2018年3月2日金曜日

終兵器のミサ 「邪馬台国論争」の論文解説6

5.地理的考察
 実際に地図から邪馬台国の福岡市東区説を検証した。

 実際に、唐津から東区まで60Km千2百里で、海の中道経由の東区まででも60Kmと同じで、島めぐりなどと言って半周しなくても、実際は国の領内歩行で「末廬国」内の歩行も含めると距離の残余など無く足りないくらいで、「奴国」の東、「不彌国」の南と絶対動かせない位置を示していた。
 カーナビで調べても、地図で通過点を押さえても距離は60Km松浦・糸島5百里、糸島・不彌百里で残余千4百里の内6百里を費やしてしまった。

古田氏は百里7Kmとしたが、唐津から糸島まで25Kmで5百里、35Kmなら福岡市西区に着いてしまい、「末廬国」や「伊都国」の周旋や地形変化と強弁するのだろうか。(図4)
 古田説の百里7Kmの否定を再度ダメを押した。

『三国志』の古代の一般の読者が普通に感じ取った方法、朝鮮半島南端から水行3千里、しかし船ばかりなら「投馬国」へ水行20日のように3等分する必要が無く、それぞれ陸行があると理解し、陸行は「或絶或連周旋可五千餘里」と歩いて海にぶつかり、船で陸地にぶつかり、曲がりくねって「五千餘里」の行程だと書いている。
 日本海を全て船行を間違いとしないので証拠となる『三国志』の文面から否定した。

行程がわるように、1国の大きさを「對海国」と「一大国」で300から400里四方程度と想像させ、500里・100里と徐々に距離を短くして、最後は「奴国」と「不彌国」で「邪馬台国」の位置を2点で確定し、さらに先の東には倭種、南には「其南有狗奴」と敵対する国があって、さらに南に船でないと行けない、間に敵国がある「投馬国」と、拡がりを描く手法である。
 『三国志』の記述法の意味を考えてみた。

実際の朝鮮半島から松浦半島北端まで180Km程度、そこから福岡市東区まで80Km程度、対馬の比田勝・厳原港間70Km強、壱岐の勝本漁港・印通寺港間15Km強で合計の陸行165Km強、松浦半島中間の唐津港なら3対2の距離となる。(図5・6)
ちなみに、現代の釜山・比田勝航路と厳原・勝本航路は70Km強、印通寺・唐津航路は40Km強で合計180Km程度の3千6百里、唐津・福岡市東区60Kmで陸行145Kmの2千9百里となる。
 実際の地図をプロットして測ったり、旅行パンフレットの数値を記述した。

印通寺・唐津航路の40Kmが少ないと思われるが、古代の航路は『三国志』に「從郡至倭、循海岸水行」と目印を見ながら沿岸航行を行ったと考え、朝鮮から壱岐までは目標に向かって一直線で、松浦半島は入り組んだ沿岸を航行すれば距離50Kmに近づく。
 『三国志』の文例から古代航行の方法を述べた。

すなわち、船行3千里、対馬4百里、壱岐3百里、末廬・伊都間5百里、伊都・不彌間百里で、千戸程度の1国の直径3~4百里で伊都国内不彌国内計7百里と考えれば約5千里だ。
 『三国志』に書かれている距離は国境間の距離しか書いて無いので計算が合わないだけで、領内歩行は当然の加算要因で、実際に唐津邪馬台国間千2百里なのに6百里を記述しているだけだ。

唐津・福岡市東区60Kmに末廬・伊都間5百里、伊都・不彌間百里を除いた何かが加わり、末廬以降に30Km、末廬以前に40Kmの道程が無ければ意味が通らないのが『三国志』の文章で古代中国の読者は領内歩行を補ったと考えられる。
 自分が『三国志』読者なら普通に考えられる論法を示した。

朝鮮から対馬、対馬から壱岐が55Kmで各々千里余、壱岐から唐津は40Kmだが沿岸航行なら50Km程度千里になり、最短距離で測定した参考図では対馬内50Km、壱岐内15Km、唐津福岡市東区間60Kmで合計125Km2千5百里、併せて5千5百里で壱岐方3百里を現在の壱岐の直径15Kmとするとほぼ符合して、百里5Kmを見直す必要が無く証明されたと言ってよい。
 仮説の百里5Kmを導入すると齟齬なく邪馬台国を論証でき、仮説の正しさを証明でき、百里5Kmを説(事実)と呼んでもよいことが解った。あとは、他の論者が私の論理を検証し間違いが無い事が証明されたなら定説となる。










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