2018年2月16日金曜日

最終兵器のミサ 遣唐使

 小野臣妹子は遣隋使と授業で習うが、『日本書紀』に隋は出てこず、「推古天皇十五年 秋七月戊申朔庚戌 大禮小野臣妹子遣於大唐」と唐になっていて、「大唐使人裴世清」と『日本書紀』に記述され、『隋書』に「大業三年・・・明年,上遣文林郎裴世清使倭國」と『三国史記』の「百済本記 武王九年・・・隋文林郞裴淸奉使倭國 經我國南路」と608年に記述されて「隋使裴世清」が共通でだ。
やはり『日本書紀』は間違いが多いと「唐」と「隋」の間違いを主張するのが古代史研究家だが、私は間違いと切り捨てないで、少しばかり検証してみたい。
小野家は珍しく「妹子・毛人・毛野」の3代の記録が残り、特に「毛人」は墓誌が残っていて確実な同時代資料だが、後代に作り直した可能性が無いとは言えない。
『小野毛人墓誌』は「小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」と677年12月に「毛人」を葬し、官位は「太政官兼刑部大卿位大錦上」で、姓は「朝臣」と彫られている。
しかし、「大錦上」は「白雉五年・・・遣大唐押使大錦上高向史玄理」・「天智三年春二月己卯朔丁亥・・・宣増換冠倍位階・・・其冠有廿六階・・・大錦上」・「天武天皇十四年・・・丁卯更改爵位之號仍増加階級明位階淨位四階毎階有大廣并十二階」と654年は制定記事が無く不明だが、664年から685年まで使われていて間違いない。
しかし、『続日本紀』には「和銅七年四月辛未・・・小野朝臣毛野薨小治田朝大徳冠妹子之孫 小錦中毛人之子也」と記述され、「朝臣」は「天武天皇十三年十一月戊申朔 小野臣・・・凡五十二氏賜姓曰朝臣」と684年施行で「そら間違い・偽作」と聞こえてきそうだ。
しかし、将来導入される官位を間違えたり偽造することは有り得ず、後代作成なら「朝臣」を書く必要が無いし、「大錦上」と嘘を彫っても周辺には嘘と知れ渡る。
従って、一番可能性があるのは、「朝臣」施行が677年以前で、実際に「大錦上」だったが、資料がなくなり、『続日本紀』が書けなかったか後で格下げした。
二番目の可能性が「朝臣」施行後作り替え、他は同様で、「大錦上」は実際に「大錦上」だったが、資料がなくなり、『続日本紀』が書けなかったか後で格下げしたと考えられるが、同格の高向玄理は「白雉五年二月遣大唐押使大錦上高向史玄理」と大錦上だ。
地位も「妹子」が「大徳」で最高位、「毛人」が「 大錦上」で7番目「小錦中」なら11番目、「毛野」は「從三位」6番目の大出世で、3人ともみな大出世して、「毛野」は「持統九年七月辛未賜擬遣新羅使直廣肆小野朝臣毛野」と16番目からの特大出世、特に大宝のクーデタ前に5年かけて「文武四年十月己未 直廣參小野朝臣毛野爲大貳」と2階級昇進に過ぎなかった。
ところが、「大宝二年從四位下」・「慶雲二年十一月己夘以正四位上」と3年で14番目から10番目に特進していて、このクーデターは外交がかなり寄与したことが伺える。
そして、「妹子」は遣隋使の時「推古天皇十五年秋七月戊申朔庚戌大禮小野臣妹子遣於大唐」と「大礼」で死亡時に「大徳」と4階級特進しているということは、「遣唐使」で活躍して「遣隋使」の失敗を挽回したか、「遣隋使」の時はまだ若く下っ端で「遣唐使」で活躍した可能性、もちろん、別国の出来事の可能性もある。
「隋」とは「於是設宴享以遣淸 復令使者随淸來貢方物 此後遂絶」と絶縁されてしまったのだから大失敗なのに特進することは有り得ないのに特進しているのだから後者、特に責任者で失敗すればチャンスは有り得ず別国の可能性大と思われ、しかも、「毛野」は714年に大出世して薨しているので、妹子も平均寿命より長くても60才頃死亡と考えられる。
「毛人」は「小錦中 」とするなら高位でもないことから50才頃の死亡とすると、「毛野」は20代の子供で、同じような考えで、「妹子」が20代の子が「毛人」とすると、「妹子」は600年頃の誕生となり、607年の「遣隋使」は子供、30代の子としても外交責任者とは考えられず遣使できない。
「妹子」に随行して留学した「高向玄理」は「白雉五年二月遣大唐押使大錦上高向史玄理」と「大使」より偉い「押使」で「大錦上」の7番目の「毛人」と同待遇で「白雉五年二月押使高向玄理卒於大唐」と654年に渡航先で急死しているので、40代後半の死亡と考えられる。
「妹子」が大使として訪唐した時、「遣於唐國學生・・・高向漢人玄理」と「玄理」が学生として随行し、647年までに「妹子」は「大徳」の地位で死亡し、648年の訪唐から「玄理」が外交責任者になったと考えられる。
「妹子」は630年に「舒明天皇二年八月丁酉大仁藥師惠日遣於大唐」と「 大仁藥師惠日」と共に「遣於大唐」して絶縁状態の唐から「高表仁」が来日して訪唐を成功させ、この時、「玄理」が随行したので640年に「舒明天皇十二年十月乙亥 學生高向漢人玄理傳新羅而至之」と10年後に帰国したのではないか。
「玄理」が608年に訪中していたとしたら、654年の死亡時は70才を超えて、訪中は困難なのは疑いようが無く、仮に責任者とするなら、「紫冠」を与えてもよさそうだ。
「遣隋使 小野妹子」は別人の誰かとまとめて記述したもので、隋に絶縁される失態を犯した人物が「推古天皇十六年四月 小野臣妹子至自大唐 唐國號妹子臣曰蘇因高」と「蘇因高」などと名前を付けてもらって喜んでいる場合ではなく、「舒明天皇二年八月丁酉大仁藥師惠日遣於大唐」と630年の訪唐時に「蘇因高」名を貰ったのだろう。

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