」の論文解説5

4.邪馬台国の考察
 『三国志』が正しい場合の邪馬台国を考えてみた。

従って、「千餘家」の「不彌国」の南に「二萬餘戸」の「奴国」と「七萬餘戸」の「邪馬台国」、国境が東西9、南北1の長方形の地域を探さなければならない。
「不彌国」の南に国境間0里が「邪馬台国」なのだから、「不彌国」がわかれば「邪馬台国」もわかり、何としても探さなければならない。
  不彌国の南が邪馬台国なのだから不彌国が解れば邪馬台国がわかり、不彌国南には奴国と邪馬台国がある細長い国が無ければならない。

「千餘家」の90倍の「九萬餘戸」、短径の1辺と長径の1辺が9から10倍なのだから東西に細長い地域でなればならないのだが、そんな場所が博多湾には存在し、能古島、志賀島、海の中道の地域である。
糸島半島東南端の博多湾で「伊都国」と5Km空いた国境を持ち、南に博多湾をはさんで「奴国」が有り、海の中道で糟屋郡や東区と接する地域で、国境間の距離0里、従って、「邪馬台国」は糟屋郡、東区、博多区と『三国志』は述べている。
 足りない里数は後程証明するが、『三国志』を正しいと考えると不彌国は博多湾に浮かぶ島と博多湾に突き出る半島しか有り得ない。

実態として「不彌国」が博多湾岸も領地で、「奴国」をとおらないで「邪馬台国」に着いたか、博多湾岸が領地でなく「奴国」をとおって着いたか、船を使ったか『三国志』には「東行」と書くのみでわからないが、「不彌国」から南なのだから海の中道経由なのだろう。(図2)
 博多湾は北東に海岸線を持つためほとんどの場所で南は奴国になってしまい、海の中道の付け根以外南に邪馬台国は無い。

「邪馬台国」が朝倉や小郡も可能性無しとは言えないが『日本書紀』の「曰御笠」の文面から「南有狗奴国」と「狗奴国」の可能性が高いが、筑後川を挟んだ対立でも『日本書紀』と内容がかけ離れてはいない。(図3)
邪馬台国が博多湾以外も一応別の可能性を考えている。
しかし、『三国志』の「東南至奴国百里」と動詞のない、行かない「奴国」と「東行至不彌国百里」の動詞のある、行く「不彌国」の違いと、同じ『三国志』内のそれぞれの類例が最大のネックとなる。
動詞を省略する場合は類例で、目的地「邪馬台国」に対して「南至邪馬壹」のように、「到着」の意味で「奴国」が目的地になってしまうし、「投馬国」は「南水行二十曰到投馬」ではなく「南至投馬國水行二十曰」とわざわざ別文にし、「黒歯国」は「船行一年可至」と書いて「黒歯国」に行っていない。
 古田説の至の類例を再説明し、至の類例が間違いという文面を探し出さない限り否定できないことを述べている。

「不彌国」が大宰府では、大まかに「奴国」の東との記述になるが「奴国」の東南どちらかと言えば南に「不彌国」になって微妙であり、『三国志』は東と東南を区別しており、さらに、女王が戦場となる不安定な場所に都を持つことは考えられない。
 至を否定したとしても方角も間違いとしなければ論理が成り立たないと述べている。

また、「梁」が「不彌国」から「投馬国」さらに「邪馬台国」とはるか南方にして「邪馬台国が朝倉・小郡」を否定する理由がなく、「梁」が倭の里単位を信用した間違いで、『隋書』が「夷人不知里數」と「倭国の里程は里数を知らず間違い」と同時代史書が『梁書』の「倭国里程」を否定している数少ない類例だ。
 『梁書』は『三国志』を否定しても不彌国を海岸線の国とであることは理解して、『梁書』は「邪馬台国が朝倉・小郡」を否定していて、『隋書』は『梁書』が間違いで倭人は里単位を知らないから合わないと証言している。

唐時代、既に倭国の里単位が違うことが解っていても、対象の時代の目を通して史書を記述していることがよくわかり、『後漢書』も『三国志』の写し間違いでなく、「後漢」時代の目で見た「邪馬台国」と考えるべきで、後漢時代には邪馬台国と呼ばれ、魏・晋時代には邪馬壱国と呼ばれていた。
中国史書は史書を書く時代では異なる里単位・異なる国名でも対象の時代をもとに書いていることを述べた。









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