2018年2月14日水曜日

最終兵器のミサ 『日本書紀』は「継体天皇」以降も以前と同じように矛盾し同じように正しい2

 「古田武彦氏」が主張する「九州王朝」を『日本書紀』が無視したりや盗んだとすることを『日本書紀』は否定し、『三国志』や『隋書』は日本を倭国と見て、畿内政権を相手にしないとするどころか中国史書も東に「俀国」と異なる王が存在する「秦王国」を認め、「俀国」と異なる「俀国」の分国のような扱いの「倭国」が「秦王国」に取って代わったと記述して、古田説を否定している。
畿内政権が九州王朝の分国というのは隋や唐初ではその通りだが、古田氏が主張する神武帝からの分国は考え直さなければならない。
磐井以前の筑紫は福岡平野のみ他の九州地域と異なる独特な須恵器を出土し、磐井以後筑後平野に広がっていて、古墳の埋葬法も竪穴と横穴で磐井より前は異なり九州王朝の代表王朝の地位を疑わなくてはならなず、国造という畿内政権の配下の筑紫国と呼ばなくてはならない。
唐は『日本書紀』が記述する白雉元年の儀式に唐の使者が出席し、断交した九州王朝「俀国」ではなく国交のある「倭国」の首都難波宮に招待されたのであり、副都仮説は否定される。
九州王朝「俀国」と断交した「隋」の後継「唐」が使者を「俀国」に送ることは有り得ない。
名実共に日本国内で天皇にはなれなかったが大王の地位を得た「俀国」は中国が王朝交代したとはいえ冊封体制に組み入れられていた臣下であったことを忘れて、対等な天子とおごり隋朝から断交された。
そして、その代わりに「俀国」の分国が「俀国」に代わって歴史ある「倭国」を名乗って冊封体制を継続したが、名目上臣下だと思っていた「新羅」は「倭国」と対等になっており、政策を間違えて「百済」を援助した為に、「唐」の駐留を許すことになった。
 畿内政権は古く「漢」代には「委奴」国とは違う「東鯷国」が存在し、その後、周防を出発して「狗奴」国を「邪馬台国」の東から南に押しやった倭種の国、『梁書』で「宋大明二年 賓國嘗有比丘五人游行至其國 流通佛法」とインドから仏教を学んだ「扶桑国」が存在したと記述した。
『梁書』は同時代の『隋書』に「夷人不知里數但計以日」と記述されるように里単位に矛盾があるが、その理由は倭人の里単位が「隋」と違う里単位を使っていると述べているので、里単位に矛盾があることが解る。
『漢書』・『後漢書』・『三国志』・『梁書』・『隋書』・『旧唐書』は一貫して西に倭国、東に倭種の国が存在し続けたが国交を持ってこなかったのは、冊封体制を拒否した国であったからだ。
『三国史記』ではいつも「倭」と戦っていた「新羅」が『日本書紀』ではあたかも日本の冊封体制に組み入れられているかのように書かれていて同じ「新羅」と見えない。
『日本書紀』が「倭」と一線を画した史書であり、「秦王国」から「倭国」に政権が変わってもあたかもずっと継続しているように記述している。
このように間違いがないと言われる継体天皇以降も『日本書紀』の矛盾を再検討し、遺物を偽作扱いしたりしないで、矛盾の原因を精査して日本古代史を見直さなければならない。

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