また、武内宿禰の記事が3百年にわたって記述されているのですが、これも、挿入場所が違う王と武内宿禰の対応記事に齟齬をきたしたと思われます。
さらに、平群大臣の子鮪の事件も古事記では清寧紀に記述されているのですけれど、日本書紀では武烈紀に記述されてやはりズレています。
三国史記にも卑弥呼の新羅訪問が、「奈解尼師今」に挿入すべき記事なのに、「
阿達羅尼師今」に挿入してしまったと思われ、編年体の史書がないと基準が解らないため挿入場所をどうしてもズラしてしまうと思われます。
日本書紀は編年体風ですけれど、それ以前の『古事記』も『先代旧事本紀』も中国史書も紀伝体で書かれていて、本来『日本書紀』も紀伝体で書かれていたものを、天智天皇の家系を基準にして畿内の天皇の系図や歴史に多くの氏族や大王の歴史をまとめ上げて、それに後ろから順に干支を張り付けて主語を変えた史書が『日本書紀』なのではないでしょうか。
『日本書紀』の干支を調べると、ほとんど正しくて、たまに大の月と小の月による間違いやたまに全く違う干支が挿入されているのに、また正常に戻っており、これは、端々に正しい干支を残した資料があるから正しい干支に戻すことができていることを示している。
神武天皇から王が宮で即位して何年経過して立太子し、何年間宮に在位したと書き綴った中国冊封体制下の記録があり、その記録が中国の史書の元号と対応していたため、日本の標準時計となり得たと思われます。
しかし、畿内政権が中国と没交渉で基準となる時計が無かったために、日本書紀は真の日本史からズレた記述がなされてしまい矛盾だらけになってしまいました。
そして、どうして天智天皇かというと、631年に高表仁が倭にやってきて難波で太子と会っていて、すなわち、631年以降畿内も倭と呼ばれ、670年に「倭名更號日本」と国号を変更しているからです。
日本は元筑紫にあった小国だったけれど、とうとう131国を支配する天皇の地位を天智天皇が手に入れたのですが、日本書紀に書かれない667年までの中宮天皇までは天智天皇や元明・元正天皇にとっては正式な天皇ではなかったのではないでしょうか。
天智天皇が太子で摂政として実権を握っていたとしなければならなかったので、天智天皇は記述したけれども、中宮天皇を正式な天皇と書かなかった理由は違う場所に小治田天皇を記述してしまったからで、摂政にはかならず天皇が別に存在します。
日本書紀の推古紀には推古天皇、タリシヒコ、推古天皇の太子、リカミタフリ、彦人太子、その他の同時代の王がごった煮のように混在し、あたかも、1人の天皇、1人の太子として記述されたと思われます。
したがいまして、聖徳太子は廐戸皇子、豐耳聰、聖徳、豐聰耳法大王、法主王などの何人かが集まった人物で、おそらく、タリシヒコが法興帝と呼ばれたのだからリカミタフリが「聖徳」太子と呼ばれたとかんがえられます。
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