2018年2月7日水曜日

最終兵器のミサ 海外文献 『三國史記』2

 再検討の一つとして、神功皇后紀の新羅皇子の人質の記述は417年の朴堤上の記述と対応しており、日本側の目付け役の葛城襲津彦は456年死亡した圓大臣の祖父で年代的に符合する。その他にも神功皇后紀・応神天皇紀の朝鮮王の死亡記事が矛盾している原因は神功天皇を武内宿禰の時代と葛城氏の天皇が記述した結果と思われる。
『日本書紀』
神功皇后摂政前紀 「爰新羅王波沙寐錦。即以微叱己知波珍干岐爲質。」
神功皇后摂政五年 
「副葛城襲津彦而遣之・・・載微叱旱岐令逃於新羅・・・既知欺而捉新羅使者三人。納檻中以火焚而殺」
『三國史記』 卷四十五 列傳 第五 朴堤上
「堤上仕爲歃良州干先是實聖王元年壬寅 與倭國講和 倭王請以奈勿王之子未斯欣爲質」
「行舟勞困 不得夙興 及出 知未斯欣之逃 遂縛堤上・・・未幾使人以薪火燒爛支體」 

 物部氏の王朝であった神・秦王国・日本との友好的な冊封関係だった新羅は新しい倭人の扶桑国・倭国が名目上同等の関係が力によって押さえつけられた。
そして、再度、物部氏が政権を奪取した時、秦王国や倭国の女王炊屋姫(大刀自)のために唐との仲介を行ったが、扶桑国の後裔の蘇我氏が皇位に就き百済と同盟した為に敵対することになったように見える。
『舊唐書』  卷一九九上 東夷伝 倭國 日本
「至二十二年 又附新羅奉表 以通起居」

 すなわち、最初の倭人の侵略の失敗も実際のところ、紀元前50年の『日本書紀』は崇神天皇四八年で垂仁天皇元年173年にあたって倭国大乱の倭王で、脱解王記事も西暦57年即位で垂仁天皇86年に即位なのだから私の年表では政務天皇の時代すなわち卑弥呼の時代にあたって女国になる。
南解次次雄王11年私の年表で卑弥呼即位7年に初めて倭国が侵略し、奈解尼師今十三年も卑弥呼10年の侵略、助賁尼師今3・4年も卑弥呼33・34年と考えられ、卑弥呼の訪新羅で融和して、台与3年に倭と講和するという流れと考えられる。
以降、物部王朝の崩壊で仲介者がなくなり、倭人との戦いは倭の5王との戦いの内容となる。『三国志』に韓と倭の騒乱を書かずに共存していると記述していることからも、この立場が正解に感じる。
『三國史記』 卷第一 新羅本紀第一  始祖赫居世
「八年 倭人行兵 欲犯邊 聞始祖有神德 乃還」
卷第一 新羅本紀第一  脱解尼師今
「脱解尼師今立・・・其國在倭國東北一千里 初其國王 娶女國王女爲妻」
卷第一 新羅本紀第一  南解次次雄
「十一年 倭人遣兵船百餘艘 掠海邊民戸」
卷第一 新羅本紀第一  祇摩尼師今
「十二年 春三月 與倭國講和」
卷第二 新羅本紀第二  奈解尼師今
「十三年 春二月 西巡郡邑 浹旬而返 夏四月 倭人犯境 遣伊伐飡利音 將兵拒之」
卷第二 新羅本紀第二  助賁尼師今
「三年 夏四月 倭人猝至圍金城 王親出戰 賊潰走 遣輕騎追撃之 殺獲一千餘級」
「四年 倭兵寇東邊 秋七月 伊飡于 老與倭人戰沙道 乘風縱火焚舟 賊赴水死盡」

 この後の神功皇后や応神天皇の朝鮮記事は後代の内容の記事を記述しているが、これは、これまで述べてきた通り武内宿禰やその子供たちの内容や尾張氏・物部氏の大臣・大連の内容が記述されているからに他ならない。
七支刀を百済王が偉大だからと倭王に与えたと判断しているが、『三国史記』には1?月16日が丙午である254・258・284年の王の古尓王にそのような記事が無い。
書かないということは逆で倭に献上したために書かなかったするほうが矛盾無く、景行天皇が即位したときに改元するということは、すでに垂仁天皇の時代から元号を使用していた。
すなわち、七支刀の「秦?」は日本の元号または秦国の可能性があり、倭王の世子の誕生を祝って倭王に送りそれを物部氏の畿内政権に献上したため、石上神宮に奉納されたと考えるべきではないだろうか。
『日本書紀』
景行天皇元年(辛未71)七月己卯 「太子即天皇位。因以改元。」
石上神宮伝世の七支刀
泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供侯王■■■■作
先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世

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