2018年3月26日月曜日

終兵器のミサ 邪馬台国論争のレクイエム2

 日本書紀・古事記・三国志を比較すると、魏志倭人伝はどう見ても壱岐・対馬、松浦、伊都そして蘇の付いた国名が華奴蘇奴国・對蘇国・蘇奴国が出現し、武器は矛で九州の歴史資料館にいけば矛はあふれかえっていて、伊都などまさに景行天皇の時に伊蘇から伊都に名前が変わった時期にあたります。
伊岐と一大國は同じでしょうが、中国が知っている国名と古事記が知っている国名にズレがあることを物語っているということが解かります
そもそも、「邪馬壹國」が古事記の地名でどこかわからないし伊支馬などという官名は古事記にも日本書紀にもないのです
中国の使節張政は邪馬台国に遣ってきて、実際に見て、聞いて、硯が出土しているのだから文字として読んでいるかもしれないが、どうして記紀に無い国ばかりの史書倭人伝と記紀を関連付けてきたのでしょうか
もちろん、日本書紀の記述がそれをにおわせる神功皇后に「晉起居注云」や「魏志云」を付加しているからで、あたかも神功皇后が卑弥呼だと言わんばかりに表記しています
当然、卑弥呼は独身で死んでいるので子供までいる神功皇后とは別人で壹與に充てているのだろうが古事記には中国との関連が全くなく、雄略天皇時に南朝の呉人来日が出現するだけで古事記にはどこをどう探しても魏朝中国が出てこずにあまり大陸との交流に関心がなく無視しているようにさえ思われます
もう少し魏志倭人伝と古事記の違いを見ていくと、魏志倭人伝では宮室には物見やぐらと柵があって常に兵が守り、矛・盾・木弓で守っていると書いています
 そこで、古事記ではどのような武器が出現しているかしらべると、例えば同時代と宣言している神功皇后以前の武器を見ると、古事記で剣13例、刀が65例、矛1例、釼5例と圧倒的に矛の数が少ない。
剣・刀等の多くは実際に武器として使用・携帯していて矛の神事の出現とかなり異なり、中国の使者は矛と刀・剣と見間違えたか、省略したのか、見分けがつかないのか、すくなくとも中国ではすべてまとめて矛と言っているはずがないのです
なぜなら矛も剣も漢字なのだからその種類を間違えるはずがなく、もし古事記の作者が見分けられなかったなら草那芸剣を一度ぐらい草那芸矛と書いてもよさそうで、まさか護衛が武器ではなく祭器で恰好だけつけているとは考えられません
 そして、一番の疑問は大国・豊国が魏志倭人伝に登場しないことで、私は大国主・豊国主の「主」は「爾支」と理解しているのですが、伊都國爾支があるのに大国主・豊国主が登場しないと言うことは、この3世紀の時点では邪馬台國の領域は豊国・大国に及んでいないと言わざるを得ず、もちろん主と爾支が違っていても変わりがなく、主に似通った官名が無くて古事記が対象としている倭と「邪馬壹國」が別物であるということで
すなわち、古事記は邪馬台国と一線を画した史書であると言えそうで、青銅器の遺跡分布でも瀬戸内は銅剣の出土地帯となっており、九州の銅矛圏とは異なっていて、大国の神話で刀が出現するというのは遺跡状況と合致して九州王朝説のように武器型で一括りにして口を濁すわけにはいかず、最後には接続する棒の長さで剣と矛を分類すると言いたい放題ですがその証拠が有りません。大国で矛と銅鐸がまとまって出土した遺跡があるが大国・出雲の地域に古事記では矛や銅鐸の説話がなくて本当に武器として使ったかはわからないのですが、古事記の矛は祭器で出現して八千矛神と大国主が言われているのですが祭器として矛盾はないし、奪った祭器をまとめて埋めたのかもしれないのです
なお、ここでは矛と非矛で記述したのですが、少なくとも現代の三種の神器は天沼矛でなく草薙剣・草那芸之大刀・天叢雲剣と呼ばれていて剣と刀を区別していないし、神事でも矛と剣をあいまいにはしていないので非矛をまとめました。

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