6.邪馬台国論争の終焉
⇒ 邪馬台国論争など必要なかったことを述べた。
長い年月の間決着がつかない「邪馬台国論争」だが、決着がつかないのは前提、すなわち、『三国志』は間違いという前提が間違っていて、『三国志』が正しければ結論は決まっていたのであり、しかも、この結論をすでに論証している文献が存在し、それが『日本書紀』である。
⇒ 邪馬台国論争は論争の前提が間違っていたから論証できなかったのであり、『日本書紀』は躊躇なく邪馬台国の首都は香椎宮と述べていた。
『日本書紀』は「神功皇后紀」の「皇后39年」と「景初三年」239年、「皇后40年」と「正始元年」240年、「皇后43年」と「正始四年」243年に対応させて記述し、「一云足仲彦天皇居筑紫橿日宮」と東区にある橿日宮に宮を置いた伝説があったと書き、「猪野皇大神宮」の近辺の山田邨で斎王となって、「八幡」信仰は神功皇后の武功から始まっている。
⇒ 『日本書紀』は『三国志』の内容を『日本書紀』の干支が実際に合うように正しく埋め込んだことを述べた。
ここにも「山田猪」国があるが、落語のオチのような「山田イ・ロ・ハのイ」国でもあるまいし、いくら猪之国王と『後漢書』の「光武賜以印綬」の金印にあいそうでも、私は「邪馬台国論争」の原因の字面遊びを止めておく。
⇒ これも皮肉で字面で論証しなくとも邪馬台国の論証ができたことを述べた。
まさしく、従来は神官に祀らせた神を王自らが神主となって祀る、『魏志』に書く「鬼道」すなわち、王が神との仲介者となり王の言葉が神の言葉とし、「香椎宮」には仲哀天皇陵と言われる円墳が有り、同時代に円墳が有ったことがわかる。
⇒ 『三国志』などの中国史書が言う鬼道の意味をを述べ、『三国志』の邪馬台国と香椎宮の整合性を述べた。
「神功皇后紀」の前代「成務紀」には国境を「則隔山河而分國縣」と山河で分け、国境間の距離0里の川幅の証明もされ、「隨阡陌以定邑里因以東西爲日縱南北爲日横山陽曰影面山陰曰背面」と太陽光を使って測量しているが、この測量に中国からもらった高品質な鏡を使ったことは十分考えられる。
⇒ 不彌国南邪馬台国の国境間に距離が無い意味と正しさを『日本書紀』の文面から証明し、鏡が必要だった意味を推論した。
さらに、「即以皇后所杖矛」と矛が記述され『三国志』の「兵用矛楯」と対応し、博多周辺の遺跡の豊富さは今更言及する必要もなく、「7万余戸」の大都市を疑う余地がなくて、そもそも、「7万余戸」の弥生時代の大都市はそれほど候補地があるわけがなく、遺跡状況からも畿内か福岡平野ぐらいしかない。
⇒ 『三国志』の記述内容と『日本書紀』の記述内容の同一性を述べ、邪馬台国の候補地の限定性を述べた。
そして、遅くとも8世紀に、『三国志』を読んだ『日本書紀』の記述者は『旧唐書』で「其人入朝者
多自矜大」と自国を巨大に述べ、短里を使用していたと考えられ、「不彌国の南は東でなく南で正しい、萬二千里の地は香椎宮にあたり、神功皇后の時代の話」と感じ、『三国志』の「邪馬台国」の首都を「香椎宮」と理解し、「邪馬台国」の首都は「香椎宮」だと証言していて、「邪馬台国論争」は既に終わっていたことが証明されていた。
⇒ 『日本書紀』の著者がまだ短理を使い、短理で『三国志』を読んだため、邪馬台国の首都を香椎宮としたと述べた。
この証言は、大和朝廷自らが認めた、邪馬台国が畿内になかったから仲哀天皇だけ穴門や香椎、御笠の松峽に宮を遷し、特に香椎は一説にして、「卑弥呼」は大和朝廷の人物でないことを証言した。
「卑弥呼」が゙大和朝廷の「倭媛」などなら隠す必要が無く堂々と「倭媛魏志云卑弥呼」と書けばよいのだ。
⇒ 大和朝廷と邪馬台国は別国という証拠で、私は『日本書紀』を書いた政権は「倭国→日本」の政権ではなく、701年にクーデターで政権を奪った中臣政権だと論じている。
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