今回、私は「しん」国とひらがなで題を書いたが、朝鮮人や日本人が「辰」(chen)国・「秦」(qín)国・「神」(shén)国と聞いて分別できるのだろうか。漢時代以前、馬韓が建国する前に「辰國」が統治していたと記述されているが、燕・斉・趙を跳び越して秦が朝鮮南部を支配したとは考えられない。
秦が中国を支配した20年の時代とすることも可能だが、『後漢書』・『三国志』で風俗が倭に近いと記述しているのに、『晉書』で秦人に類するとあたかも秦人が中国人でないように記述している。そして、辰人は朝鮮人の一角を占めて、「朴」姓を与えるなど力があるのに自ら王とならず、共立されて王となり馬韓人に自治させているが、紀元前100年以前衛氏朝鮮の右渠の時、漢に「辰国」が親書を持って接見を天子に申し出ている。
『三国史記』・『三国遺事』ではどちらも倭を悪者にしているが、『三国史記』の辰と『三国遺事』の日本は尊敬されているのに辰は忽然と消えて、後代には秦と記述される。
『三国遺事』に出現する日本を『日本書紀』で調べると、神武東征で銅鐸の国に侵略した時神武天皇は「神倭伊波礼毘古」次代の天皇は「神沼河耳」と神国に仕え大和の三輪を神倭と書き、倭をヤマトと呼んだ。神武東征の時期は畿内に初めて多紐細文鏡が出土する前2世紀頃と考えられ、それ以前から「神国」が存在し朝鮮の「辰国」と重なる。
さらに、「延烏郎
細烏女」伝説と同じような記事が垂仁天皇二年に記述され、おそらく174年で新羅王は阿達羅王21年にあたる。
この時期は私の証明する天皇は神国王ナガスネヒコの血を引く物部氏が尾張氏から政権を奪取しており、国名を「日本」としていたと考えられ、神功皇后の時代でも新羅王は神国と呼んでいる。
そして、「日御碕社」の古伝に孝霊天皇の頃紀元前230年頃に辰王が支配する月支国が出雲を襲っているが、まさしく銅鐸国に侵略する出雲を銅鐸国王と同族の辰王が挟撃している様が見えてくる。
そのご、中国の南北朝の頃は日本で扶桑国が皇位を奪取して、神国日本は滅亡し、朝鮮では自治を認めてくれた辰国に変わり半戦闘状態の中国南朝をバックにした伽耶を戦いの拠点にした倭国と高句麗・百済と友好的な扶桑国との等距離外交を行ったと思われる。
晋が記述する言語が秦人に類するとの記述は中国の秦人では中国人の晋の言葉と類していない表現で異様な表現で日本人・神人と類するとすれば現代の朝鮮語と日本語との近さがうかがえる。
松菊里式住居が日本に存在したり、支石墓が縄文遺跡から出土するが、土器文化としては影響を持ちながら一線を画す出土状況は辰王の支配体制を物語る。
『漢書』
真番、辰國欲上書見天子,又雍閼弗通。
『後漢書』馬韓伝
「馬韓・・・南與倭接。辰韓在東・・・弁辰在辰韓之南・・・其南亦與倭接・・・伯濟是其一國焉・・・皆古之辰國也。馬韓最大、共立其種為辰王、都目支國、盡王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。其南界近倭,亦有文身者。
」
『後漢書』辰韓伝
辰韓、耆老自言秦之亡人、・・・有似秦語、故或名之為秦韓。
『後漢書』弁辰伝
弁辰與辰韓雜居、城郭衣服皆同、言語風俗有異・・・其國近倭、故頗有文身者。
『三國志』
魏書三十
烏丸鮮卑東夷傳第三十 韓
「弁辰亦十二國・・・其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之,世世相繼。辰王不得自立爲王。」
「今辰韓人皆褊頭 男女近倭 亦文身 便歩戰 兵仗與馬韓同」
『晉書』卷九十七
列傳第六十七 四夷傳 馬韓 辰韓 弁韓
「辰韓在馬韓之東,自言秦之亡人避役入韓,韓割東界以居之,立城柵,言語有類秦人,由是或謂之爲秦韓」
『梁書』新羅
新羅者,其先本辰韓種也。辰韓亦曰秦韓,相去萬里,傳言秦世亡人避役來適馬韓,馬韓亦割其東界居之,以秦人,故名之曰秦韓。・・・又辰韓王常用馬韓人作之,世相係,辰韓不得自立爲王,明其流移之人故也」
『三國史記』卷第一
始祖姓朴氏,諱赫居世,・・・辰人謂瓠爲朴,以初大卵如瓠,故以朴爲姓,居西干,辰言王或云呼貴人之稱。
『三國遺事』 卷第一
延熹〈戊戌〉九
又與倭國梖嶺。立峴個彌勒大院東嶺是也。
魏滿朝鮮
前漢朝鮮傳云・・・真番辰國欲上書見天子。
馬韓 九夷者一玄菟二樂浪三高麗・・・八倭人・・・海東安弘記云九韓者一日本二中華三吳越・・・」
延烏郎
細烏女
「・・・負歸日本。國人見之曰・・・降在我國。今去日本。故致斯怪。王遣使求二人。延烏曰。我到此國」
『日本書紀』
神武天皇即位前紀 神日本磐余彦天皇。諱彦火火出見。
綏靖天皇即位前紀 神渟名川耳天皇、神日本磐余彦天皇第三子也。
垂仁天皇二年是歳
「意富加羅國王之子。・・・傳聞日本國有聖皇。以歸化之。・・・尋追求。遂遠浮海以入日本國。所求童女者。」
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年 新羅王遥望以爲。・・・乃今醒之曰。吾聞。東有神國。謂日本。
そして、扶桑国に滅ぼされた神国・日本国の末裔の物部氏は531年に政権を奪い返して秦王国日本と国名を戻した。
そして、628年守屋の死亡によって物部王朝は弱体化し、馬子の妃で物部氏の大刀自が炊屋姫の称号で皇位を継いでいたがその死をもって縄文王朝の東鯷国・神国・秦国・日本国の王朝は終わり、その皇子の蝦夷が皇位を継いで倭国としたと思われる。
『隋書俀国伝』
又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
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