2018年2月9日金曜日

最終兵器のミサ 家系図

 安寧天皇は綏靖天皇25年に安寧天皇が21歳で立太子して、8年後の綏靖天皇33年に安寧天皇が29歳で即位した。
その38年後に67歳で安寧天皇が亡くなったはずが57歳死亡になっているように、安寧天皇は21歳で既に天皇に即位していたことを以前に証明した。
すでに24年間綏靖天皇の長男が皇太子であり、皇太子は天皇と同格で皇太子も綏靖天皇だったが、2代目の綏靖天皇には子が無いか皇太子に就任できる年齢13歳に達していなかったため皇太弟または叔父の安寧天皇が皇太子イコール天皇に就任した。
異常に長い天皇の在位期間は数代の長男継承があり、一度長男以外が皇太子になると、長男が皇位を継げる年齢に達しても、実権は既に立太子した事実上の天皇が持っているため政権が戻らないとの仮説を得た。
このように考えないと「遅い立太子」と「長い生存期間」と「立太子前の太子」の説明ができなかったし、証明する事例が『日本書紀』に記述されていて、このように考えることで、神武天皇は紀元前181年の建国を証明した。
ところが、それを基に『先代旧事本紀』や『勘注系図』・『日本の苗字七千傑ページ』などを比べると、全く食い違っている。
日本書紀では持統天皇まで41代で世代にすると、重祚1名(豊財)・兄弟3(履中~允恭)・2(安康/雄略)・2(顕宗/仁賢)・3(安閑~欽明)・4(敏達~推古)・2(皇極/孝徳)・2(天智/天武)・2(持統/弘文)があって28世代と考えられる。
ところが、物部氏は17世代と12世代も少ないということは、1世代20年とすると約240年分以上抜け落ちていることが解る。
これは、大伴・中臣氏も同じで17・8世代で抜け落ちていて、実際は天皇家も多くの天皇が記述されていないのでもっと多数の人物が抜け落ちていることになる。
『先代旧事本紀』は推古天皇の時代に記述したとあるが、それぞれの大連就任の対応天皇が古事記どおりに記述されているように、物部家の伝説と天皇の照合を行い記述されていることが解る。
しかも、その天皇は天皇名ではなく、以下に記述する天皇以外は宮の名前で記述され、特に 允恭・継體は実際の伝承天皇が違うため後代の天皇名に書き換えたと思われる。
『先代旧事本紀』
「日本磐余彦天皇・神渟井耳尊天皇・磯城津彦玉手看天皇・大日本根子彦耕支天皇・観松彦香殖稲天皇・日本足彦國杵人天皇・譽田天皇・大萑天皇・允恭天皇・継體天皇」
 
すなわち、各系図は特定の天皇の画期でつないだものに過ぎず、『日本書紀』の神武天皇は天照大神から6世だが尾張氏は5世代、物部氏は4世代とズレ、尾張氏の世襲足姫は神武世代から4世代だが夫の孝昭まで5世代、物部氏の伊香色謎は6世代なのに夫開化まで9世代かかっている。
それに対して、大伴氏は高皇産霊から道臣まで10世代かかっているが、大伴御行から前に17世代数える道臣は崇神天皇と同世代で『日本書紀』では崇神紀に建国したと思われる記述がある。
中臣氏も御行と同世代の大嶋から18世代前が天種子になり建国前の世代となり、紀元前90年頃、現天皇家の孝昭天皇時、畿内政権の神武天皇が畿内に侵入したことが解る。
大伴金村は大伴御行から5代前で御行と同世代の持統天皇から5代前は推古天皇の世代になってしまい、『先代旧事本紀』では麁鹿火が14世御狩と同世代とし、金村と同じ世代とし、すなわち、金村・麁鹿火世代が継体・欽明天皇と同じ世代なのだから、敏達から推古天皇の世代は2世代後ろとなる。
やはり、各氏族の系図が『日本書紀』に合わせるのではなく、『先代旧事本紀』の天皇名が宮を基に記述しているように、世代は宮の世代で宮毎に兄弟として記述していると思われる。
本来親子関係で考えると1世代15から30年でおそらく平均すると長男相続で20歳位と考えられ、多紐文鏡出土の紀元前200年から持統天皇まで45世代程度必要になる。
ところが、偶然にも多くの家系が20代となるため、こぞって天照大神を卑弥呼だ、尾張氏の日女が、倭姫がと騒ぐが、ただ20世代、王の在位期間が20年位というに過ぎず、統治年数の長さ、年齢の長さ、立太子の遅さと年齢の矛盾に何ら説明できないでいる。
史書も系図も紀伝体で記憶され、どの宮の天皇の時代の人物かを当てはめられて記憶されていると考えるべきだろう。
武内宿禰の子たちの襲津彦・木菟・小柄・石川の世代が全く合わないのも、これが原因で、これらの兄弟は本来縦の時系列で分家の世代、天皇としては応神天皇・仁徳天皇なのだろう。
『日本旧記』が作成されるまで日本には編年体という概念が無かったから、『先代旧事本紀』も『古事記』も紀伝体で書かれていることから、動かせない事実だ。

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