3.古田説の考察2
ところが、同じように国境間で読み従うと、「伊都国」東南の「奴国」は日向峠をこえた福岡市西区・早良区・城南区あたりとなるが、千餘家の同じく福岡市西区北端の「不彌国」の南はやはり福岡市西区を含む「二萬餘戸」の「奴国」になってしまう。
⇒ これも古田説の矛盾で不彌国が奴国より広い時のみ邪馬台国が不彌国の南になる。
「不彌国」を人口1千万のベルギーとすると人口6千万のフランス3.5国分と人口8千万のドイツの9国分がベルギーの南に接していると表現していることと同じで常識外れの論理になって、その疑義は『梁書』に現れた。
⇒ 千戸の不彌国の南に2万戸の奴国と7万戸の邪馬台国を現代の感覚で例示した。
訪日していない「梁」は「倭国」を琉球の地にしてしまい、同時期に書かれた『隋書』では「裴淸」が訪日しているため、「夷人不知里數但計以日」と「隋」の里単位と合わずに里程を知らないと決めつけたが、「倭」の里単位と「隋」の里単位が違う旧南朝の里単位を「倭」がまだ使っているという意味で、距離も「古云」と記述して「隋朝」の里単位と異なるとしめしている。
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梁と隋の日本の里単位に対する印象の差を述べ、唐初に書かれた史書間に日本の里単位のとらえ方に差があり、差の理由である来日と伝聞の違いを述べた。
同時代に書かれた『梁書』に日本人の距離を述べた「其國有沙門慧深來至荊州
説云
扶桑在大漢國東二萬餘里」と記述があり、倭人が距離を知らないことを否定しているので、来日した「隋」が倭人の距離の話を知らないはずがない。
⇒ 倭人は訪中し、また隋使節が倭を訪問しているのだから古云を確認しているはずで、確認したから距離が違うと考えた。
もちろん「梁」でも倭と里単位が違うようで、1万2千里を陸行1月水行10日では足りないため、はるか南方と考えているが、この疑義も「不彌国」の位置に疑いがあるため発生したことで、土地勘があれば『隋書』のように里単位を知らないと記述したと思われる。
⇒ 『隋書』が『梁書』の日本国内の里単位を否定し、『梁書』のみが不彌国まででは1万2千里に遠く及ばないから、投馬国から更に10日水行・1月陸行を付け加え、合計水行40日・陸行2月にしてそれでも着かないが長里に合わせたと述べた。
そして、古田説の詳細な調査による、「奴国傍線行程」の理論は論理的で、「至」の類例が有り、否定する論証はかなり困難で、同時代の文献にこの類例は間違いと言及した文を探し出さない限り否定できない。
⇒ 古田説の良い点は『三国志』が正しいと述べたことと『三国志』を徹底的に調査した点で、科学的に調査したものは正しいとした。『三国志』が正しければ証拠とできる。
また、「奴国」の東に「不彌国」があっても、「不彌国」は小さすぎて、「奴国」の東または南に「邪馬台国」が存在し、「不彌国」を記述する意味がない。
「奴国」の東ではなく東南にして「不彌国」を南方の大宰府市に移動すると「邪馬台国」は小郡や朝倉だが、『日本書紀』に「皇后欲撃熊鷲而自橿日宮遷于松峽宮時飄風忽起御笠堕風故時人号其處曰御笠也」と記述され、「不彌国」にある御笠は戦いの最前線で、首都が戦いの中では訪中も来日もできない。
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一応、不彌国を奴国の東とした場合の矛盾を述べ、やはり『三国志』を書き換えないとどの説も証明できない。
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