最後に皇太子というものがどういうものか考えてみましょう。
皇太子は日本書紀内のほとんどの立太子した皇太子は殺害されなければ次の天皇に即位しています。
聖徳太子は憲法や冠位を決め、実質天皇で、タリシヒコは昼間は弟に政治を任せていて、どうやら、天皇や皇帝は宗教的な儀礼を司って、実務は太子などが実行していると考えてよさそうです。
このように、実質天皇だから死ぬまで地位を脅かされることが無いのですが、立太子する前にすでに太子がいることが多々あります。
たとえば神功皇后は3年に応神天皇を立太子するけれど、元年に日高で太子と会っていて、応神天皇も40年に菟道稚郎子を太子にするけれども、15年にすでに菟道稚郎子は太子になっていて、立太子していない継体天皇には太子妃春日皇女が、用明天皇には「作太子彦人皇子像」と記述されています。
太子がいるのにさらに立太子をするというのは前の太子が死亡したことを示し、死亡した太子は立太子しなくても太子と認められる長男と考えられます。
立太子するのは長男以外の分家の人物が太子になる事と思われ、だから天皇の即位後何年もたってから立太子しています。本当に太子が居なかったのなら、立太子前に天皇が死亡した時には相続争いで王家が亡ぶとおもわれ、分家の太子が権力を集中して本家は宗教儀礼に徹するわけだけれども、分家にも長男がいるのですから、その長男も太子となるため、分家も天皇となり、本家は引退することになります。
当然で、既に実権は分家の王の子に遷っているので、立太子は中途半端な時期に行って、立太子の年齢は応神天皇を除いて13才以上で応神天皇には神功皇后が摂政として補佐しました。
そして、長男が13歳未満の場合は分家が立太子して政権を奪われ、ただし、応神天皇以降は天皇が死ぬまで皇太子の子が13歳以上でも天皇になれなくなったようですが、その代わり家督争いが頻発しています。
すなわち、仲哀天皇以前は立太子が新しい王家の始まりということが解り、古代の天皇の長命は2倍年歴ではなく、独立した宮を作らない代々長男が宮を相続した年数で、もし、2倍年歴なら太子が13歳以下しかなれなくなってしまい、立太子後に直ぐ王が死んだら権力争いが必ず起きます。
このように、皇太子というのは王家の継続には非常に重要な地位で、しかも、日本古代では実質天皇で、631年に高表仁は太子と席順を争ったと記述されるのですが、実質天皇を日本以外の太子と同列に対応すればひと騒動起こるのは当然です。そして、俀国も天智天皇の家系なのですから、タリシヒコが弟に委ねた人物、もう一人の皇帝こそ皇太弟リカミタフツリその人で聖徳太子、そして出家して聖徳法王・上宮法皇と呼ばれた人です。
皇帝の名前を書いて、天子と同等のもう一人の天子の名前を書かないのは片手落ちに感じますが、所詮地方政権なので、仏教に帰依して聖人の言い伝えはリカミタフツリとおもわれるのですが、憲法制定や冠位制定の人物は畿内政権の廐戸皇子と思われます。
『三国志』でも官名がばらばらだったのは、30国を実質邪馬台国が支配していたけれど、畿内の政権が名目上の支配者だったからで、畿内政権のミミやヒコほか独特の冠位をもって、邪馬台国の領地には三角縁神獣鏡が出土したり、前方後円墳が有ったりと畿内政権の権威を受け入れているのです。
しかし、『日本書紀』は倭国の功績を記述していないということは、『日本書紀』作成時の畿内政権の資料をとりいれて、卑弥呼記事や釈迦像など以外、ほぼ倭国の東側の畿内政権の歴史を記述していることがわかります。
さらに、『日本書紀』以降の聖徳太子はこれら何人もの太子を一まとめにした人物として記述しているので、特定の人物としては聖徳太子はいなかった、架空の人物ということになります。
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